第13話 大江山

 2月29日。日本中を大きく揺るがした、「二・二六事件」は、隊を率いていた多くの将校の自害、あるいは降伏によって鎮静化したが。

 首都、東京には引き続き「戒厳令」が敷かれ、その命令は7月まで続いた。


 一気にきな臭くなる中、情勢もまた日に日に暗くなっていった。

 この頃から軍の「検閲けんえつ」が入るようになり、かつて隆盛を誇った銀座のカフェー文化やエロ・グロ・ナンセンスと言った明るい風潮も、軍による取り締まりを受けるようになっていく。


 世は「戦争」に向かって、遮二無二突き進んでいるようにも見えた。


「つまらん世の中じゃのう」

 絹は、そんな情勢を見ながら、そう嘆息していた。


「神様でもそう思うの?」

 そう問いかける保重に、狐でありながら人間臭さを持つ彼女は、


「当たり前じゃ。神でも人でも、『娯楽』は大切なものじゃ。それを上から押しつけられては、窮屈で仕方がない」

 そう、独自の考えを展開していた。


 そんな中、絹がついに動く決意を固める。

「大江山に行くぞ」

 4月。暖かくなったことを待っていたかのように、彼女が号令をかける。


 直接、大江山に向かい、酒呑童子の正体を見ることになった。

 戦力になる、猫又の小梅と雪女のお雪を連れて行くことになり、四人は汽車で西へ向かい、大江山を目指すことになった。


 だが、一人残されることになった、座敷童子の茶々は、不安そうに顔を歪めていた。

「保重のお兄ちゃん。あたし、嫌な予感がするの。行かないで」

 そう言って、その小さな手で、必死にすがるように、保重に訴えかけてきたが。


「茶々。君は『家を守る』妖怪なんだ。留守を守ってくれ。怪しい奴が来たら、遠慮せずに、思いっきりいたずらしてやるんだよ」

 そう言って、保重は彼女の小さなおかっぱ頭を撫でる。


 渋々ながらも、茶々は頷いて、彼らは、東京駅から汽車に乗った。


 乗ったのは、特急「燕」。当時、東京―大阪間を8時間20分で駆け抜けた、当時としては「最速」の交通手段だった。


 車中、移り行く景色を眺めながら、古風な狐が感慨深げに呟いた。

「すごいのう。東京から大阪までわずか8時間とは。時代はどんどん変わるのう。かつては、2週間もかかったものじゃが」


 それを聞いて、保重は、

「一体、いつの話をしてるんだい? 江戸時代じゃないんだから」

 と笑っていたが、絹をはじめ、小梅もお雪も少し不安そうに表情を暗くしていた。


 その理由は、

「わらわは、この先が心配なだけじゃ。こうして、人はどんどん便利になっていく。数十年後、世に光が満ち溢れ、闇に生きる者たちはいずれ居場所を失い、この世界から消えて行くであろうな」

 絹の言葉が全てを代弁していた。


 つまり、文明の極端な発達により、「光」ではなく「闇」に生きる妖怪、物の怪、妖と言った類の者たちは、いずれ「生きるべき居場所」すら失うだろう。

 それは、未来を見通すことはできない「絹」が、しかしながら感じていた「予想」だった。

 事実、この時代が妖怪たち「闇に生きる者」たちにとっての最後の時代になる。


「ところで、絹は酒呑童子をどう見ている?」

 長い車中、その話を振る保重に対し、彼女は、


「酒呑童子は、知っての通り、平安時代に暴れた鬼の大将じゃが、源頼光によって退治された。その時は、酒好きの酒呑童子に、毒の入った酒を振る舞って酔い潰れている間に、首を斬って倒したと言われておるが」

 と前置きした後に、


「普通に考えれば、別の酒呑童子じゃろう」

 と明言するように、断言した。


「別のって言うのは?」

 小梅の問いに、彼女は首を縦に振り答える。


「うむ。恐らくじゃが、奴の子供か、あるいは子孫か」


「子孫? あちきのように、酒呑童子も子供を作っていたということでありんすか?」

 お雪が反応する。


「そうじゃ。鬼とはいえ、子孫は残そうとするじゃろう? 恐らく酒呑童子が死ぬ前に作った子か、その子孫というところじゃろう?」

 絹は、そう言って笑顔を作っていたが、保重はこの旅に、妙な「胸騒ぎ」を感じていた。


 それは、茶々と同じような「何だか嫌な予感がする」という、具体性のない直感に近いものだったが。


 やがて、終点の大阪で汽車を降りた一行は、そこからは福知山ふくちやま線に乗り換える。

 この路線は、明治三十二年(1899年)に、大阪から福知山南口まで開通していたが、明治三十七年(1904年)、来る日露戦争に備えて、対ロシアの軍用鉄道として、当時、日本海側の重要拠点だった、海軍の拠点、舞鶴まいづる鎮守府ちんじゅふまで官設で強引に開通させ、この頃には、大阪から舞鶴まで開通していた。


 福知山で一泊した後、翌日からは、いわゆる乗り合いバス(現在の路線バス)に乗り換える。当時、昭和五年(1930年)に鉄道省が省営自動車事業(国鉄バス)を開始しており、全国にバス路線が発達。

 ボンネット式の40人クラスのバスがあった。


 もっとも、目指す大江山は、京都府の山の中にあるため、そこまでは伸びておらず、途中からは徒歩になったが。


 大江山は、京都府の北西、丹後たんご半島の付け根にあり、元は旧国名の丹波たんば国(現在の京都府中部)と丹後国(現在の京都府北部)の境界線あたりにあった山で、山腹には原生林が広がり、山頂には笹の原が広がっている。


 標高は約832メートル。


 平安時代の一条天皇の時代、京都の若者や姫が度々、神隠しにあったという。安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼(=酒呑童子)の仕業とわかった。

 そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌ふじわらのやすまさらに征討に向かわせた。


 頼光らは、山伏を装い、鬼の居城を訪れ、一夜の宿を取らせて欲しいと頼む。酒呑童子は、都から源頼光らが討伐に来るとの情報を得ていたので、警戒し、色々と詰問をするが、何とか疑いを晴らし、酒を酌み交わすことになる。


 そして、頼光らは、「神変奇特酒」という毒酒を振る舞い、武具で身を固めた酒呑童子の寝所を襲い、体を押さえつけて、酒呑童子の首をはねた。


 一行は、首級を持ち帰り、京都に凱旋。その首級は帝自らが検分した後、宇治の平等院の宝庫に収められたと言われている。


 これが一般的に知られている「酒呑童子伝説」であった。


 険しい山道を登っている間、絹は、

「ともかく早う酒呑童子を止めねば、間違いなく人類の敵になる。なんとしても倒すのじゃ」

 と、悲壮感が漂うような雰囲気で、呟いていた。


「わかってる。私もあいつの危うい妖気を感じる」

「そうでありんす。今、止めないと、悪いことが起こりそうな気がするでありんす」

 二人の妖怪も、何か得体の知れない恐怖感を感じているようだった。


 もちろん、保重もまた強力な妖気を全身に感じていた。


 やがて彼らは、大江山の山頂に達した。


 そこには「人あらざる者」だけが放つ、異様な妖気が集まっていた。複数の「物の怪」の気配が、山全体を包み込むかのように、異様に広がっている。


 山頂の広場のようになっている部分に、一際目立つ大男が鎮座していた。

 赤黒い顔と、赤くて長い縮れた髪の毛。鋭い牙と角を持ち、腰には日本刀を差していた。身長は2メートルは優に超えている。

 その体からは、凄まじい妖気を発しており、一行が見たこともないような、他を押しつけて、息苦しくなるほどの妖力を感じる。


 その男が、酒呑童子であった。

 しかも、驚くべきことに、彼は多数の妖怪を傍に率いており、その妖怪たちがまた異様であった。


 火のついた車輪の化け物である「片輪車かたわぐるま」、一見すると美しい着物を着た女に見えるが、蜘蛛の影が見える「絡新婦じょろうぐも」、般若のように恐ろしい顔つきの「山姥やまんば」、喉に紫色の筋があり人一倍長い首を持つ「ろくろ首」など。

 それ以外にも多数の妖怪が集まって、酒宴を開いていた。


 怖気づく保重だったが、ここは絹に任せることにした。

 彼女は、あらかじめ「策」を持って、ここに来ていた。


 つまり、かつてと同じような手段を使うのであった。

「やあやあ、酒呑童子様ではありませんか」

 狐の姿のまま、絹が陽気に声をかける。


「む。誰だ、貴様は?」

 と鋭い眼光を向けて来る酒呑童子に、彼女は、


「わらわは、妖狐。こやつらは仲間の小豆洗あずきあらい、猫又、雪女じゃ。わらわたちも仲間に加えて欲しい」

 と、仲間を偽って紹介していた。保重は、小豆を洗うという「小豆洗い」と紹介されていた。


 そして、持ってきた毒酒を勧める。それにはあらかじめ採取しておいた、毒が入っていた。

 筋書通り、その酒瓶を持って、酒呑童子に近づく絹だったが。


「ふっ」

 と一声笑うと、その酒瓶を、腰から引き抜いた日本刀で素早く割っていた。


 酒の汁が辺り一面に飛び散る。

「ふははは。愚かな奴らよ。ぬらりひょんをやったのはお前たちだろう。それに、二度と同じ手は食うものか。俺は、酒呑童子。かつて平安の頃に倒された、我が先祖と同じようにはいかんぞ」

 そう言って、高らかに笑い声を上げていた。同時に、ぬらりひょんを倒したという情報もどこかから漏れていた。


 絹の予想通り、この酒呑童子は、平安の頃に倒された酒呑童子の子孫だった。代々、酒呑童子と名乗っているようだった。


 周りにいた妖怪たちも反応して、同じように不気味な笑い声を上げる。

「やはり、一筋縄ではいかんか」

 予想を裏切られた形になった、絹は、一行に合図を送る。


 左手に錫杖を構え、右手に万年筆を構える保重。爪と牙を研ぐように身構える猫又の小梅。口から今にも氷を吐きそうな雪女のお雪。そして、狐の姿で、今にも飛びかからんと身構えている絹。


 すでに進退極まった形になっており、自然と戦闘が開始された。


 四人は思い思いの形で戦い始める。

 絹が、結界を張るように動き、小梅が鋭い爪と牙で襲いかかり、お雪は氷を吐く。保重は地面に五芒星を描く。


 だが、そのいずれの攻撃も酒呑童子の前には、無意味だった。

 小梅は、日本刀を抜いた酒呑童子によって、簡単に弾かれ、かろうじて爪で攻撃を防ぎ、お雪は氷の攻撃を、口から火を噴いた酒呑童子に止められていた。


 一方、結界を張るはずの絹は、周りにいた多数の妖怪たちに動きを阻害されて果たせず、保重もまた五芒星を描く前に、妖怪たちの妨害にあって果たせずにいた。


 まるで歯が立たない四人に対して、酒呑童子は、大仰に笑い出した。

「この程度で、俺を倒そうと言うのか。なめられたものよ」


 言うが早いか、鬼の形相の酒呑童子は、日本刀を振るい、同時に酒を一口飲んでから口から火を噴いた。


 その攻撃が次々に、小梅とお雪に当たり、二人の妖怪はたまらずに後退したが、そこへ他の妖怪が寄ってたかって、攻撃に入る。


 それは「なぶる」ような、執拗かつ強烈な攻撃であり、たちまち小梅とお雪は傷つけられて、悲鳴を上げていった。


「小梅! お雪!」

 咄嗟に彼女たちを救おうと、保重が動き出すと、その前に酒呑童子の巨体が立ち塞がっていた。


「おっと、行かせんぞ。貴様は、ここで死ね」

 酒呑童子は、日本刀を振りかぶった。


 咄嗟に保重は、九字の呪文を唱え、錫杖を構えた。

 五芒星は完成していなかったが、これは一種の賭けで、自分の陰陽師としての力を試してのことだったが。


 その前に、彼の目の前を、白狐が横切った。


 あっと思った瞬間、酒呑童子の日本刀が絹の体に当たり、彼女は斬られていた。辺り一面に赤い鮮血が飛び散る。

 絹はそのままなす術もなく、地面に落下し、動かなくなっていた。


「絹!」

 目の前で起こった惨劇に、保重が言葉にならない苦悶の表情を浮かべる中、


「逃げろ、保重……」

 最後の力を振り絞ったような、弱々しい声を彼は白狐から聞いた。


(このままでは殺される)

 咄嗟にそう思い、絹の体を抱えて、逃げようと思った保重だったが。


 見ると、先程まで地面に横たわっていた、絹の姿がどこにもなく、そこには血の赤い色だけが不思議と地面に残されていた。


「絹っ!」

 再び叫ぶも、もう彼女の声も気配もどこにもなかった。

 もう彼女の気配すら感じることができなくなっていた彼だったが。


 よく見ると、絹がいた辺りに手紙のような紙片が落ちていた。

 それを素早く手に取ると、そのままの勢いで、残った二人に命じた。


「撤退だ!」

 瞬間、猫又と雪女は、負傷しながらも最後の力を振り絞って、妖怪たちを振り切り、動き出した。


「貴様ら、待て!」

 追いかけて来る酒呑童子や多数の妖怪の群れ。


 何とか必死に彼らをかわすように、死に物狂いで山を駆け降りる彼らだった。


 やがて、ようやく山裾にたどり着いた頃。後ろからの妖怪の気配は消えていた。


 だが、ボロボロに傷ついた三人の姿は、悲惨なものだった。

 保重は、絹が命がけでかばったため、手傷こそ負っていなかったが、全身が泥のように疲れ果て、衣服も汚れていた。

 小梅は爪を深く傷つけられ、二本生えていた牙も一本が折れていた上に、体のあちこちに斬られたような傷跡が生々しく残っていた。

 お雪もまた、着物ごと斬られ、血を垂れ流しながら、憔悴しきったような表情をしていた。


 そして。

「絹はどうしたんだよ、保重くん」

 そう、問いながら、小梅が保重の襟首を掴んでいた。


「絹は……。あいつは死んだよ。酒呑童子に斬られ、姿が消えていた……」

 やっと、それだけを絞り出すように口に出した保重。彼の瞳から大粒の涙がこぼれていた。


「そんな……」

 お雪が声にならない声を上げて、膝を突いていた。


「あの不死身の狐がやられるなんて……」

 普段は、喧嘩ばかりしているはずの小梅もまた、あまりの衝撃的な結果に、目頭を赤く染めていた。


「とりあえず、一旦、福知山に戻ろう。傷の手当てもしないと……」

 そう弱々しい声を発し、重い体を動かした保重。


 ふと、手に持っていた紙片を思い出し、それを開いて見てみると。

 それは、よく見ると「手紙」だった。それも保重宛に書かれてあった。


 それを読んでみると。

「保重。おぬしがこれを読んでおる頃、わらわはもうこの世にいないであろう。じゃから、よく聞け。おぬしは、京都の鞍馬くらまにいる『賀茂喜助かもきすけ』という男を訪ねろ。そやつがおぬしを導いてくれるはずじゃ」

 それだけが書かれてあった。


(この口調、書き方。間違いなく絹だ)

 彼女が、この世の最期に残した「置手紙」。そう受け取った保重は、福知山の宿に戻ると、その手紙を二人に見せるのだった。


 ところが、憔悴しきって、生きたまま死んでいるような表情の保重には、生気がなかった。


「もう絹が死んだ以上、僕には何もやる気なんて起きないよ」

 そう言ったまま、手紙を投げ捨てる保重に、小梅の鋭い声が轟いていた。


「それ、本気で言ってるの、保重くん」

「ああ」


 小梅は、保重が見たこともないような、恐ろしい猫又の化け物のような、戦慄すら覚える鋭い目つきを向けて、言い放った。


「見損なったよ! あいつがいなくなったくらいで、そんなにやる気をなくすなんてね」


 だが、保重にはもう気力なんて残ってはいなかった。

「もうどうでもいいよ。どうせ僕には、力なんてないんだ。後のことは警察にでも任せるさ」

 だが、今度は、お雪がいつのまにか目の前に立っていた。


 彼女は、それこそ伝説で語られる雪女のように、冷たく、この世のすべてを拒絶するような、氷のような視線を保重に向けていた。というよりも、それは見下しているような視線だった。


 そして、そのまま保重の頬を思いきり、平手打ちにしていた。

 激痛が頬を走る中、彼は思いも寄らない物を見る。

「保重さん。あんたがそんな人とはあちき、思いませんでした……」

 お雪は泣いていた。


 涙の線が頬を伝い、地面に落ちていた。

 こんな表情の彼女を、保重はもちろん一度も見たことがなかったし、同時にこんなに激しく感情を露わにする彼女もまた初めて見ていた。


 頬に走る痛みよりも、そのことの方が彼には衝撃的だった。


 保重は、考え込む。

(だが、絹がいない以上、僕はどうすれば。考えてみれば、僕は彼女に頼りきっていた。これまでは、彼女がいたから何とかなっていた)


 そう過去の出来事を振り返っていた。

 いつでも傍にいてくれた、神のような存在の白狐。

 何かあれば、必ず助けてくれるし、能力を頼れば何でも出来た。


 その存在は、すでに「彼の中」で大きな物になっており、かけがえのない存在になりつつあった。


 それだけに、その喪失感は半端なく、彼の心は行き場を失っていた。


「わかった。じゃあ、保重くんはそこで腐っていればいいよ。私がその賀茂って奴のところに行ってきてやるから」

 ついに、小梅が苛立ったような視線と表情で彼を見下ろし、お雪もまた、


「あちきも行くでありんす。こんな男に任せてはおけないので。それに、この書き方、何か気になるでありんす」

 と、呟いていた。彼女もまた、何かを感じ取っているように見えた。


 しばらく俯いたまま、ただ黙っていた、保重だったが。

 やがて、大きく嘆息すると、全てを諦めたような表情で、こうこぼした。


「……わかったよ、二人とも。ひとまず行くだけは行ってみよう」

 今の彼には、それだけで精一杯だった。


 ようやく二人の妖怪の表情が少しだけ晴れていく。


 数日、ここで休んで治療を終え、ひとまず温泉に入り、疲れを癒してから、彼らは京都を目指すことになった。


 だが、「絹」という大きな存在を失ってしまった、保重には、かつての陰陽師としての力自体が失われているようにも見えるほど、傍から見ても弱々しい、ただの人間にすら見えるのだった。


 絹のいない世界で、保重の新たな「旅」が始まる。

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