第8話 昭和銀座事情

 その年の6月頃だった。

 割と平穏な日々が続き、妖怪退治の依頼もそこそこ入り、貧しかった保重の懐も暖かくなっていた。


 そんな梅雨空の曇りの日曜日。


「ねえねえ、保重くん。私、行きたいところがあるんだけど」

 最近、すっかり保重に懐いてしまっていた、猫又の小梅が、得意の猫撫で声で、甘えるように保重に頼み込んだ。


「なんだい、小梅?」

「私、銀座に行きたい!」


 小梅は、猫又の妖怪でありながら、人間にも化けることができたが、その格好が、当時流行っていたモガ(モダンガール)風の、ワンピース姿であることからわかるように、「流行に敏感な」若い女性のようにも見えた。


 そのためか、今で言うところの「ミーハー」な気質があった。


 詳しく聞くと、彼女は「カフェー」に行きたいという。当時、銀座はカフェー文化の最前線のお洒落な街だった。


 今も昔も銀座という街は、東京の「華やかさ」を象徴している街だが、この頃は大正時代から続く、不況の割には華やかで、まだ「戦争」の影響も受けていない、言わば「昭和初期の文化」の最前線だった。


「いいよ。最近、見入りもいいし、今は抱えている案件もないから、気晴らしにみんなで行こうか」

 その保重の一言で、小梅はもちろん、その場にいた絹もお雪も、茶々も喜びを隠しきれなかった。


 実年齢はともかく、見た目には、若い女性に見える彼女たちは、こういう物に興味があった。


 ということで、珍しく保重を筆頭に、神や妖怪など総勢5人で、市電で銀座に向かうのだった。

 最も、「家人にしか見えない」座敷童子の茶々だけは、余人には姿が見えないから、見た目には4人であったが。


 実は小梅が行きたいと思っていた、カフェーは銀座でも南側の出雲町の電停近くにあったが、せっかくなので、銀座の街を散策するため、中央部にある銀座四丁目の電停で一行は降りた。


 京橋区銀座(現在の中央区銀座)は、現在のように昭和の香りが淡くなった状態とは違い、この頃、まさに爛熟期らんじゅくきだった。


 大正時代に、関東大震災で大打撃を受けるも、瞬く間に復興し、その熱気とモダニズムの波が銀座を包み、モボ(モダン・ボーイ)、モガ(モダン・ガール)が闊歩する洒落た街だった。


 現在もある、銀座の象徴的な時計台のある「和光」と呼ばれるビルも健在し、関東大震災後の、昭和七年(1932年)にネオルネサンス調のビルディングとして建てられていた。当時は「服部はっとり時計店ビル」と言われていた。


 華やかな銀座に着いて、うきうきしている小梅に、保重は、

「僕は、カフェー・ライオンか、カフェー・タイガーに行きたいんだけど」

 とこぼしていたが、小梅に、


「駄目よ。私はカフェー・パウリスタに行きたいんだから。特にその二つは絶対、駄目!」

 とやけに否定していたが。


 それには理由があり、当時の銀座のカフェーは「風俗営業店」に近い喫茶店があった。その代表格が「カフェー・ライオン」と「カフェー・タイガー」で美人女給(ウェイトレス)を多数抱え、それらの店は「酒や料理は二の次で、美しい女給と濃厚なサービス」が売りだった。


 それを目当てに、多数の文豪が通っていたが、女性としては、確かに入りづらい店であり、客層のほとんが男性だった。


 一方、彼女が行きたがっていた「カフェー・パウリスタ」は男給(ウェイター)が中心の、まともな喫茶店だったという。


 時代はまさに「エロ・グロ・ナンセンス」と呼ばれた時代。これはエロ(エロティック、扇情的)、グロ(グロテスク、怪奇的)、ナンセンス(馬鹿馬鹿しい)を組み合わせた語で、昭和初期当時の文化的風潮を現していた。


 昭和五年(1930年)頃から、流行語的な扱いをされ、当時の新聞にも盛んに書き立てられていた。


 戦争の暗い世相が世の中を占めた、と誤解されがちだが、昭和初期の頃はまだまだ明るい文化が残っていた。


「あちきも、いい男がいる、カフェー・パウリスタがようざんす」

 男好きのお雪も賛同していた。


「あたしは、美味しいお菓子食べれればいいよ」

 茶々は、子供だけにその部分は、ブレない。というかそもそも彼女だけ周りから姿が見えないはずだが。


「まったくおぬしら、何を目的にカフェーに行くつもりじゃ?」

 女妖怪たちの心を次々に読んでいた絹が、嘆息する。


 保重は、渋々ながら、小梅が行きたいという「カフェー・パウリスタ」に足を伸ばした。

 銀座のメインストリートを真っすぐ南に歩くと、そこに到着する。


 カフェー・パウリスタの開業は明治四十四年(1911年)。白亜の三階建ての洋館だったという。

 当時の習わし通り、右から横に「カフェー・パウリスタ」と書いてある建物に入る一行。

 ちなみに、「パウリスタ」とはブラジルのサンパウロ生まれのことを差し、「サンパウロっ子」の意味である。


 フランスのパリにある、喫茶店を参考にし、本場ブラジルからコーヒー豆を無償提供してもらっていた、この喫茶店は繁盛していた。

 しかも、コーヒー一杯が5銭という、当時としては安く「5銭出せばハイカラな飲み物が飲める」ということで、評判だった。


 店員は、海軍士官の正装をし、肩章をつけた少年たちが選ばれており、その独特な流儀も評判になっていた。


「かわいい男の子がいっぱいいるでありんすねえ」

 男好きの妖怪、お雪が早くも獲物を物色するように、少年たちに目を向けていた。


 早速、席に着いて、各々注文を取る。コーヒーやサンドイッチ、ドーナツなど、現在でも十分通用するメニューが当時もあった。


 それらを頼んで待っていると、保重は、いぶかしげにこちらをちらちらと見ている男と目が合った。


 その男は、細身の男で、顔は面長でどこか病的にも見えるほど顔色が悪く、目の下にクマがあった。

 年は、保重とそう変わらないように見えるが、不健康そうなやつれた顔が印象的だった。

 着流しのような、藍色の和装姿の男は、ふらふらとした足取りで近づいてきたかと思うと、


「やあ、綺麗なお嬢さんたち。カフェーで優雅にお茶かい?」

 と声をかけてきたが。


「なんじゃ、おぬしは。藪から棒に」

 絹は、少々不快そうにも見える表情で答えていた。


 いきなり今で言うところの「ナンパ」のようなことをされていた彼女だったが、

「実は僕は、作家をやってるんだけど……」

 それを聞いて、一瞬にして彼の心を読んだ絹は飛び上がらんばかりに、驚いていた。


「おぬし、太宰治だざいおさむか!」


「そうそう。よくわかったね、お嬢さん」


「もちろんじゃ! わらわはおぬしの小説が好きでのう。先頃、『文藝ぶんげい』に投稿しておった、『逆行ぎゃっこう』は面白かったぞ。特に短編の『蝶蝶ちょうちょう』がいいのう。老人の話なぞ、興味深かったぞ」

 普段の絹からは考えられないくらいの勢いで、彼女は珍しく、ぺらぺらと矢継ぎ早に言葉を繋いでいた。


「それは、わざわざありがとう、お嬢さん」

「絹じゃ」


「絹さん。古風な雰囲気の割には、現代小説にも造詣ぞうけいがあるとは、素敵ですね」

 いつの間にか、太宰治は、絹のすぐ傍まで近寄って、楽しげに会話していた。


 太宰治。言わずと知れた、昭和初期を代表する小説家である。

 だが、彼には異常なまでの「自殺願望」があったことでも知られている。生涯を通して、何度も自殺未遂を起こし、最終的には戦後まもなく、入水じゅすい自殺して38歳で亡くなっているが。


 この頃はまだ東京帝国大学(現在の東京大学)文学部の五年生であり、文芸雑誌「文藝」に小説「逆行」を投稿していた。当時、25歳の青年であり、小説家として、大きく名を知られるようになる前だった。


 当時から、彼は首つり自殺を図ったり、入院中に鎮痛剤の「パビナール」を大量注射して依存症になっている。

 精神的に、乱れた私生活を送り、友人に借金までしていた。


 また、太宰自身、女性好きで、複数の女性との恋愛を遍歴し、相手の女性を自分の自殺に巻き込むなど、まさに後の彼の代表作「人間失格」通りの生活だったという。


「へえ。絹って小説なんて読むの?」

 保重の侮蔑的にも見える視線を受け、絹は激昂していた。


「たわけ! わらわは、神にも等しい存在じゃぞ。常に人間界のことは勉強しておるし、文学にも興味があるのじゃ」


「それは嬉しいですね。では、この後、僕と食事にでも」

 あっさりと、太宰治から誘われている絹であった。


 しかし、絹は、

「残念じゃが、それはできん。じゃが、サインもらえるかのう?」

 何故かその誘いを丁重に断っていたが、保重が見たこともないような、輝くような笑顔で、サインをねだっていた。


 その後、給仕から注文がテーブルに運ばれてきたが、それでも二人は楽しそうに会話を続けていた。


「へえ。あれが太宰治ねえ。私も名前くらいは聞いたことあるけど」


「けど、なんだい?」


「うーん。私は最近、『野球』の方が興味あるのよねえ」

 活発な少女の、猫又の小梅はそう言って、美味しそうにサンドイッチを口に運んでいた。


 野球はこの頃、黎明期れいめいきではあったが、現在のプロ野球の原型が出来上がり、国民的スポーツへと発展する勢いがあった。

 現在の「読売ジャイアンツ」と「阪神タイガース」の原型がこの頃、出来上がっている。


「この『』ってお菓子、初めて食べたけど、美味しいね!」

 余人には見えない、座敷童子の茶々が、一行にだけ見える笑顔で、楽しそうにドーナツを口に運び、


「それにしても、いい男がいっぱいでありんすねえ。ここはいいところです」

 雪女のお雪は、まるで舌なめずりをする蛇のように、男給を品定めしていた。


(やれやれ)

 心の中で、嘆息しながらも、こうして楽しい時間を過ごし、彼女たちの気晴らしになるのであれば、いいかもしれない、と保重は思っていた。


 彼自身、いくら陰陽師の力を持っているとはいえ、過去も未来も見通せるような力はなかった。


 ただ、それでも妙な「胸騒ぎ」に似た感情を抱いていた。


 それは、最近のきな臭い世相はもちろん、妖怪関係でもそうだった。

(そもそも、玉藻前を逃がしてしまったからね。しかも、あの後、全然音沙汰がないのがかえって不気味だ)


 玉藻前を、取り逃がしたのは昨年の11月だったが、それから半年以上も、音沙汰がなかったし、あの時のような強力が妖怪が出る気配もなかった。



 すっかり銀座のカフェーを堪能し、買い物まで済ませた、帰り道。

 保重は、珍しく真剣な表情で、隣を歩く絹に問いかけていた。


「絹。最近、玉藻前が全然出てこないのが、なんか不気味なんだよね。大丈夫かな」

 太宰治から、サインをもらい、うきうきして、心を弾ませ、すっかり明るい笑顔の少女と化していた絹は、


「なんじゃ、心配か。大事ない。今度こそ、あやつが出たら、おぬしにやった錫杖で追い払える」


「そうかなあ」


「あれには、おぬしの陰陽師の力を増幅する力があるでのう。それに、いくら万能とも言えるわらわにも、さすがに『未来』まで見通す力はないんじゃ。どうしようもない」


 相変わらず、不遜、というか自信家の絹の言葉に、少しだけ安堵する保重であったが、彼が感じた胸騒ぎは的中することになる。

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