第11話 二・二六事件の影(前編)

 それから半年あまりは、順調だった。


 「妖怪屋」としての仕事は、そこそこ舞い込んで来たが、それほど凶悪な事件には遭遇せず、順調に金を稼いでいて保重は、これが「座敷童子の力」と思い、懐が暖かくなるに連れて、余裕も出てきており、穏やかな日々に満足すらしていたが。


 世は、混沌の世界へと突き進む。


 年が明け、昭和十一年(1936年)になっても、平穏な日々は続いていた。


 ところが、2月25日。絹は、その日、どこかそわそわしていて、落ち着きがなかった。

 保重が聞くと。


「うむ。何やら胸騒ぎがしてのう。悪いが、今日は早めに休ませてもらう」

 そう言って、絹は早々に寝床に着いてしまった。


(未来が読めない狐でも胸騒ぎはするのか。あるいは、白狐特有の予知能力か何かなのかな)

 保重は、呑気にそんなことを考えていたが。



 翌日。

 昭和十一年(1936年)2月26日早朝。日本史を揺るがす大事件がこの帝都で起こるとは、保重にも絹にも思いもしなかった。


 午前5時を少し回った頃。

「起きろ、保重!」

 突然、絹に叩き起こされるような形になった保重が、不満そうに、


「うーん。まだ朝の5時じゃないか。早すぎるよ。寒いからもう少し寝かせてくれ」

 そう寝ぼけた顔で呟いたが。


「大変じゃ。とにかく起きろ。遠くで何かが起こっておる!」

 絹に強引に起こされた保重は、不機嫌になりながらも起き上がり、寝間着から普段着に着替え、錫杖を持って、居間で待つ絹の元に向かった。


 絹は、天耳通と他心通を使ったようで、珍しく何かに怯えたような、心細げな表情をしていた。


 すぐに転移する絹。


 向かった先は、日本の政治の中枢部だった。

 麹町区永田町、及び霞ヶ関(現在の千代田区永田町、霞が関)。今も昔も日本の政治の中心がここにある。


 そのうちの大きな洋館の屋根の上に彼女は転移した。そこは陸軍省の建物の屋根の上だった。目の前には出来たばかりの新しい国会議事堂(現在の国会議事堂)が見える。


「寒い!」

 当日は、朝から雪だった。まだ夜も明けていない真っ暗な闇の中を、しんしんと白い粉雪が舞い降りており、寒い朝だった。


 だが、その寒さを凌駕する、とんでもない出来事が目の前で展開されていた。


 兵士だった。それも無数の兵士の群れである。


 辺りからは、その無数の兵士が放つ、怒号や喚声が轟き、さらに時折銃声も聞こえてくる。


 二・二六事件。


 と、後に呼ばれることになる歴史的事件の発生だった。


 陸軍皇道派の青年将校が率いる、陸軍第一師団の第一歩兵連隊、第三歩兵連隊、そして近衛このえ歩兵第三連隊の兵士、約1500名あまりが、武装して政府中枢を攻撃。


 主な攻撃対象になったのは、総理大臣官邸、斎藤まこと内大臣私邸、高橋是清これきよ蔵相私邸、鈴木貫太郎かんたろう侍従長じじゅうちょう官邸、渡辺錠太郎じょうたろう教育総監私邸、陸軍大臣官邸、警視庁、そして湯河原にある牧野伸顕まきののぶあき前内大臣の逗留先の旅館など。


 しかも、兵士たちの一部は、機関銃などを持つ重装備だったという。現役の兵士たちの巨大な反乱に、あっという間に永田町、霞ヶ関一帯は占拠されることになる。


 まさに日本史上、類を見ないほどの「反乱」だった。


 屋根から見下ろす彼らの目には、無数の兵士が雪の中、次々に喚声を上げながら、建物を襲撃している様子が映っていた。


「おいおい、これは何だ? 一体何が起きてるんだ?」

 眠気が一気に醒めてしまい、食い入るように目の前で展開される惨劇を見つめる保重。


「反乱じゃ。青年将校が蹶起けっきしたな」


「大変じゃないか。どうするんだよ?」


「どうするもこうするもない。この国の行く末を見守るしかない」

 絹はそう達観したように呟いていたが。


 ややあってから、表情を一変させた。

「む。あれを見ろ」

 その視線の先に兵士たちがいた。


「兵士たちが何か?」

 その陸軍兵士たちの目を絹は見ていた。


「どの目も、赤く光っておる。あれは『物の怪』に操られておる目じゃ」

 保重が目を凝らすと、確かに夜目で見にくいが、どの兵士たちの目も異常に赤く染まっているように見えた。


 それは昨年の、相沢事件での相沢中佐の目に似ている。しかもどの兵士も異様に殺気立っているようにも見える。それがこの「赤い目」の影響なのか、それとも反乱によって、殺気立っているためかはわからなかったが。

「だけど、玉藻前は完全に倒したじゃないか?」


「倒したさ。じゃから、これは別の『物の怪』が操っておる可能性がある」

「まさか」


 さすがににわかには信じられない保重だった。兵士は1000人以上もいると思われたから、それだけの兵士を操ることができるのか、と思っていると。


「出来るな。いや、わらわには心当たりがある物の怪がおる」

 心を読んだ絹に機先を制されていた。


「誰だい、それは?」

 その問いに、絹は、どこか憎たらしい物でも見るかのように、表情を歪めて呟いた。


「ぬらりひょんじゃ」

「ぬらりひょん?」


「ああ。人を操るのにけた物の怪でな。ある意味、玉藻前以上に手ごわい。あやつが戦争を起こそうとしておるのやもしれん」


 絹の説明によると、「ぬらりひょん」は人の心理につけ込むのが非常に巧みな妖怪で、一説には「妖怪の総大将」とも言われているらしい。老人のような禿げ頭と、不気味な微笑みを浮かべており、一見するとただの老人にも見えるという。


「その妖怪が、この出来事を操っていると? でも、これだけの兵士だよ」


「うむ。じゃから、全員が操られておるわけではないやもしれん。じゃが、間違いなくあやつが関わっておるな」

 そうこうしているうちにも、兵士たちの行動は、過激さを増して行った。


 しばらくの間、なす術もなく、見守っていると。

 やがて、陸軍省の入口に、見知った顔が現れたのを見て、保重は目を疑った。


 優しそうな目元、眼鏡をかけた青年だった。

「安藤大尉!」

 思わず叫んでしまい、咄嗟に屋根の裏側に身を隠す。


「まさか安藤大尉まで……」

 さすがに信じられない様子で、目の前の事実に我が目を疑う保重に、絹は、


「わらわも驚いたが、間違いないな。あの男、最後まで蹶起には反対しておったようじゃが、覚悟を決めたか」

 いつものように、他心通で心を読んで、そう答えていたが、彼女はどこかこの事を読んでいたように、保重には感じていた。それくらい、達観しているように見えた。


 やがて、6時を少し回った頃だった。ゆっくりと東の空が白んでいく中、陸軍省の入口に、ある男が姿を現した。


 見た目からして、異様に見えた。短く剃った坊主頭のような頭髪、軍刀をがちゃがちゃと音を鳴らして大股で歩き、おまけに眼光が異様に鋭い。兵士たちのように赤く光ってはいなかったが、それこそ、「物の怪」に見えるほどの威圧感があった。

 しかもその男は、反乱軍ではないように見えた。


 案の定、いきなり現れたこの軍人に、安藤大尉をはじめ、第三歩兵連隊の兵士たちが銃口を向けている。


「止まれ!」


「邪魔だ、どけ、新兵ども!」


石原いしわら大佐。我々は『昭和維新』達成の悲願のために、この壮挙を実施しました。いくらあなたでもここを通すわけにはいきません」

 安藤にそう言われた男を見て、反応したのは、意外にも絹だった。


「石原。石原莞爾いしわらかんじか。懐かしいな」


「ええ! まさか石原莞爾大佐と知り合いなの?」

 さすがに、彼女が言っていた陸軍幹部の知り合いが、石原大佐だと思わなかった保重の驚きは相当なものだった。保重でさえ、石原の名前は知っていた。


 石原莞爾。かつて、昭和六年(1931年)に、関東軍の作戦主任参謀として満州事変まんしゅうじへんを起こした張本人と言われ、あだ名は「帝国陸軍の異端児」、「軍事の偉才」とも言われた。性格上は多少の問題があったが、頭が抜群にいいことでも有名だった男だ。

 この当時、彼は参謀本部作戦課長という立場にいた。当時47歳。


 しかも、そこから先が、いかにもこの男らしい部分を象徴する場面が展開されることになる。


 多数の兵士に銃口を向けられながらも、

「何が維新だ。陛下の兵をわたくしするな! この石原を殺したければ、直接貴様の手で殺せ!」

 そう、凄まじい形相で怒鳴りつけた。


 その、あまりの気迫に、反乱兵たちは、一歩も動けずに、石原はそのまま陸軍省に入って行ったという。大した胆力だった。


 それを見ていた絹が、思い出したように、楽しそうに笑い出した。

「ははは。あいつは士官学校時代から、何も変わっておらんな」


「そんな昔から知り合いなの?」


「うむ。あやつがまだおぬしくらいのヒヨッコだった頃からな。当時から、上官に食ってかかる、面白い奴じゃったぞ」

 と、当時の石原の特徴を上げる。


 石原莞爾は、ある種の「天才」だった。早くから航空機の優位性を説き、後に「世界最終戦争論」という本を書き、やがて来る世界大戦に備えよ、と説いた。

 ただ、気に入らない上官がいると、いちいち食ってかかるため、上官からは毛嫌いされていた。反面、部下には優しかったらしく、一種のカリスマ性があったから、軍内部にも「石原信奉者」が何人もいたり、一般兵士にも絶大な人気があった。


 しばらく考え込んでいた絹は、突然、表情を明るくさせ、

「そうか。あやつなら話がわかるやもしれん」

 と言ってきたので、保重は驚いて、聞き返す。


「えっ。石原大佐に話をするの? 無理だよ、こんな状況じゃ。今だって、殺気立ってたじゃないか」


「じゃから、しばらく経ってからじゃのう。恐らくこれから軍首脳による善後策が練られるじゃろうからな」


「しばらくっていつまで?」


「わからん。じゃが、さすがにわらわも、殺気立っておる今は行きとうない。それに、あやつが一人の時を狙って話をしたい」

 そう言いだした絹。ようやく日が昇ってきた運命の二月二十六日の朝は過ぎ去った。


 結局、しばらく屋根の上にいた彼らだったが、さすがに寒いため、再び転移して、一旦は屋敷に戻るが。


「なになに、何か起こったの?」

 帰ると、猫又の小梅が起きていて、不穏な情勢に気づいているようだった。隣には寝起きの雪女のお雪もいる。


「陸軍青年将校の反乱じゃ」

 絹が憮然とした態度で告げると。


「ええ! また人間同士の争い。ホント、懲りないわね」

 と小梅は嘆息し、お雪は、


「ほんに。これでは妖怪がいても、いなくても変わらないでありんす」

 と嘆いていたが。


「岡田首相は襲われたが、かろうじて命は取り留めたようじゃ。じゃが、高橋是清が殺された。惜しい男を亡くしたのう」

 すでに、「天耳通」と「他心通」を働かせ、情勢を見守っていた絹の言葉に、保重が反応する。


「高橋蔵相が……」

 言葉を失う保重。


 高橋是清。明治時代から第一線で活躍してきた政治家だが、彼は大蔵大臣として卓越した手腕を発揮し、昭和恐慌の頃に、支払猶予措置(モラトリアム)を行い、急造の200円札を大量発行して、銀行の店頭に積み上げ、金融恐慌を鎮静化させ、財政を立て直す手腕を発揮している。


 非常に、高度な政治手腕を持ち、今もなお、高く評価されている政治家で、この頃、岡田啓介首相の内閣にて、6度目の蔵相を務めていた。だが、この二・二六事件で、襲われて命を落としている。

 享年83歳。


 インフレを抑えるため、軍事予算の縮小を図ったことで、軍部の恨みを買ったとも言われる。


 なお、岡田啓介首相は、義弟で、首相秘書官事務嘱託しょくたく松尾伝蔵まつおでんぞう陸軍予備役大佐が、身代わりを務めている間に、隠れており、難を逃れたが、代わりに松尾は殺されている。


 他に、斎藤実内大臣や渡辺錠太郎教育総監は殺害され、鈴木貫太郎侍従長は重傷を負いながらも、何故か安藤輝三が止めを刺さなかったお陰で助かり、湯河原にいて襲撃された牧野伸顕前内大臣も助かっている。


 だが、結果的に、反乱部隊は、日本の中枢をわずか数時間で完全に占拠してしまい、あっという間に混乱は広がったが、新聞やラジオが報道したのは、だいぶ後になってからだったという。



 その頃、陸軍大臣官邸では、主な将校が集められ、この反乱に対する善後策を練っていた。そこには、反乱軍の将校も集まり、蹶起の趣旨を読み上げたり、事態収拾を図っていたりしていたらしいが。


 石原莞爾はここでも、強硬な態度に出ており、

「言うことを聞かねば、軍旗を持って討伐する」

 と言い放ち、一人だけ異彩を放ち、殺気立っていたという。


 軍首脳の中では、青年将校に同情的な幹部もいたため、説得する派と、討伐する派で紛糾していたが、陸軍大臣の川島義之かわしまよしゆきが優柔不断で決められなかったとも言われている。


 そのうち、天皇に話が行き、天皇は「速やかに事態を鎮静せよ」と言ったとされている。


 結局、宮中に軍事参議官が続々と集結し、午後1時からは陸軍大臣招集の非公式の軍事参議官会議も行われ、石原大佐が一人になる時間はほとんどなかった。


 午後3時20分。

 東京警備司令部より「陸軍大臣より」という告知文が公表され、ひとまず落ち着くと、午後4時頃。


 天耳通を働かせて探っていた、絹がようやく動いた。

「石原が一人になった。行くぞ」


 そのまま保重を連れて、転移する。

 場所は、陸軍大臣官邸だった。


 そこの便所に続く廊下に降り立つ二人。

 数瞬後、石原が一人で歩いてきた。


 例のように、腰の軍刀をがちゃがちゃと鳴らしながら、大股で歩いてくる。

 二人を目に止めると、烈火のように顔を紅潮させ、猛然と叫びだした。


「貴様ら、民間人か! その格好、軍属ぐんぞくですらないな。この非常時に何をしておるか!」


 今にもその軍刀で斬りかかってくるような勢いと怒声に、ひるんで怯える保重に対し、絹は悠然と前に立ち、

「相変わらずじゃのう、石原」

 と声をかける。


「何、貴様。俺に向かってそんな口を利くとは、一体誰だ?」


「わらわじゃよ。絹じゃ。士官学校時代からおぬしは変わらんな。すぐに上官に食ってかかる。確か、士官学校では418人中、13番だったかのう。頭はいいくせに、世渡りが下手な男じゃ」

 石原はその口ぶりと自分の過去の経歴を知っている少女に、驚いた表情を浮かべて、少女の姿の絹を見入るが。


「その口ぶり。本当に絹さんか。だが、この非常時だ。信用できん。化けてくれるか?」

 その一言で、絹は嘆息し、


「疑り深い奴じゃのう。これでよいか」

 と、あっさりと狐に変化へんげしていた。


「おお、その絹のように白い狐はまさに絹さん。久しぶりですな」

 あの見るからに怖そうな石原が、相好を崩すのを見て、むしろ保重が驚いていた。


「そうじゃのう。最後に会ったのは、おぬしが満州に赴任する前じゃったか。まあ、おぬしが満州でやったことは、褒められることではないがな」

「手厳しいですな」


 保重が不思議に思えるほど、そこに和やかな雰囲気が生まれていた。そのことに驚愕する保重は声が出なかった。同時に、あの石原莞爾が敬語を使うほど、絹は一目置かれているのか、と改めてこの狐の底知れない実力に慄然とする思いがしていた。


 保重が見守っていると。

「石原。こたびの事、実は『物の怪』が関わっておる。そう言ったら、おぬしどう思う?」

 絹は、真正面から率直に聞いていた。


 石原は、笑いもせずに、

「あなたの言うことだ。嘘ではないでしょう。ただし、軍としては、討伐するしかないでしょうな」

 と、軍人らしい態度で、滔々とうとうと持論を展開していた。


「そうか。なら、わらわたちが独自に動いても問題なかろう。必ずや『物の怪』の正体を明かし、ほうむってくれる」


「頼もしいことですな。ただ、我々にも軍人としての誇りがあります。恐らく近いうちに討伐命令が下るでしょう。それまでにその物の怪を退治できなければ、軍は討伐しますよ」


「わかっておる。それならそれで構わん。わらわは、こやつと独自に調査して、敵を確実に殺すのみよ」

 そう言って、顎を保重に向けた。


「そちらの男は?」


「わらわの助手みたいなものよ」

 助手と言われて、保重は、内心納得いかなかったが、石原に頭を下げる。


「ほう。あの絹さんに信頼されるとは、珍しい。まあ、がんばりたまえ」

「はい」


 それだけを言って、石原莞爾は、悠然と去って行った。


 その背を見送りながら、絹はひそひそ声で、呟く。

「おぬしもあの男くらい、『男らしく』なれ。あやつは、誠に『出来る男』じゃぞ」

 そう言っていたが、保重は、どう考えても性格的に石原みたいにはなれない、と思うのだった。


 こうして、石原莞爾による、承諾は得られた。というよりもむしろ「勝手にしろ」というような態度ではあったが。


 絹と保重は、独自に「物の怪」の正体を当たることになった。

 2月26日の夕陽が傾き、闇が覆う。降り続いた雪は止み、帝都の街並みを白く染め上げていた。


 討伐まで、残された時間は多くはなかった。

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