第10話 相沢事件の黒幕
それから1か月あまりが経った。
昭和十年(1935年)8月12日。その時は来た。
その日の朝から、絹は何やら難しい顔で、考え込んでいるようだった。というより、保重の目には、彼女が、自身の何らかの能力を発動して、何かを探っているように見えた。
それが地獄耳とも言える「天耳通」なのか、それとも他者の心を読む「他心通」なのかは、保重には判別がつかなかったが。
そして、午前9時45分頃。
突然、彼女は叫んだ。
「あやつ、やりおった!」
「なになに、絹? どうしたの?」
朝食を食べて、のんびりと新聞を読んでいた保重がソファーから立ち上がって、彼女を見ると。
「
そのまま有無を言わさず、錫杖を持たせた保重を連れて、神足通で転移を開始していた。
着いた先は、
しかもそこには、衝撃的な光景が広がっていた。
細身な体躯の眼鏡をかけた軍服姿の中年の軍人が、血まみれで倒れ伏し、その前に血のついた軍刀を持った将校が、鬼のような形相で立っていた。
被害者は、永田鉄山少将。軍政家として有名で、「将来の陸軍大臣」、「陸軍に永田あり」、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だった男だ。
相沢事件。
後にそう呼ばれる事件だった。陸軍の統制派の重鎮と言われていた、永田鉄山少将、当時は陸軍省の軍務局長だったこの男を、陸軍の皇道派将校の相沢三郎中佐が白昼堂々、斬殺してしまう。この時、相沢三郎は45歳、殺された永田鉄山は享年51歳。
なお、相沢は剣道四段・銃剣道の達人だったと言われている。
この事件は、先の陸軍士官学校事件の時に、皇道派の磯部浅一、村中孝次が逮捕され、免職されたこと、また同じく皇道派の重鎮だった教育総監、
彼らはその殺害現場を、事件直後に見てしまったことになる。
周りには、相沢以外誰もいなかった。
しかもその相沢の目が、異常なように保重には見えた。目が赤いのだ。それも尋常ではないくらい、「血のように」赤い。
(何者かに操られている)
保重は直感的にそう感じた。
「やれ、保重!」
有無を言わさず、考える隙も与えず、絹が命じる。
相沢の目が怪しく光り、軍刀をこちらに向けてくる中、保重は素早く五芒星を描き、九字を切る。
青白い光が飛び、間一髪で軍刀の攻撃が来る前に、光が相沢の腹部に当たり、叫び声と共に、相沢は倒れて、気を失う。
と、同時に、これもいつものように予想通り、背中から出てきたのは、玉藻前だった。
玉藻前は、悠然とした様子で、九つの尾を持つ巨体を揺らし、絹を睨みつける。
「お前もしつこいな。何度やっても同じだよ。お前に私は倒せない」
保重と絹を見下ろし、侮蔑的な視線を向けて、不気味に微笑んでいた。
だが、この時ばかりは絹は、いつもと違っていた。
この時、初めて保重は、絹の「真の能力」を見ることになる。
「それはどうかのう」
「なに?」
絹は、何やら念仏のような言葉を唱えた。
すると、部屋中が薄く青い光に満ちていく。それは何とも不思議な力だった。まるでその部屋だけが何かに守られているかのような暖かい光だった。
その暖かい光が部屋中を包み込む。
「貴様、何をした!」
いつも不遜な態度の玉藻前の表情が、歪んでいるのを保重は見逃さなかった。
「結界じゃ。おぬしがこやつを狙うと思って、張っておいた」
その先を読む力に驚愕する保重だったが、それでも彼は永田が殺される前に何故やらなかったのか、疑問に思うのだった。
「おのれえ、白狐ごときが!」
結界の力なのか、玉藻前の動きが、極端に鈍ったように、保重には見えた。というよりも、結界の力で苦しんでいるようにも見える。
「今じゃ!」
絹に言われ、我に返ったように、保重は再度、九字を切り、ついでに錫杖を思いきり投げつけた。
動きが鈍くなっていた玉藻前は、この攻撃をかわせず、体の中心の腹部あたりに、青白い九字の光を当てられ、さらに錫杖が体を貫いていた。
「許さんぞ、貴様ら! だが、私が消えても、何も変わらんぞ!」
その負け惜しみのような言葉を最期に、玉藻前の姿は、霧のように消えて行った。
そして、時を同じくして、気絶していた相沢中佐が目を醒ます気配を見せ、同時に複数の足音が軍務局長室であるそこに近づいてくる音が聞こえてくる。
「捕まれ、保重!」
その言葉に反応し、保重が絹の肩に捕まると、風景は一変する。
元の、自分の屋敷に戻っていた。
今、起こったことに現実味を感じられず、どこか信じられない様子の保重だったが。
どうしても気になることがあった。
「何故、永田が殺される前にやらなかったか、じゃろ?」
すでに他心通で、心を読まれていたためか、絹が静かに口を開く。
「確信が持てなかったのじゃ。わらわには未来を読む力はない。じゃから、こいつはある種の賭けじゃった」
「それにしても、相沢中佐の心を読めば、間に合ったのでは?」
他心通や天耳通を使えば、絹ならそれも可能と思っている保重に、絹は首を振る。
「いや、間に合わん。それにな」
それだけを言って、絹はいつになく真剣な眼差しで保重を見た。
「わらわは、天界より『歴史を
その意味するところを、保重は推測するが。
「つまり、永田鉄山少将が今日、殺されるのは、運命だったと?」
「そういうことじゃな」
「それにしても、絹。君にあんな力があるとは知らなかったよ」
先程の結界を張った力を、彼は思い出していた。
「じゃから言ったじゃろう。『能ある鷹は爪を隠す』と」
そう言って、ころころと笑う絹を見て、可愛らしいと思うと同時に、彼は末恐ろしいとも思った。
「でも、永田少将を狙うってどうしてわかったんだい?」
その疑問にも、絹は意に返さないに、自信満々の笑顔で答えた。
「わらわを見くびるな。永田は、陸軍統制派の重鎮でな。しかも相沢は昨年末から永田を狙っておった。先月に上京し、永田と面会して、辞職を勧告しておるしな。こやつならやりかねん、と思っておったのよ」
つまり、絹は保重が知らないところで、こっそり能力を使って、相沢の言動を見張っていたことになる。
事実、昭和十年(1935年)に真崎甚三郎が教育総監を更迭された後、これに不満を持った真崎が、自らの更迭の経緯を文書にして、皇道派青年将校に配布した。これを読んだ相沢は憤激し、永田鉄山を陰謀の首魁であると考え、上京し、先月には永田に辞任を迫っている。
また、相沢は、「精神に異常をきたしていた」と見る者もいる。実際の相沢がどういう精神状態だったかを知る者はいないが。
「軍人が嫌いと言っている割には随分、軍に詳しいんだね。驚いたよ」
「わらわには、陸軍幹部に知り合いもおるでな。情報は掴みやすい」
その言葉に、慄然とする保重であった。
(この白狐、一体どこまで軍に詳しく関わってるんだ?)
そう思っていると。
「それは秘密じゃな。じゃが、わらわの持つ、軍人の人脈がいずれ役に立つやもしれん」
保重の心の中をいつものように読んで、彼女は微笑んでいた。
その笑顔が、今は少し怖いと感じる保重だった。
こうして、後に「相沢事件」と呼ばれた、この事件は一旦は幕を閉じ、相沢三郎中佐は逮捕され、裁判にかけられることになる。
その歴史的事件の裏に、「妖怪」がいたことを知る者は、彼ら以外にはいなかった。
そして、玉藻前を倒して、平穏を勝ち取ったと思っていた、彼らの前に、さらなる巨大な影が立ち塞がることになる。
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