第6話 雪女の伝説
年が明けた。
昭和十年(1935年)1月。
前年の11月の出来事から、未だに保重の陰陽師としての能力に疑問符を抱いていた絹は、しかしながら、彼の妖力を高める有効な手段を見つけられずにいた。
そんな折、新たな依頼が舞い込む。
その日、東京に雪が降った。
まだ、地球温暖化などという言葉もない時代。季節はきちんと廻り、ヒートアイランド現象もない、つまりコンクリートにも包まれておらず、まだまだ土の道が多かった時代だ。
普通に東京にも
雪の中、屋敷に訪れた男は、遠方からの来客だった。
古ぼけた番傘を持って、雪を防いできたと見られる男は、年の頃は四十代後半か五十代くらいの男で、日焼けした肌色と、顔に深く刻まれた皺が特徴的な農夫だった。
多摩地方の奥に住むというその男が依頼してきたのは。
「
「雪女って、あの?」
さすがに保重も聞いたことがあった。雪の日に現れるという、その妖怪は、妖艶な美女だが、吐く息で人間を氷づけにしてしまうと言われる。妖怪の中でも、特に有名な部類に入る女の妖怪だ。
「はい。私は、多摩地方の
調布村、とは言っても、現在の東京都調布市とは無関係である。
古くは、西多摩郡調布村。その頃は、東京府調布村と言って、現在の東京都
そして、ここには実際に「雪女伝説」が語り継がれていた。
現代社会では、その青梅市にも滅多に雪が積もらないくらい、温暖化しているが、昔は、山に近い、奥深い土地だったから、東京とはいえ、当たり前のように雪が降って、積もった。
「わかった。おい、猫又。今回はおぬしもついてこい。役に立つかもしれんからのう」
黙って話を聞いていた絹は、その時、珍しく同席していた猫又の小梅に声をかけたが。
「なんで私があんたに命令されなくちゃいけないの? 知ってると思うけど、猫は寒いところは苦手なのよ」
「うるさい奴じゃのう。猫又の牙や爪も役に立つかもしれんから、誘っておるというのに」
たちまち、口喧嘩になっている二人。あの衝突の時以来、仲が悪いようだった。
「小梅、頼むよ。僕はまだ陰陽師としては未熟なんだ。助けてくれないかな」
絹の心中を知ってか、知らずか、保重は自分の能力値を自己判断した上で、懇願するように、小梅に頼み込んでいた。
「しょうがないわね。保重くんの頼みなら、いいわ」
あれ以来、何故か彼を「保重くん」と呼ぶようになった、猫又の小梅。彼女は座敷童子の茶々同様に、保重に懐いていた。
というよりも、保重自体が、「妖」の者を不思議と引きつけている節があった。本人はそのことに気づいていなかったが。
「まったく色気づきおって。年を考えろ」
「何よ、あんただって、400歳の
絹と小梅がぎゃんぎゃんと喧嘩を始める中、男は何度も頭を下げて、頼み込み、去って行った。
東京から調布村まで、絹の「神足通」なら一瞬で行ける。が、今回は猫又が同行するということで、「神足通」は使えなかった。座敷童子の茶々は、今回も留守番になったが、座敷童子はそもそも戦いには向いていない、妖怪だった。
「また、あたしだけお留守番なの? 行きたい行きたい!」
茶々は、子供らしい無邪気な笑顔を歪ませて、泣きそうな顔をしていたため、保重はしゃがみ込んで、彼女の目線に視線を合わせ、
「茶々。今回も危険なんだ。君は家を守ってくれ。変な人が来たら、いたずらしていいから」
そう優しい声で頭を撫でてあやすと、ようやく渋々ながらも彼女は頷いた。
彼らが利用したのは、「汽車」だった。
当時、東京から西に伸びる中央線が山梨県方面まで伸びており、その途中から青梅電気鉄道(現在の青梅線)も開通していた。
とは言っても、現代とは比較にならないくらい、のんびりした速度域の、ゆったりした汽車だったが。
一人の陰陽師と、一匹の狐、一匹の猫又は、人間の姿のまま、汽車に乗り込み、はるか彼方の調布村へと向かった。
青梅駅で降りた後、向かった調布村は、彼らの想像以上の
現代とは違い、この辺りには、ビルもなければ、コンクリートすらない。木造の古い日本家屋や土の道だけがかろうじてあるだけで、残りはすべて自然に包まれている。この頃、都心では見かけることも多くなった、自動車もここではほとんど見られなかった。
この辺りは、昔から織物産業が盛んで、織物を織る
しかも、東京で積もっていた雪が、ここではさらに積もっていて、大地を覆い尽くすくらいの雪が積もり、一面の白銀世界を作っていた。
おまけに、着いて、しばらく歩くと辺りは真っ白で、何も見えないくらいの吹雪になっていた。
「寒いよう」
寒さに弱い猫の小梅が、ぶるぶると体を震わせていた。
「頑張って、小梅。もう少しで着くから」
「ありがとう、保重くん」
ある意味での命の恩人でもある保重に、優しい言葉をかけられ、照れ笑いを浮かべる小梅。
絹は、
「ほれ、さっさと行くぞ」
そんな姿を横目に、ずんずん先頭を歩いて行った。
吹雪がますます強くなり、視界が遮られる。依頼主の家まで無事にたどり着けるかもわからない状態だった。
依頼主の家は、調布橋を渡った先にあった。昔は「
その調布橋は、この年、昭和十年に、立派なアーチ橋に生まれ変わるのだが、この頃はまだギリギリ、吊り橋が架かっていた。
視界を遮られるほどの、猛吹雪に遭いながらも、何とか吊り橋の調布橋を越えた一行だったが、橋を越えた先からは、方向感覚がわからなくなっていた。
絹の「天耳通」だけを頼りに、依頼主の家に向かうが。
こんな猛吹雪の中。道の端に、一人の女が立っていた。
若い女だった。白ずくめの着流しのような着物に、背中まで達する漆黒の長い黒髪を持っている。
頭に頭巾をかぶっており、顔は見えなかったが、ほっそりとした、若くて美人のように保重には見えた。
だが、同時にこの女から、警戒すべき「妖気」も感じ取っていた。
やがて、一行と女の距離が縮まると。
「もし」
女が不意に声をかけてきた。先頭にいた保重が足を止めて見ると、頭巾の下から覗く顔は、雪のように白く、反面、唇だけが赤く、そして目は切れ長の釣り目で、美人ではあったが、そこはかとない危うい雰囲気を感じた。
「はい」
一応、応じるが、警戒心を解かない保重。
「調布橋は、どう行けばよいでしょうか?」
「ああ、それでしたら……」
と振り返って、来た道を指さそうとした瞬間、
「保重! 離れろ!」
後ろから絹が大声で叫んだので、保重は咄嗟に右側に体を避けた。
瞬間、彼の左半身に、激痛が走る。
見ると、左腕が肩から指先まで凍りついていた。
「雪女か!」
絹が叫び、猫又の小梅が心配そうに保重に駆け寄ってくる。
「おのれ、かわしたか」
雪女は、冷たく、低く、背筋が凍るような恐ろしげな声を上げ、保重を見下ろしていたが、その保重に止めを刺そうと、さらに口から白い息を吐きかけて。
「にゃあ!」
突然、横から飛びかかってきた、猫又の姿の小梅に腕を噛まれていた。
そのままもつれ合って、格闘する二人。保重に近づいた絹は、
「大事ないか?」
と声をかける。
「うん。右手は使えるから、何とか五芒星は描ける」
そう言って、保重はただちに右手だけで、雪の上に五芒星を描く。
そして、いつものように「九字」を切り、青白い光を雪女に向けて飛ばした。
雪の上に、この世の物とは思えないような、恐ろしい叫び声が轟いた。
猫又の小梅が、鋭い爪で止めを刺そうと振りかぶる。
「待って下さい!」
「やめろ、小梅!」
雪女と保重の声が重なり、猫又の爪が雪女の喉元の直前で止まった。
「どうして止めるの、保重くん。こいつはあなたを殺そうとしたのに」
「話くらいは聞いてやろうと思ったのさ」
(相変わらず甘い男だな)
絹がそう思っていると、雪女は傷を負った肩口を手で押さえながら、よろよろと立ち上がり、語りだした。
「あちきは、雪女の『お
その口から出た言葉が、丸きり、江戸時代の「遊女言葉」だったことに驚く一行だったが、それ以上に、絹も小梅も腹を立てていた。
「何を都合のよいことをぬかすか」
「そうよ。保重くんを殺そうとしたくせに」
だが、当の保重は、雪女の前に立つと。
「いいよ。ウチには部屋が余っている。妖怪の一人、二人増えたところで変わらない」
いきなりそう告げていた。
「ありがとうございます、主さん」
「保重だ」
「保重さん。あちきの見立て通り、いいお人でありんすね。それに、よく見ればいい男……」
雪女のお雪は、そう言って、おもむろに保重の左手をそっと握った。
すると、あれほど氷ついていた腕から、あっという間に氷が解けていく。
「まったく、また妖怪を増やしてどうする気じゃ」
「保重くん。お人好しすぎ」
二人の妖怪たちは、文句を言っていたが。
「それにしても、お雪って、小泉八雲の話に出てきた雪女と同じ名前だね」
その怪談話を思い出しながら、保重が口を開くと。
「ええ。その『雪女』のお雪とは、あちきのことでありんす」
「ええ!」
驚いて、お雪の顔をまじまじと見る保重だったが。
「でも、あれってもう何百年も前の話でしょ。確か江戸時代くらいだった気がするんだけど」
見たところ、彼女はどう見ても20代後半くらいにしか見えなかった。
「ほんざんす(=本当です)。あの話に出てきた、
依頼主の家まで案内してくれるという、お雪に道すがら話を聞いてみると。
小泉八雲の「怪談」で紹介された雪女のお雪。それは、次のような話だったことを保重は思い出した。
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昔、
雪女は巳之吉に覆いかぶさる。自分も殺されると思った巳之吉だったが、雪女はしばらく巳之吉を見つめた後、
「お前もあの老人(=茂吉)のように、殺してやろうと思ったが、お前はまだ若くて美しいから、助けてやることにした。だが、今夜のことは誰にも言ってはならない。誰かに話したら命はないと思え」
そう言って、雪の中に消えたという。
数年後、巳之吉は「お雪」と名乗る、白い肌の痩せた美女と出会い、恋に落ち、やがて結婚する。二人の間には十人も子供が生まれたという。
しかし、お雪は何人子供を産んでも、美しいままだったという。
ある夜、子供たちを寝かしつけた後、巳之吉がこう言った。
「こうしてお前を見ていると、18歳の頃に出会った不思議な出来事を思い出す。あの日、お前にそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」
お雪はそれを聞くと、立ち上がり、叫んだ。
「お前が見た雪女はこの私だ。あの時のことを誰かに話したら、お前を殺すと言ったはずだ。だが、ここで寝ている子供たちのことを思えば、どうしてお前を殺すことができようか。この上は、せめて子供たちを立派に育てておくれ。この先、お前が子供たちを悲しませるようなことがあれば、その時こそ私はお前を殺しに来るから」
そう言って、お雪は、溶けたように白い霧になり、消えていった。それきり、お雪を見た者はいなかったという。
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「そうでありんす。それがあちきでありんす。保重さん、よく覚えているでありんすね」
そう言って、くすくすと笑いだしていたお雪だったが、保重には、やはり納得がいかないのだった。
「いや、そもそも君は、いくつなの?」
「あら、嫌ですわ。女に年を聞くなんて、野暮ですねえ」
お雪は、そう楽しそうに言って、口を抑えて、可愛らしい仕草で笑っていたが。
(この雪女、不老不死か?)
妖怪は年を取らないのか、と不思議に思う保重であった。
つまり、現代風に言うと、お雪は「バツイチ」であり、しかも、妖怪らしからぬくらい、優しくて、情に厚いところがある妖怪なのであった。
妖怪話、怪談話の類は、人間を怖がらせたり、傷つけたり、殺したり、というのが大半だが、この雪女のように「人間と恋に落ちる」という話もなくはない。
だが、その手の話は、あまり多くはないのが実情だ。
そんなやり取りをしている二人を見て、絹は、
(まったくこやつは、よく物の怪を引きつけるのう)
と呆れていたし、猫又の小梅は、
(この女、いかにも男好きって感じで好きじゃない)
と思って、彼女を睨んでいた。
お雪は、どう見ても、人間で言えば20代後半くらいの、江戸時代の遊郭にいるような、艶めかしい遊女のようにしか見えないのだった。
「ところで、その巳之吉さんと子供たちはどうなったの?」
興味本位で、保重が尋ねると。
「夫と、子供たちは、幸せに暮らしました。あちきはそれを見届けたので、殺しはしなかったんでありんす。ただ、人間の寿命は短いもの。やがて、巳之吉も子供たちも亡くなり、あちきは一人になって、寂しくなり、また人を襲うようになったでありんす」
そう事の
「それにしても、保重さんは、いい男でありんすね。若い頃の巳之吉を思い出します。まだ独り身なら、あちきの旦那になりませんか?」
急に、しなを作って、保重の腕にしなだれるように、もたれかかるお雪。そのあまりにも妖艶な姿に、保重がどぎまぎしていると。
「雪女! 保重くんから離れろ!」
猫又が爪を出して雪女に襲いかかり、それを笑いながらかわす雪女。
(相変わらず、妖怪に『だけ』、よく好かれるな、こやつは)
絹は嘆息するのであった。
やがて、依頼主の家にたどり着くが、さすがに「お雪」を見られるわけにはいかないので、彼女には隠れてもらって、三人だけ家の中に入り、報告を済ませて、報酬を受け取り、帰路に着く。
その頃には、吹雪は止んでおり、幻想的な白銀の世界が、田舎の山里を覆っていた。
雪で白い花をつけたように見える、無数の木々。屋根に雪を乗せた無数の家々。そして、かすかに聞こえる織機の音。
そこには、現代社会では失われた、「昔話」のような、のどかな風景が広がっていた。
こうして、年齢不詳で、男好きの美女、雪女の「お雪」が妖怪屋敷の新たな住人になる。
白狐の絹、座敷童子の茶々、猫又の小梅、そして雪女の雪。
女の妖怪ばかりが、何故か住み着き、保重を慕うという、構図が出来上がっていた。
だが、保重は、「人間の女」にはとんと縁がないのであった。彼の中の「何か」が不思議なほど、妖怪たち、特に「女妖怪」を引きつけていた。
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