第2話 六神通

 翌朝、保重は目覚めるとすぐに、居間に向かった。


 未だに、昨日の出来事が信じられない彼は、半信半疑の思いで、居間に向かったのだが。


「起きたか、保重」

 居間に入ると、いつの間にか少女の姿に戻っていた絹が、畳の上に足を崩して座っており、彼は言葉を失った。同時に思う。


(僕、確か名前を名乗ってないはずだけど)

 不思議に思っていると。


 白狐の絹は、妖艶に微笑み、

「名乗っておらんのに、名前がわかって不思議か?」

 まるで、彼の心を読むようにそう言った。


「おぬしは、まだわらわの力を信じておらんようじゃな。よかろう。見せてやろう」

 そう呟くと、絹はおもむろに語りだした。


「わらわは、白狐じゃが、同時に『天狐てんこ』でのう」

「天狐?」


「ああ。天狐というのは、あらゆる狐の最上位にいるとされる存在でな。神にも等しい力を持っておるのじゃ」


(神と来たか。随分と法螺ほら吹きな狐だな)


「今、わらわのことを法螺吹きと思ったじゃろう?」

 再度、心の中を完全に読まれ、仰天して言葉を失う保重に対し、絹は微笑と共に言葉を継ぐ。


「わらわは、『六神通ろくじんつう』を備えておる。人の心を読むのは、その中の一つ、『他心通たしんつう』という能力じゃ」

 絹によれば、有効射程距離は約20キロ。また、射程内であれば全ての人間の心を読めるが、常に聞こえれていれば、膨大な数の人間の心が入ってきて、精神が崩壊するため、意図的に、スイッチのようにオンとオフを切り替えられ、対象となる人物を自在に絞れる、という。


神通力じんつうりきみたいなもの?」


「そうじゃ。せっかくじゃから、他の能力も見せてやろうぞ。わらわの肩に手を置け」

 言われて、保重は絹に近づく。触れただけで、折れてしまいそうな華奢な体に見える、その細い女性らしい体に触れることで、少しばかり緊張していたが、肩に触れた瞬間、景色が一変していた。


「なっ。どういうこと?」

 気が付くと、彼と絹は、外にいた。

 一瞬にして、居間から門の外に移動していたのだ。保重には、何が起こったか、全くわからなかった。


「これは、『神足通じんそくつう』という能力じゃ。自由自在に思う場所に移動できる。水面みなもを歩くことも、壁をすり抜けることも可能じゃ」


「馬鹿な。僕は、夢でも見ているのか……」

 しかも、絹によれば、一瞬で移動していても、その移動中の姿は、人間には検知できないという。


 最も、これには制限があり、体力を使うため、一日に使える回数には限度があり、多用はできないらしい。運べる人も一人が限度という。

 また、海外などの遠隔地にも行けないともいう。

 さらには、この神足通には、自身の姿を自在に変えられるという能力もあるという。絹が狐から人間に変わったのもこの能力のなせる技だった。


「疑り深い奴じゃのう。では、もう一つの能力を見せるか」

 そう言って、絹は目を閉じた。


 一体、何が起こるのか、心なしか緊張した面持ちで、保重が様子を伺っていると。

「うむ。もうすぐ金杉下町の電停から市電が発車するのう」


 保重が時計を見ると、時刻は8時30分。彼の記憶では確かに、路面電車、市電が発車する時刻だが、ここから金杉下町の電停まで、距離は300メートル以上はあるはずだ。彼女は、その市電の発車のベルの音を聞いていた。

 

「『天耳通てんにつう』と言ってな。この世の全ての声や音を聞き取ることができるのじゃ」

 ただ、絹によると、この能力にも制限があり、「他心通」と同じく有効射程距離は約20キロ。「他心通」と同じく、意図的にオンとオフを切り替えられるし、対象を絞ることも可能という。


「ははは。一体、どうなってるんだ?」

「少しは信じる気になったかのう」


「まあ、信じるよ。それで、他の能力は?」


 門から再度、家に入り、居間に戻る途中で聞いていると。


「うむ。他の三つは、どうにも説明しづらい能力でのう。『宿命通しゅくみょうつう』。これは、自他の過去の出来事や生活、前世を全て知ることが出来る能力じゃ。おぬしの過去の経歴や、家族のこと、先祖のことも、わらわはわかっておったじゃろう?」

 改めて言われて、確かに絹は、自分しか知らないような探偵業の収入や、幸徳井家の過去のことも知っていたと思い返す保重。


「『天眼通てんがんつう』。一切の衆生しゅじょうごうによる生死を通知する知恵のことじゃ。早い話が、輪廻転生りんねてんせいを見る力じゃな」


「そして、最後に『漏尽通ろじんつう』。煩悩が尽きて、今生こんじょうを最後に二度と迷いのない世界に生まれないことを知る知恵のことじゃ。まあ、一種の『悟り』じゃな」

 やがて、居間に戻ってきて、座布団に座りながら、絹は満足気にも見える表情で語りを終える。


 ようやく、六神通のことを全て聞き終えた保重は、未だに文字通り「狐につままれた」ような状態にいたが。


「でも、どうして絹は、そんな天狐になれたの? 狐って、人間に悪さをするって言われているけど」

 その瞳を、目の前の狐様に向けて、尋ねると。


「うむ。よい質問じゃ」

 心なしか満足気に微笑むと、絹は、


「茶をくれぬか」

 と、偉そうに指示したため、保重は、台所で来客用の緑茶の用意をした後、居間に戻ってきて、彼女に湯飲みを渡して、急須で注いでいた。


「わらわは、300年あまり、厳しい修行をしておってのう。今より大体100年くらい前かのう。ついに努力が天界より認められて、ようやく天狐になったのじゃ。すごいじゃろう。うやまうがよい」

 相変わらず、偉そうに見える態度で、茶をすすりながら、大口を叩いていた。


「はあ。まあ、すごいのはわかったけど……」


「それと、人間に悪さをするという話じゃがな。それは『野狐やこ』じゃな」

「野狐?」


「うむ。まあ、言ってみれば、そやつらは野良犬や野良猫みたいなものでな。ロクに修行もせずに、ただ食って寝るだけの、情けない狐どもじゃ。じゃから人に悪さをする」

「へえ」

 初めて聞く話に、興味をそそられて、いつの間にか熱心に耳を傾けている保重であった。


「よく聞くがよい、保重よ。本来、狐とは人間と深い関係にあるのじゃ」

「深い関係?」


「うむ。古来より、人と狐は、密接な関係にあったのじゃ。狐は『稲荷神いなりしん』と言われ、五穀豊穣ごこくほうじょうの神と言われ、日本中の神社で祀られておるじゃろう?」


「まあ、そうだね」


「狐自体を『稲荷神』として祀るところも、また狐を『神の使い』として祀るところもある。故に、我々狐の世界でも、修行を積めば、わらわのような特殊な能力を得ることができるというわけじゃ」


(わかったような、わからないような。何とも名状しがたい、現実味のない話だな)

 同じく茶をすすりながら、保重がそう思っていると。


「まあ、そう難しく考えるでない。おぬしは知らんようじゃが、わらわとおぬしの前世には不思議な縁があってのう。これも運命じゃと思ってくれればよい」

 心の中を読んだ絹が、笑顔を見せた。


 見た目は、17、18歳くらいの女の子。笑うと可愛いと保重が思っていると。

「よせ、照れるではないか」

 早速、心を読んだ絹が、目を伏せていた。狐でも照れるのか、と保重は不思議に思うと同時に、少しだけ心が緩むのだった。


「ところで、絹は人間で言うと、いくつなの?」

 何気なく聞いていた保重に対し、絹は、表情を曇らせる。


「相変わらず、無遠慮に女子おなごに年を聞く男じゃのう。いくつでもよいではないか。見た目は自在に変えられるが、やはり人間の若い女子というのは、色々と都合がよくてのう」

 絹は、それだけを言って、人間としての年齢を教えてくれることはなかったのだった。最も、自在に姿を変えられる、神にも等しい存在とされる彼女には、もはや年齢など意味をなさないのかもしれない。



 ひとしきり、能力を見せられ、保重は、この白狐の能力を信じるしかないと思い始めていた。

 同時に、昨晩、言われたことも気になっていた。


「そういえば、絹。昨日、僕の陰陽師の能力が封印されたけど、封印を解けば、陰陽師として活躍できるって言ってたよね?」


「うむ」

「それ、どうやるの?」


 すると、この気まぐれにも思える狐の神様は、面倒臭そうに、大きなあくびをしながらこう告げた。

「うむ。億劫じゃが、やってやろう。こっちに来て、背中を向けて、服を脱げ」


「ええっ。服を脱がないと駄目なの?」


 まだ20代前半で、ロクに女性を知らない、保重が驚いて声を上げるが、絹は、我知らずという顔で、

「上だけでよい。早うせい」

 と急かしてくる。


 仕方がないので、照れ臭いと思いながらも、保重は素直に従い、絹のそばに行って、上半身だけ裸になるのだった。

 決して筋肉質ではない、色白な保重の背中が露わになる。

 だが、そこには特に傷跡もあざもほくろもない。一見すると、何の変哲もない背中だ。


 ところが、絹はその背中にゆっくりと右手を持っていき、細い指で優しく触れると、呪文のような不思議な言葉を唱え始めた。


 絹の柔らかくて、冷たい指先が気持ちいいと同時に、見た目は若い女性だから、緊張して、心臓の音が高まり、その音を聞かれないかと、冷や冷やしている保重が対照的だった。


 こっそり首だけを後ろに向けて見ると、背中に当たる絹の指先が青白く光り、狐火きつねびのように見える。


 そうして、5分近くも念仏のように、呪文を唱えていた絹だったが、やがてゆっくりと指先を離した。


「えっ。もう終わり?」

 保重が振り返る。


「うむ。これで眠っておったおぬしの陰陽師としての能力が覚醒するはずじゃ。しばらく待っておれ。何か思い出すはずじゃ」

 そう言ったきり、絹は、無遠慮にもごろんと畳に横になってしまう。


 完全に放置される形になった保重は、仕方がないので、新聞を読みながら、気長に時を待つことにした。


 やがて、30分も経った頃。彼の心の中に変化が起こった。


(何だ、これ。この記憶。まるで過去を見てきたようだ)

 彼の心の中、というよりも頭の中に、まるで映像のように記憶が甦ってきていた。


 それは、失われた「陰陽師」としての記憶だった。

 正確には、彼の記憶ではない。


 「木・火・土・金・水」からなる陰陽五行いんようごぎょう説、風水、天体観測、卜占ぼくせん、地相の知識から、五芒星ごぼうせいを使った「魔」の封印の技術まで、まるで布が水を吸収するかのように、頭の中に知識が流れ込んでくるのだった。


 不思議な体験だった。


 それは、彼ではない、昔の先祖の記憶に相違なかった。


 それらがあっという間に、知識や経験として、流れ込んでくる。


あやかしの封印方法、五芒星の描き方、九字くじの切り方まで。思い出した。これが陰陽師の力か)

 しばらく目を閉じて、心を静謐にしたまま、流れ込む知識を吸収する保重。


 やがて、目を開けると、横になっていたはずの絹が、こちらを優しく、包み込むような視線で眺めていた。


「思い出したか、保重」

「うん。何とも不思議な体験だけど。我が家は本当に陰陽師の一族だったんだね」


「じゃから、そう言ったじゃろう?」

「そうなんだけど、にわかにはさすがに信じられなかったよ」


 すると、絹は、微笑みながらこう告げるのだった。

「おぬしは、その力で、『妖怪事件解決屋』を開け。わらわは、しばらくここに住み着いて、手助けしてやろう」


「えっ。住み着く気なの?」

「なんじゃ、不満か?」


 言われて、思わず体を強張らせている保重。年齢が400歳とはいえ、見た目は少女のような彼女と、一つ屋根の下で暮らすのには、若干の抵抗があった。


「照れるな、保重。言ったように、わらわとおぬしの前世には、深い繋がりがある。これも運命という奴じゃろう?」

 絹は、彼の心を読み、笑顔を見せる。


 その笑顔が、年頃の若い女性のように、屈託がなく、可愛らしく見えてしまい、ますますどぎまぎとして、心臓の音が高まる保重。


(確かに、絹は可愛いけど、獣だしな。そういう意味じゃ、男女の『間違い』が起こることもないのかもしれない)


 天狐の狐、絹は、心なしか照れたように、頬を少しだけ染めているように見える表情で、

「おぬし。何を考えておる、まったく」

 と当然ながら保重の心を読んでいた。


 こうして、一匹の狐と男の、奇妙な共同生活が始まり、保重は、即日「探偵業」を辞め、「妖怪事件解決屋」を開き、新聞の広告にそのことを載せた。


 正直、そんなことで、果して本当に「食べていける」のか。大いに不安に包まれていた彼だったが。


 同時に。

(それにしても、心の中を全て読まれるというのは、厄介だな。下手なことは考えられない)

 そう思っていると、絹に睨まれていた。


よこしまなことを考えるなよ、保重。みっともないぞ」


 昭和九年、夏。

 不思議な狐と人間との、奇妙な共同生活が始まった。

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