第5話 不穏な影

 座敷童子に続き、猫又まで仲間にして、屋敷に住まわせてしまった幸徳井保重。

 本来は「幸徳井屋」なのに「妖怪屋」と呼ばれるのに続き、夜な夜な妙な物音が聞こえてくる、怪しい屋敷として近隣住民の間から噂が立ち始めた。


 いつしか、誰が言い出したのか、幸徳井家の屋敷は「妖怪屋敷」と呼ばれることになっていた。


 そんな昭和九年(1934年)11月。

 世間一般の人は、まだ知らなかったが、この国を揺るがすような事件が、実は着々と水面下で動いていた。


 そのきっかけを作ることになる事件がこの月に起こる。


 依頼人がやって来たのは、そんな11月の初めころ。相手は、この手の手合いには最も慣れていそうな職業の男だった。


 それは陸軍の軍人だった。

 川中弥太郎かわなかやたろうと名乗った、男は、若々しくて、凛々しい、いかにも軍人らしいはきはきとしゃべる男だった。


「自分は、帝国陸軍第一師団、第三歩兵連隊所属、川中弥太郎軍曹であります!」

 陸軍の軍服をかっちりとまとい、敬礼をしながら挨拶をする彼を、少し戸惑いながらも向かい入れる保重、鬱陶しい物を見るような目で見守る絹だった。

 ちなみに、猫又の小梅と、座敷童子の茶々は、その頃、庭先で一緒に遊んでいた。


「まあ、そう固くならずに。それで、依頼というのは、どういったもので?」

「はっ。これは依頼というより、相談に近いものでありますが……」


 そう言って、川中軍曹は、説明に入る。

 そこで語られたのは、一般民衆が知る由もない「軍」の機密情報に関わる重大な情報だった。

 当時、日本陸軍では「統制派」と「皇道派」という二つの派閥があって、対立していた。

 簡単に言うと統制派は、内閣を中心に合法的に日本の政治を牛耳ることを目指していたのに対して、皇道派は若い青年将校が中心になって、腐敗した日本の政治を天皇親政の下での国家改造― これを「昭和維新」と標榜ひょうぼうしていた― を目指していた。


 そんな中、川中軍曹は、同じ第三歩兵連隊の中で、「不穏な動き」があるという。


「皇道派の中心人物と目されているのは、磯部浅一いそべあさいち大尉、村中孝次むらなかたかじ大尉の二人ですが、彼らは私の上官、歩兵第三連隊の安藤輝三あんどうてるぞう大尉を巻き込み、クーデター計画を練っているようなのです」


 これを聞いた保重は、むしろどう対処していいか、わからなくなっていた。絹もまた複雑そうな表情を浮かべている。


「でも、それは軍の機密ですよね? そんなことを話して大丈夫ですか?」

「もちろん、内密に願います」


「まどろっこしいのう。つまり、それが『物の怪』とどう関わるのじゃ? 所詮は軍人、つまり人間同士の対立に聞こえるが」

 絹もしびれを切らし、いつものように偉そうな態度でそう言い放っていたが。


 話にはまだ続きがあった。

「結論を急がないでいただきたい。実は私の上官にもう一人、斎藤仁三郎じんざぶろう大尉という人がいますが、彼はどうも『何者かに操られている』ように見えるのです」


「操られておるじゃと? 確かか?」

「はい」


 ようやく「妖魔」の影の話になり、絹が身を乗り出してくる。

「言動がおかしいと申しますか、時折、まるで何かに取りかれたように、異様な行動を取るのです。それも明らかに、磯部大尉、村中大尉、安藤大尉らを扇動するような言動です」


「つまり、おぬしは、その斎藤なる男が『物の怪』に取り憑かれて、この対立を煽っておる、と。そう言いたいのか?」

「はい」


「馬鹿馬鹿しいですね。そんなことあるはずないじゃないですか。所詮は、軍人同士の対立でしょう?」

 話を聞いて、思わず、本音を語っている保重に対し、絹は難しい顔で、


「そうか。き物か……」

 と呟いたまま、黙ってしまった。


「とにかく、一度、その斎藤大尉に会っていただきたい。判断はあなたたちに任せます」

 そう告げて、川中軍曹は、斎藤大尉が通常勤務している場所を教えて、斎藤大尉への紹介状を渡し、立ち去って行くのだった。


 二人になった後、保重は、

「絹。やはり人間同士の、ただの対立だよ」

 と言ったが、狐の絹は、直感的に感じるものがあるのか、それとも川中軍曹の心の中を読んだのか、相変わらず渋柿のような表情で、眉間に皺を寄せていて、


「いや。そうとも限らん。事件の影に『物の怪』がおって、人間同士の対立を煽っておる、ということはよくあることじゃ。『物の怪』にとっては、人間同士が争った方が、自分たちの都合に良いからのう」

 と保重が思いも寄らないことを口にし始めた。


「……わかった。じゃあ、その斎藤大尉に会いに行ってみるかい?」

 不本意ながらも、保重が口にすると。


「うむ。早速、明日にでも行ってみよう」

 絹は、ようやく得心が言ったように、深く頷いた。



 翌日。

 彼らは、早速、川中軍曹から教わった、斎藤大尉の居場所へ向かうことになった。


 教えられた場所は、陸軍の兵営であった。歩兵第三連隊。歩兵第一連隊と共に、明治七年(1874年)に当時の東京鎮台ちんだいに置かれた、歴史ある古い連隊で、当時は麻布台あざぶだいと呼ばれた、麻布区新龍土りゅうど町(現在の港区六本木七丁目)に兵営があった。

 すぐ近くの、ひのき町(現在の港区赤坂九丁目)には、同じく歩兵第一連隊の兵営があった。


 市電で現地に向かい、兵営の門、即ち営門の前で、警備兵に紹介状を渡して、中に通してもらう。さすがに絹の「神足通」でいきなり飛んで行くのは、軍隊という性質上、下手をすれば命に関わると思ったからだ。


 当時の歩兵第三連隊には、兵員が約2000名弱いたと言われている。帝都、東京を守る、ある意味でのエリート部隊でもある彼らだが、その日も訓練と、軍務に明け暮れていた。


 辺りから、兵士たちの喚声や怒号が聞こえてくる。

 保重は、元来の穏やかな性格からこういう場所は苦手だったし、絹もまたどこかつまらなさそうな顔で歩いていた。


 やがて、案内の兵士が、一軒の兵舎の前で立ち止まり、「ここで待つように」と言い残して建物に入って行った。


「わらわはどうにも、この手の雰囲気が苦手でのう。きな臭いというか、物々しいというか」

 そういうところは、女の子みたいだ、と保重が思っていると。

「おぬしも同じじゃろうが。戦には向かない男じゃからのう」

 心を読んだ絹に、睨まれていた。


 やがて、先程の案内の兵士が建物から出てきて、「お入り下さい」と言って、中に通すと同時に、再び先導する。


 中はいくつかの居室に分かれていたが、そのうち、廊下の一番奥にある六畳ほどの居室のドアをノックし、案内の兵士は入って、二人を通した。

 そして、二人の退路を塞ぐように、ドアの前で銃を上に向けて立ち止まった。


 部屋の奥に大きな机があり、男が二人立って、会談をしていた。


 向かって左側にいる男は、眼鏡をかけた、一見すると温和にも見える男で、軍人らしからぬ優しげに見える目元が特徴的な男だった。

 一方、もう一人の男は、対照的に、他人を見下すような鋭い視線、筋肉質でごつごつした大柄な体躯を持つ男だった。


 それぞれ、安藤輝三大尉、そして斎藤仁三郎大尉と名乗った。

 彼らを見ていた、絹の表情が一変した。

 明らかに斎藤大尉の方を見て、表情を曇らせている。というより、保重には、それが斎藤大尉の内面を探るような目つきに見えるのだった。


「民間人が一体、こんなところに何の用だ? 貴様ら、記者か何かか?」

 保重の想像通り、いや想像以上に斎藤大尉は、態度が尊大で、威圧するような無遠慮な視線を向けてきていた。


 一方の安藤大尉は穏やかな表情のままだった。

「保重。こやつに間違いない。憑き物じゃ」

 絹がそっと、保重だけに聞こえるように耳打ちしてきていた。

 彼女は、「他心通」と「天耳通」を使い、一瞬にして相手の正体を見抜いていた。


 ちなみに、憑き物とは「憑依ひょうい」のことを差すが、「憑依」という言葉は戦後に作られた言葉なので、当時はまだなかった。


「しかし、どうする? これだけの兵に囲まれては、迂闊うかつなことはできないのでは?」

 保重もひそひそ話をするように、応じる。

「わらわにいい考えがある」


 その態度に、斎藤大尉は、神経を昂らせて、過敏に反応していた。

「貴様ら、兵営の真ん中で密談とは、大それたことをするではないか。何の用か知らんが、俺は忙しい。邪魔立てするなら、つまみ出すぞ」


「まあまあ、斎藤大尉」

 安藤大尉が諫める中、絹がおもむろに前に出て告げた。


「斎藤大尉。私たちは、まじない師でしてね。あなたたち軍人に戦勝祈願のまじないをしようと思ってきたのです」

 完全に口からでまかせだった。保重が唖然とする中。


「戦勝祈願だと。いらんいらん、そんなもの。俺は忙しい」


「斎藤大尉。よいではありませんか。見ればこの者たち、特に武器も持ってはいない様子。害意はないでしょう」

 安藤大尉が、穏便な態度で、なだめてくれていた。


 つくづく、安藤大尉に救われている、と感じる保重だった。

「くっ」

 斎藤大尉の表情が、一瞬曇ったのを、絹は見逃さなかった。


 刹那、何かを感じ取ったのか、斎藤大尉は脱兎のごとく駆けだして、部屋を出ようとした。


「保重! 今じゃ!」

 絹の叫び声と共に、保重はすばやく持ってきた万年筆で、五芒星を地面に描くと、空中に九字を切って、呪文を叫ぶ。居室からドアを開け、すでに廊下を駆けていた、斎藤大尉の背中を青白い光が貫いたように見えた。


 慌てて、彼らは斉藤大尉を追って、廊下に達する。


 その瞬間、斎藤大尉の背中から何かが出てきた。

 その恐ろしい光景を、その場にいた、絹、保重、安藤大尉、案内の兵士の四人だけが目の当たりにする。


 驚くべきことに、それは「狐」だった。

 だが、白狐の絹とは明らかに違っていた。


 絹と同じように体毛は白いが、尻尾の先端が赤黒く覆われており、その尻尾が九つにも割れていた。しかもそれだけではなく、体長が2メートル近くもある巨体を有していた。

 さらに、その巨体から異様なほどの強い妖気を感じる保重であった。それは、背筋も凍るような、おどろおどろしいまでの強烈な「魔」の力だった。圧倒的すぎる魔力に、体が押しつぶされるような感覚に襲われる。


「おのれ、妖怪め!」

 咄嗟に案内の兵士が拳銃で発砲し、それに安藤大尉も続いて、発砲していた。


 だが、狐の化け物に銃弾は当たらず、まるですり抜けるように、壁に銃弾がめり込むだけだった。


 唖然とする兵士と安藤大尉を横目に、絹は、


「やはり、おぬしか。玉藻前たまものまえ!」

 すでに、他心通と天耳通によって、察知していたらしき彼女は、驚きもせずに、相手を正面から見据えて、対峙していた。


 不気味な狐は、妖艶とも取れる、艶のある女の声で、

「天狐か。あと少しだったのに。よくも邪魔してくれたねえ」

 と鎌首をもたげる蛇のように、絹をその細長い目で鋭く睨んでいた。


「玉藻前。聞いたことがある。九尾きゅうびの狐か」


「さっさと封印しろ、保重。もう一度、九字を切れ」

 だが、絹の命令によって、保重が九字を切る前に、玉藻前は、


「ふふふ。やられるわけにはいかないのでな。さらばじゃ」

 その前に、すばやく廊下の壁に突撃すると、次の瞬間には、壁をすり抜けて逃げて行った。


「待て!」

 絹は、自らも狐に変身し、同じように壁をすり抜けて追って行った。


 残されたのは、気絶したまま動かない斎藤大尉、唖然とする兵士や安藤大尉、そして保重だった。


 温和な表情の安藤大尉の目が曇り、保重に向かって、鋭く詰め寄ってきた。

「一体どういうことですか。あれは?」


 たじろぎながらも、保重は説明すする。

 「物の怪」が斎藤大尉に憑いていたこと。それを察知し、追い出して捕らえようと思ったが、逃げられたことを。


 さすがに、二人は仰天していたが、それでも実際に目の前で起こったことを見てしまった以上、信じるしかないと諦めたのか、口をつぐんでしまった。


「斎藤大尉は大丈夫でしょうか?」

 彼に向かって、呼びかける案内の兵士を見ながら、安藤大尉が聞いてきたが。


「大丈夫です。今は気絶しているだけです。目が覚めても、憑かれていたことは覚えていないでしょう」

 保重が、絹によって、取り戻した陰陽師の記憶、知識を動員して、そう答えを返すと、ようやく二人は安堵の表情を浮かべた。


 やがて、絹が廊下の壁をすり抜けて戻ってきたので、兵士も安藤大尉も、もはや驚きはしなかったが、唖然と見つめていた。


「口惜しいが、逃げられた」

 珍しく、落胆した表情を浮かべて、狐から人に戻る絹。


「あれは一体何だ、絹?」


「おぬしが自分で言ったじゃろう。玉藻前。またの名を九尾の狐。わらわのような天狐とは、真逆の『妖狐ようこ』と呼ばれる『物の怪』じゃ」


 玉藻前。あるいは九尾の狐。平安時代の昔からいるという、伝説上の妖狐であり、数々の悪さをしてきた「物の怪」の代表格とも言える、妖怪だった。

 その特徴として「人を操るすべに長けている」のが上げられ、古来より歴史の影で人々を操って、暗躍してきたと言われている。


 二人の、世間離れしすぎる会話を聞いて、唖然としていた二人だったが、安藤大尉は、心当たりがあるようで、声をかけてきた。


「本当に妖怪なんですね。しかし、考えてみれば、確かに斎藤大尉にはおかしな言動がありました」


「どういうことですか? 安藤大尉」


「彼は必要以上に、政府を憎むような発言をし、我々に早々に決起せよ、と盛んに訴えておりました」


「なるほど」


 保重は、直感的に、この安藤輝三大尉は、良心的な人だと見抜いていた。人の性格は表情に現れるとも言うが、穏やかな笑みを浮かべる彼に、軍人らしさを感じなかったのも確かだった。


「とにかく、ありがとうございます」

 彼はそう言って、わざわざ頭を下げてきた。見たところ、年齢も30歳前後で、保重よりも年上だから、恐縮してしまった保重は、


「いえ、こちらこそご迷惑を」

 と同じように頭を下げていた。


 そんな様子が我ながらおかしく思えてしまい、少しだけ破顔していると、同じように安藤大尉も笑顔を見せていた。


「安藤大尉。もし、またこのようなことがあれば、こちらに連絡していただけますか?」

 気を許した保重は、名刺を取り出して、彼に渡していた。そこには「妖怪屋」、つまり「幸徳屋」の住所や電話番号が書かれてあった。


「わかりました。気をつけておきましょう」


 やがて、斎藤大尉が目を醒ますが、予想通り、彼の記憶には「憑き物」に憑かれたという記憶もなかったし、それ以前に、憑かれた時以降の記憶のほとんどが抜け落ちていた。


 斎藤大尉と安藤大尉、そして案内人の兵士にも礼を言われ、二人は兵営を後にする。


 帰り道。玉藻前を追う際に、神足通を使いすぎて疲れたと愚痴をこぼす、絹を連れ、市電で帰ることになったが。

 市電の車内で、保重は考えていた。


(安藤大尉か。いい人だな。ああいう人が味方になってくれれば助かる)

 第一印象から軍人らしからぬところが見受けられたが、実際に接してみると、思っていた以上の人格者に彼には見えた。


「ああ、安藤大尉か。確かに軍人らしくないのう。ああいう男が一人でもおるのは、救いかもしれん」


「絹。また勝手に人の心を読んで。それより玉藻前は大丈夫なの? また軍人の誰かに取り憑いたりしないだろうね?」


「それは、わらわにもわからん。ただ、玉藻前は『心が弱い者』に取り憑くとも言われておる。あの斎藤という男に、何らかの隙があったのであろう」


 だが、絹には絹で心配事があった。それは相棒の保重のことだった。

(やはりこやつの陰陽師としての力は、まだ弱い。何かよい手段はないものか)

 玉藻前の妖力が強力だったとはいえ、それでも一撃で仕留められず、取り逃がしてしまったのは、この保重の能力が不完全だったことも、少なからず影響していた。


 安藤輝三。実在の人物である。当時29歳。この一見、軍人らしくないほど温和に見える男が、後に昭和史において、重要な大事件、二・二六事件で中心的な役割を担う人物になるとは、この時の彼らは思いもしなかったが。


 こうして、この一件は幕を閉じた。かに見えたが。


 11月20日。

 前出の磯部浅一大尉、村中孝次大尉をはじめとする、複数の陸軍皇道派の若手将校が、政府首脳や重臣を襲撃するという、クーデター計画を立てているのを告発され、主要メンバーが憲兵によって逮捕されるという事件が起こった。


 後にこれは「陸軍士官学校事件」、「十一月事件」、「十一月二十日事件」とも呼ばれることになる。


 「天耳通」によって、そのことを絹から知らされた保重は、斎藤大尉の件があっても、なくても結局、きな臭いこの事件は防げなかった、と嘆くのであった。


 そして、この事件が後に、日本中を揺るがす大きな事件の、「前触れ」ともなった。


 戦争の音は、確実に近づいてきていた。

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