昭和妖怪奇譚

秋山如雪

第1話 狐の恩返し

 日本には、古来より「妖怪」や「あやかし」、「物の怪もののけ」と呼ばれる者たちが存在していた。

 時代の流れと共に、彼らは次第に人間社会から追われ、力を失い、その姿を消していった。


 これは、彼らが力を失う直前の時代の物語である。



 昭和九年(1934年)、東京府東京市。


 次第に軍靴ぐんかの足音が迫りくるこの時代、まだ「東京府」と名乗っていた帝都、東京は、現代のような圧倒的な「光」には満ちていなかった。


 総人口は約587万人。現代に比べれば少ないながらも、十分な都会だったが、それでもまだ「闇」の部分は色濃く残っていたのだ。


 夜になれば、「光」ある明かりは消え、動物や妖怪などが徘徊する「闇」の世界はまだ存在していた。


 そんな中、下谷したや下谷金杉下町したやかなすぎしもちょう(現在の台東区根岸)に、一軒の古ぼけた屋敷があった。


 東京でも、古くから「下町」と呼ばれた、古い地域であった。ここに江戸時代を思わせる、長屋門を構える、武家屋敷のような広い屋敷があり、住人がたった一人で住んでいた。


 一見すると、学校の教師にも見える、穏やかな表情と、短く刈った頭が特徴的で、糸目のような細い目が、どこか優しげにも見える。コンチネンタルスーツに中折れ帽、ラッパズボンというハイカラな格好をしている。


 男の名は、幸徳井保重こうとくいやすしげ。風変わりな名字を持つ、この男は、先祖が武家であったと伝わっていた。


 だが、不幸なことに、父は陸軍の軍人でありながら、演習中の暴発事故で亡くなり、母は当時の流行病はやりやまいだった、結核で若くして亡くなっていた。


 兄弟はおらず、10代後半の若さで、両親を亡くした彼は、祖父母によって引き取られ、この先祖代々の屋敷で育てられた。


 だが、その祖父母もやがて亡くなり、天涯孤独となった彼は、この広すぎる屋敷で一人で過ごしている。


 その年の夏、8月。

 盛夏の中、近所の八百屋に買い物に出かけた帰り道、保重は道端で珍しい物を見かけた。


 狐だった。それも純白の毛並みが美しい、白狐びゃっこだった。当時、動物たちが街に舞い込んでくるのは珍しくなかったが、それでも犬や猫は見かけても、狐や狸などはあまり見ることがなかった。


 狐は、少年たちに囲まれて、棒でいじめられていた。少年たちは、年の頃、10代前半くらい。尋常小学校の五、六年生くらいに見えた。今でいう小学生の五、六年生くらいだ。


「やーい。野良狐がこんなところで何やってんだ?」


「お前ら、人間をかすんだろ? らしめてやる」


 少年たちに棒で、突っつかれながらも、狐は逃げようとしていないのが、妙だった。ある子どもは、狐に石を投げてさえいたが、それを苦もなくかわしているようにも見える。

 当時、まだ狐といえば、「人間を化かす」という噂が残っていた。所詮は、物語の中の世界だが、現代とは違い、迷信や怪談話が信じられていた時代だ。


 だが、保重は、さすがに見ていられなくなっていた。

 元来、穏やかな性格のこの青年は、意を決して、思いきって少年たちに声をかけた。


「これこれ。動物をいじめるのはいかんぞ」


 ところが、少年たちは、保重の方に振り返り、


「何だよ、おじさん。僕たちは狐と遊んでるんだ。邪魔しないでくれる?」

「そうだそうだ。あっち行っててよ」

「狐は人間を化かす、悪い動物なんだ。懲らしめて何が悪いんだ」


 強気な瞳を向けてくるのだった。

 少年たちの言い分より、「おじさん」と言われたことに、衝撃を受けていた保重は、それでも精一杯食い下がった。


「おじさんはひどいな。これでも僕はまだ二十代だよ。それより、寄ってたかって動物をいじめるのはよくない。それに、狐がみんな悪さをするわけじゃないさ」


「どうして?」


「ほら。神社には『お稲荷いなり』さんがいるだろ? 狐は人間にとって、信仰の対象でもあるんだ」

 理路整然と、しかし少年たちにもわかるように、優しい口調で語る保重に、少年たちはしばらくじっと耳を傾けていたが、やがて。


「そう言われると、そうかも」

 少年のうちの一人、小柄で、利発そうな子供がそう言ったのを皮切りに、少年たちは狐に興味がなくなったように見えた。


「つまんない。行こうぜ」

「ああ。狐、もう悪さ、するなよ」


 口々にそう言っては、飽きたのか、棒を道端に捨てて、立ち去って行った。


 残されたのは、保重と白い狐だったが。


 その狐の目が、保重を見ていた。そして、不思議なことに、狐は人間のように、ペコリと小さく頭を下げた――ように、保重には見えていた。


(随分、人間臭い狐だな)

 そう思っていると、白狐は、素早い足取りで、雑踏の中に消えていった。



 屋敷に戻った保重は、「仕事」を始める。

 とは言っても、彼には暇な仕事だった。

 代々武家だった彼の家は、明治以降、軍人を続けていたが、保重は優しすぎる性格が災いしてか、明らかに軍人には向いていなかった。


 父からも生前、そう言われていた彼は、20歳の頃に民間の探偵業を興した。当時は、まだその種の職業が十分に成り立つ環境があった。


 だが、先頃発生した、昭和四年(1929年)の昭和恐慌の煽りを食らい、日本経済は深刻な打撃を受けており、最近の稼ぎは芳しくはなかった。


 とどのつまりが、「儲からなかった」のだ。何とか祖父母や親が残した財産を切り崩して生活していたが、それもいつまで続くか、わからない状況だった。


(何か売らないと駄目かな)

 わずかに抱えている依頼の資料を見ながら、広い屋敷で、一人、明かりをつけた一室で彼は思っていた。


 夜半。


 すでに夜の10時を回っており、東京と言っても、昔ながらの下町のこの辺りは、静寂と闇に包まれていた。


 そろそろ寝床に着こうと考えていた保重の耳に、不意に小さな音が響いてきた。それは門を叩く音だった。不規則なリズムで、何度か叩かれているのに気づく。


(こんな夜中に誰だろう?)

 普段から訪れる人も少ない上に、夜半ということで、警戒しながらも、門に向かう保重だった。


 分厚い長屋門を開けると、そこには一人の若くて、美しい女性が立っていた。


 白い小袖こそでに、同じく白い打掛うちかけをまとっていて、髪の毛は長く、背中まで伸びている。古風な格好の割には、髪型だけが洋風の女性のようだった。


 年の頃は17、8歳くらいに見えた。少女と言っていい年齢だった。

 肌は若々しく綺麗で、髪も艶やかで、目鼻も整っている、少し切れ長の目を持つ美人だった。


 思わず見とれていた保重だったが、咄嗟に口を開いた。


「あの。こんな夜半に何か?」


 女は、しかし微笑すると、不思議なことを口にしたのだった。

わたくしは昼間、助けていただいた白狐でございます」


「はあ。人間に見えますが」


 首を傾げながら答える、保重の至極当然の返答に、少女は怪しくも見える、妖艶な笑みで答えると、次の瞬間、少女の姿が白い煙に包まれていた。


 何が起こったのか、わからず、戸惑いながらも目を閉じていた保重。再び目を開けると、目の前に小さな動物の姿があった。


 白い狐だった。間違いなく、昼間出会った、あの純白の狐だった。美しい毛並みを持ち、全身が雪のように白いのが特徴的だった。

 見間違いようがなかった。


「ま、まさか本当に?」

 さすがに、仰天して、目の前の出来事が信じられない保重だったが、彼をさらに驚かせる出来事が起こる。


「じゃから誠と言うたじゃろう。わらわは白狐の『きぬ』。喜べ、小僧。白狐は古来より幸福をもたらすと言われておるのじゃ。おぬしは、わらわを助けてくれた。恩返しをしようぞ」

 突然、狐が口を開き、人間の言葉をしゃべっていた。そのことに何よりも驚いていた保重だったが、その時代がかった、古風な話し方が気になった。まるで江戸時代の大名の姫のような話し方にも聞こえていた。


「あの……。あなた、いくつですか?」


女子おなごに向かって、いきなり年を聞くとのう。礼儀がなっておらんのう」


「はあ。すみません」


 ところが、その口から明かされた年齢を聞いて、保重は腰を抜かさんばかりに驚いていた。

「正確には覚えておらんが、大体400歳じゃ」


「400歳? ははは、何をそんな冗談を。からかわないで下さい」


「嘘ではない。わらわは、江戸の昔より、この街に住んでおる。何でも知っておるぞ」


 もはや、これが現実か、夢か、わからなくなっていた保重だった。目の前で起こったことがとても信じられなかった。


 だが、こんな夜中に、ここで立ち話も居心地が悪いと思った彼は、不本意ながらも、この狐を屋敷に入れることにした。


 屋敷の中で、一番広い、来客用の居間に彼女を通す。居間と言っても、古ぼけた畳敷きの、江戸時代風の居室だったが。


 そこで畳に座って向かい合い、お茶を淹れて差し出しながら、再度人間の姿に戻った女性の話を聞くことにした。若い保重は、内心、美しい少女を前にして、どぎまぎしていたが。


「それで。恩返しとは、具体的には何をしてくれるのでしょうか?」

 お茶をすすりながら、聞いてみると。


「そうじゃな。おぬしの家は昔から知っておるが、近頃、見入りが少ないであろう?」


「はい」

 内心、いきなり核心を突かれ、しかも保重の家の内情を知っている狐、いや絹に驚いていた保重だったが、絹はさらに続けた。


「じゃから、わらわが助けてしんぜよう」


「はあ。具体的には?」


「うむ。おぬしは気づいておらんようじゃが。おぬしの家は、実は武家の出ではない」


「ええ? そう聞いていますが」


「それは嘘じゃな」


 なんでもないことのように、いきなり幸徳井家の過去を語りだした絹。それは、保重が知らない、昔の話だった。


 白狐の絹によれば、幸徳井家は、代々、陰陽師おんみょうじの一族だという。

 幸徳井家は、陰陽師の大家として知られる、平安時代の安倍晴明あべのせいめいで有名な安倍家、そしてその安倍家と並ぶ勢力を誇った賀茂かも家のうち、賀茂家の分家筋だという。


 江戸時代の、天和てんな二年(1682年)に、幸徳井家の当主が夭折ようせつした時、同じく陰陽師の土御門つちみかど家の陰謀によって、断絶扱いを受け、以降は陰陽師であることを認められてこなかったという。


 はるか昔の江戸時代の出来事をまるで見てきたかのように、詳細に語る絹の口ぶりに、保重は、次第にこの白狐の言っていることが、嘘とは思えなくなってきていた。


「でも、陰陽師って、不思議な力を持つんですよね? 僕にも、亡くなった父にもそんな力はありませんでしたよ」


 それを聞いて、絹は嘆息する。

「おぬし。人の話を聞いておらんかったのか。じゃから、土御門家によって断絶させられた時に、能力の記憶も封印されたんじゃよ。その封印を解けば、おぬしは再び陰陽師として活躍できるというわけじゃ」


「はあ。しかし、それと恩返しと何の関係が?」


「鈍い男じゃな。つまり、探偵なぞ辞めて、陰陽師として生きればよい。この世にはまだまだあやかしがおるでな。仕事はいくらでもあるぞ」


 ようやく合点がいった、保重だったが、話してもいないのに、探偵と見抜かれたことに驚きつつも、封印を解くとか、陰陽師として生きると言われても、いまいち信憑性しんぴょうせいがない、というより現実味がなかった。


 そんな彼の様子を見ていた絹は、小さく溜め息を漏らし、

「まあ、よい。今日は疲れた。わらわは休ませてもらうぞ」

 そう言って、また狐に変身すると、いきなり横になった。自由奔放に、人間と狐の姿を行き来する彼女に保重は戸惑うが。


「ちょっと、絹さん。いきなり寝ないで下さい」


「絹でよい。敬語も不要じゃ。硬いことを抜かすな、小僧。わらわはどこでも寝れる。気にせずともよい」

 そう言ったまま、狐の姿のまま、目を閉じる絹。奔放すぎる姿に、保重は戸惑ったが。

 一つだけ気になることがあった。


「ところで、絹。一つ聞きたいことがあるんだけど」

 堅苦しい話し方は苦手だった、保重は絹に言われたように、敬語を使わなくなる。


「なんじゃ?」


「どうして、子供たちにいじめられて、何もしなかったの? 400年も生きてきた、君の力なら、子供たちを追い払えるんじゃない?」


 ところが、狐の絹の口から出た答えは、彼には少し意外なものだった。

「何を言っておる。『子供は国の宝』と言うじゃろ。いたいけな少年をいたぶる趣味はわらわにはない」


 保重は、少しだけ、白狐の彼女を見直していた。

(口も態度も偉そうだけど、根は優しいのかな)


 少しだけ、この狐に心を許していた。


 その絹は、既に寝息を立てて眠っていた。

 仕方がない、と思いながらも自分の部屋から毛布を持ってきて、彼女にかけた後、保重は自室に戻った。


 これが、幸徳井保重と絹の不思議な「出会い」だった。

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