第9話 帝都を覆う闇

 昭和十年(1935年)7月。

 あの銀座での平和な散歩から1か月あまりが経った頃。それまで平穏だった、保重の周りを暗雲が漂う。


 ある日の午後。

 彼らが住んでいた金杉下町の屋敷のすぐ近くに、電気会社の建物があった。そこから、屋敷に駆け込んできた人がいた。

「妖怪屋さん、電話です!」

 四十がらみの男はそう、慌てた口調で言い放った。


 電話は、当時、存在自体はあったが、官公庁や大きな会社のような施設か金持ちの家にしかなく、一般庶民には高価で手が出せないものだった。

 そのため、電話があると、こうして取り次ぎに来てくれるのだった。


 保重は、念のために絹を連れて、電気会社へ向かった。

 電話口では、銀座の、とある百貨店の店主が、切羽詰まった様子で、応じてくれた。

「大変です! すぐに銀座に来て下さい!」

 男の様子から、只事ではないことがわかったが、詳しく聞いてみると。


「銀座におかしな黒い雲が集まっていまして、何か良くないものが出てきそうなんです」

 それだけを言った。


「良くないもの、というだけではよくわかりませんが」

「とにかくすぐ来て下さい!」


 苛立つように、男はそう言って、電話を切ってしまった。


 絹に相談すると、

「とにかく行ってみるとするか。保重、わらわが与えた錫杖を持っていけ」

 そう言った後、一旦屋敷に戻って、錫杖を持って出てきた保重を連れて、神足通で銀座へ転移していた。



 銀座四丁目交差点付近に降り立つと、一帯は軽くパニック状態になっていた。


 銀座四丁目から出雲町方面、新橋へ向かう途中に、明らかに異様な色と形の黒い雲が集まっていた。それは、自然発生的に起こった雲には見えなかった。

 それを指さして、心配そうに眺める人々の横を駆け抜けて、保重と絹は、雲の真下まで駆ける。


 絹は、何かを感じているようで、黒い雲の真ん中あたりを凝視していたが、やがて。

「保重。あそこに向かって、九字を切れ」

 と命じた。


「あそこって、何もないけど」

「いいから、さっさとやれ」

 いつも以上に、強い命令口調で言われ、渋々ながらも、保重は地面に万年筆で五芒星を描き、九字を空に向けて放った。


 青白い光が天に向かって伸びてゆく。


 それが雲に当たったかと思うと、気味の悪い叫び声が空から響いてきたか、と思うと、何か大きな物が空から落ちてきた。


 それを見て、仰天する保重。

 それは、体長が2メートル以上はあり、頭は猿、体は狸、尻尾は蛇、手足は虎のように見えて、「ヒョーヒョー」という、気味の悪い鳴き声を上げて、辺りを睥睨へいげいしていた。


 周りはパニックになり、人々が次々に逃げ惑う。


「な、なんだ、こいつは?」

 驚き、戸惑う保重に、絹は苦々しい表情で、しかし平然と言い放った。


「こやつは『ぬえ』じゃ」

「鵺?」


「ああ。かつて平安の昔に現れたという物の怪で、源頼政みなもとのよりまさによって退治されたはずじゃが」

「こんなの勝てないよ」

 弱音を吐いて、尻込みしている保重を情けなく思ったのか、絹が発破をかける。


「うろたえるでない。さっさとこやつを倒さねば、警察や軍が来て、さらに大騒ぎになるぞ」

 それを聞いて、保重は慌てて、再度、九字の術を放つ。

 しかし、その九字の術によって放たれた青白い光は、虎のような腕を軽く薙いだ鵺によって、弾かれていた。


 一瞬、驚きのあまり、錫杖を投げるのを忘れている保重に向かって、鵺の鋭い爪が襲いかかる。


「くっ。世話の焼ける男じゃ」

 絹によって無理やり肩を掴まれ、保重は間一髪のところで、神足通で空に逃げていた。


 近くの建物の屋根の上に降り立つ二人。鵺は獲物を逃がしたと思ったのか、辺りを探し回っている。


「保重。そこで待っておれ」

 言うが早いか、絹はあっという間に神足通で消えた。かと思うと、すぐに猫又の小梅を連れて戻ってきた。


「なに、こいつ?」

 化け物を見下ろして、さすがの化け猫もそれ以上は言葉が出ない様子だった。


 さらに、もう一度、消えた絹は、すぐに雪女のお雪を連れて戻ってきた。

「あらまあ。ほんにすごい化け物でありんすねえ」

 お雪はのんびりした口調で、そう言っていたが。


 絹は、

「おぬしらが、あの化け物の注意を引け。その間に、保重がもう一度九字を切って、錫杖を投げろ」

 三人に指示を飛ばしていた。


「なんで、私がそんな危険な真似しなくちゃいけないのよ。あんたが行けばいいでしょ、絹」

 小梅があからさまに不満そうに口を尖らせ、


「ほんに危険でありんすねえ」

 お雪も心配そうに眺めていたが。


「いいからさっさとやらんか」

 絹は、強引に保重を神足通で地面に下ろしてしまい、残りの二人に来るように伝えると、自分は狐の姿になって、道路に降り立っていた。


「しょうがないわねえ」

「保重さんのため。やりましょう」


 小梅は猫の姿になって、屋根から飛び降り、お雪は、ふわふわと浮くように屋根の上から直接地面に降り立つと、そのまま鵺に向かって、攻撃を始めた。


 小梅は、猫又の化け物に変化へんげした状態から、鋭い爪と牙で襲いかかり、お雪は口から氷を吐いて、攻撃する。


 猫又の鋭い爪と牙によって、皮膚を傷つけられ、さらにその傷口に雪女の氷が入り込み、巨体の鵺が一瞬ひるんだ。

「今じゃ!」


 絹の合図で、再度、九字を切って、続いて錫杖を思いきり鵺に向かって投げつける保重。


 一瞬の後、断末魔の気持ち悪い叫び声を轟かせ、ようやく鵺はその巨体を倒した。


 すると、気味の悪い笑い声が聞こえてきた。かと思うと、どこからともなく大きな狐が姿を現した。

 白い体毛に、九つの尻尾、そして尻尾の先端が赤黒いそれは、間違いなく「玉藻前」だった。


 玉藻前は、その妖艶にも聞こえる、不気味な笑い声と共に、彼らを見下ろすように立ち、言い放った。

「ふふふ。鵺を倒すのもやっとというわけかい。やはり、400歳ごときの小娘のような、若い狐には無理があるんじゃないか?」

 そのセリフから、絹のことを言っているのは明らかだったが、400歳が若いと言う、その言葉に保重は驚かされていた。


(神の世界では、400歳は若いのか。ということは、絹のあの姿は、本来の人間の年齢に近いのか)

 そんな妙なことまで考えていた。


「抜かせ。長く生きすぎた、年寄りのおぬしには負けん」


「私は1000年以上生きている。お前と違って、人も物の怪も操れる。これを『老獪』というのさ」


 絹と玉藻前が睨み合いをしていると。

「えっ。こいつ1000歳越えてるの?」

「ほんに? あちきでもそんなに生きてないでありんす」

 小梅とお雪も驚いて、大狐の化け物に見入っていた。


「これは、まだまだ序の口だよ。これからこの国は、大変なことに巻き込まれる。というより、私が巻き込むんだけどねえ」

 玉藻前が、妖艶な笑い声と共に、予言めいたことを口に出していた。


「どういうことだ。貴様、まさか軍人だけでは飽き足らず、さらに人を操るつもりか。その前に退治してくれる」

 絹が鋭く、言い放ち、保重に合図した。


 その瞬間、保重は、再度、九字を切り、例の呪文を唱えるが。

 錫杖は、鵺に突き刺さったままだったため、不本意にもまたも不完全な攻撃になっていた。


「当たるものかい」

 玉藻前は、その九字の青い光を、体を翻してかわすと。


「やはり、錫杖がないと無理か。使え、保重!」

 絹が狐の姿のまま、すばやく鵺に近寄り、錫杖を口にくわえて戻ってきて、保重に手渡す。


 再度、九字の術を唱える保重に対し、玉藻前は、

「遅いのう。さらばじゃ」

 かき消えるように、空高く飛んで行った。


「ちっ」

 絹が慌てて神足通で後を追うが、あっという間に空高くへ舞い上がってしまい、それ以上は追いつけなくなる絹であった。

 彼女は、神足通で自在に移動できるが、空中には移動できず、地面や建物がないと、体勢を維持できない。


 その間に、遠くから警察が出動してきた。

「貴様ら、止まれ! 何をしている?」

 その声に、


「散れ!」

 妖怪二人にそう命じると、絹は地上に降りてきて、そのまま保重に捕まって、転移を開始した。

 小梅とお雪もすばやく、その場から逃げ去っていた。



 屋敷に戻った保重と絹。

 残りの二人は、徒歩で戻っているので、まだ来ていなかったが、絹の体が焦燥しきっているように保重には見えた。


 それを神足通の使いすぎによる疲労だ、と思っていた彼だったが、実情は違った。

(玉藻前。やはり手ごわい。隙を突かねば奴を倒せんか)

 絹は、玉藻前という敵が、想像以上に厄介であることを改めて思い知らされ、そのことに悩んでいた。


「大丈夫、絹?」

 保重の声で、我に返るが。


「絹は、戦うの苦手なの?」

 不意に耳に届いた保重の言葉に、絹は苦笑していた。


「苦手ではない。ただ、わらわは、どちらかというと、『補佐』する方が得意でのう。まあ、いずれ、わらわの霊力を見せる機会も来るだろう」

 それだけを言って、自分自身の能力のことを、明かしてはくれないのだった。


 やがて、小梅とお雪も戻ってきたが。

「絹。あんた、いつも偉そうに言ってる割には戦えないんじゃないの?」

 小梅もまた、保重と同じように、白狐の戦闘力を問題視しているようだった。


「たわけ。『能ある鷹は爪を隠す』と言うじゃろう? わらわには、わらわの戦い方があるだけじゃ」

 絹がいつものように、尊大な態度でそう言っていたが。


 それが、絹特有のやせ我慢なのか、それとも本当に能力を隠し持っているのか、保重には判断がつかないのだった。


(それにしても、またも取り逃がすとはな。玉藻前。あやつがいる限り、嫌な予感がする。何とかせねばな)

 絹は、心の中でそう毒づき、将来起こり得る心配をしていた。


 そして、この玉藻前を取り逃がしたことで、事態は思わぬ方向へと進んで行く。

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