絶起SF

 絶望を伴う目覚め。人はそれを絶起と呼ぶ。


 起きたらもう一限が終わってた、休日に起きたらもう午後だった、といった場合に使われる。絶望的な起床、故に絶起。単純ながらも実にしっくりくるネーミングである。それに直面したとき、人は安穏と寝ていた自分を恨み、そして絶望する。


 平たく言えば寝坊のことだが、ニュアンスが違う。起床した瞬間に押し寄せてくる感情は「ねぼう」などという間の抜けた音では表せない。


 いま、私は電車に揺られながら高校へ向かっている。時刻は10時13分、2限も終盤といった感じの時間である。電車が学校の最寄り駅に着くまではあと25分。既に3限の始まっているであろう教室に突入するにあたって、多少なりとも言い訳を考えておかねばならないだろう。3限の先生はめっちゃ怒るタイプの人だ。


 しかしよく考えてみれば、絶起して怒られるというのも妙な話である。


 例えば今日の絶起の経緯を見てみよう。昨晩23時35分に私は床に入った。そして今朝7時、スマホが健気に鳴らすアラームを完全に無視。一切目覚めることなく熟睡し続けた。結果として私は9時に目覚め、ここに絶起という現象が完成した。


 考えるべきは、絶起をしたのは誰なのかという点についてである。


 絶起の直接の原因となったのは、アラームを無視して寝続けたことである。その行為の主語は、他ならぬ睡眠中の私である。しかし、睡眠中の私は果たして私と言うべきなのだろうか?


 例えば、TとMの二人の人間の意識が入れ替わったとしよう。入れ替わってるー⁉というアレだ。この場合、Tの意識とMの体が組み合わさった方は「Tの意識が入ったM」ではなく、「Mの体になったT」であるという認識が一般的ではないだろうか。


 つまりかの映画を見てもわかるとおり、「私」というのは主に「私の意識」を指すもので、体はただの入れ物、というのが現代ではポピュラーな感覚なのである。


 では睡眠中の私はどうか。そう―――そこには私の体があるだけで私の意識はない。先述のことを敷衍すれば、睡眠中の私は私ではないのである。


 その睡眠中の私がアラームを無視したことの責任を、今の私が負うのは果たして筋が通っていると言えるのか?


 ―――ここまで考えたところで、たっぷり睡眠をとって冴えた脳に一つのアイデアがよぎった。乗換駅をスタスタと歩きながら考える。


 「私」とは、他人に責任を問うための概念ではないだろうか。


 例えば今日の絶起では、スマホは罪に問われず私は罪を問われる。それは私にはスマホと違って意志・人格・意識があり、よってこの絶起の主語は私であるとされるからだ。「スマホが私を絶起させた」のではなく「私が絶起した」。だから責任は私にある、となるのである。


 しかし実際には、あの時点ではスマホも私も同様に意識はないのである。これは大いなる矛盾だ。ではなぜスマホは罪に問われず、私は罪に問われるのか。


 それは「私」とは、その人の意識を指すのではなく、その人の周囲で起こる問題―――たとえば絶起とか―――に対して、責任を負わせるための概念だからではないだろうか。


 考えてみたら当たり前の話である。ある人間に意識があるかどうかなど外部から確かめることはできない。


 ナイフで人を殺したとして、果たして殺人者に意識はあるのかないのか、実はナイフのほうに意識があったりしないか。そんなことは原理的に確かめられない。だから意識=私という定義のままでは誰にも責任を被せられなくなってしまう。


 しかし「殺人者の意識の有無は外部からは確かめられない。よって無罪」などと宣う社会よりは、たとえ根拠が無くても「殺人者には意識がある。だから責任は殺人者にある」と言ってしまえる社会の方がきっと安定する。そこには自然淘汰が発生し、残るのは後者の社会のみになる。


 つまり、絶起という問題が発生したから、その責任を問うために睡眠中の私もまた私であるということになるのだ。たとえ論理的には「私」という語の意味からは外れていても、睡眠中の私も私であるということにされるのである。


 「私」という概念は意識の有無から論理的に導き出されるものではなく、社会をうまく回すためにでっち上げられたつぎはぎだらけのものだ。だから他人の意識の存在なんて確かめられなくても、自分が意識を失ってる時間でも、そこにはそれぞれの「私」が存在するということにされる。


 そして問題が発生したら、適当な「私」を見つけて責任を問うのである。そこに本当に意識があるのかを問わず。


 ……と、ここまで考えたところで学校の最寄り駅に着いた。そして電車を降り、駅のホームに降り立ったその瞬間に気づいた。


 そう、言い訳をなにも考えついていないのである。


 学校の方を見て、そして私は―――言葉通り、私の意識を指すものとしての私は―――こう考えた。


 3限は、サボろう。で、4限から何食わぬ顔で参加しよう―――と。

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