飲酒SF

 私は酒が好きだ。

 

 ただ特定の種類の物質を摂取しただけで、人間の意識というものがいとも容易く変化する。その事実は、人間もまた化学反応であり、物理現象であり、ただの肉なのだと語っているかのようだ。それが少し不気味で、そして愉快であった。




いま、私は友人と二人で飲みに来ている。この友人というのがなかなか頭の良いやつで、脳神経科学の研究者として某大学で働いている。


 普段はまさにザルそのもので、安酒ばかり大量に飲む男なのだが、今日はなんだか様子が違っている。何故かソフトドリンクばかり頼むし、いつもと同じように飲んでいる私をじいっと見つめてくる。気味が悪くなって、どうしたのかと聞いてみると、彼はためらいがちに口を開いた。


「……実はな。今日、ちょっと妙な被検者を見つけたんだ」


 この男が研究の話を、それも特定の被検者の話をするのは珍しい。研究をする上で他人の身体の情報を扱うことの多い彼はそれを漏らさないよう、普段は研究の話など全くしない。


「私の研究は人間の脳の活動を常に観察できるようにするっていうのが目的だ。頭皮に回路を描いて、ウェアラブルデバイスと組み合わせて、普通に生活してる人間の脳の活動を24時間観察するわけだな」


 頭皮に回路ってことは、被検者はみんなハゲてるのかい、と聞く。彼は苦笑して―――正確には、笑おうとして失敗した、ひきつった表情を一瞬だけ浮かべて―――話を続けた。


「今の時代、髪くらい避けて印刷する技術もあるんだよ。まあそれはいいんだ。今は実証試験ってことで、100人くらいの人に被検者になってもらってる。このデバイスをつけて普通に生活して、問題なくデータが取れてるかどうか見るわけだ。で、何が問題かって言うと、件の被検者は脳の活動がちょっと変だったんだ」


奴はいつになく深刻な顔をしている。何秒かの沈黙の後、絞り出すように語り出した。


「普通なら動く部分が、完全に停止していた。側脳とか、脳核とか―――平たく言うと、


 アルコールの入った頭で考える。


 それは、哲学的ゾンビというやつだろうか。いわゆる意識というものが無く、しかし表面的には普通の人間と何ら変わることのない存在。つまりその被験者の彼または彼女は、そういった存在なのかと問うてみる。


「部分的にはその通りだな。でも完全にそうってわけでもないんだ。データを見てみたら、夜の一定の時間帯だけは脳の働きが普通になってた。それで聞いてみたらな、その時間帯は酒を飲んでたって言うんだよ」


 さっきよりさらにアルコールの回った頭で考える。つまり、その被験者は普段は哲学的ゾンビの状態で、酒を飲んでる間だけは自我を取り戻す、ということだ。


 しかしそれは、おかしいのではないか。いきなり意識が芽生えたら、自分にさっきまで意識がなかったことには気づいたりしないのか。


「それは問題ないだろうね。記憶は真っ当に動いてたし、行動も一般的な人間となんら変わることもない。彼は十分にシラフのときと酔ってる自分の連続性を感じることができる」


「君だって毎晩のように寝て、意識を断絶させてるだろ?それでも、昨日の自分も今日の自分も同様に自分だと認識してる。意識なんてわりとそんなもので、自己の連続性については特に疑うこともなく受け入れることができてしまうんだよ」


 何かアルコールのものとは違う酩酊感が押し寄せてきた。


 その被験者の境遇に思いを馳せる。彼の意識は酔っている間だけ浮上する。それ以外のときはといえば、寝ている自分が勝手に動き回るような状態。


 そして彼は、その状態に無自覚だ。たとえば彼が禁酒など始めたら、正真正銘の哲学的ゾンビとして、残りの一生を過ごすことになるだろう。

 

「……本人には、まだこのことを伝えてないんだ。もし伝えたら、彼がどう感じるのか……いや、そもそも感じることができるのか……」


 何を言ったらいいか迷って、しかし何も言えずに、手元のコップに残った酒を見つめる。


 しばしの沈黙のあと、奴は語りだした。


「……まあ、なんだ。本来とは違う部分が意識を肩代わりしてる可能性も、まだ残ってるからな。実際に、大脳辺縁系―――通常とは違う部分が、意識を担当してるらしき例も観察されてる。今回のデータには表れてないだけで、他の部分が代わりに活発に動いてるのかもしれない」


「なにより意識の有無なんて、本質的には観測不能なものだしな。本当に脳の活動が全て止まってても、意識がそこに存在する可能性は0じゃない。哲学的には、な」


 実際にそうであると、お前は本当に思っているのか……とは、聞けなかった。


 彼は何かを振り切るように、店員を妙に大きい声で呼び止めて、一番大きいサイズのチューハイとハイボールを2杯ずつ頼んだ。相変わらず無茶な飲み方をする奴だ。きっと早死にするだろう。




 手元の酒をじっと見つめて、ふと思う。


 私の意識が、ただアルコールを摂取しただけで変化する。その事実は、私もまた化学反応であり、物理現象であり、ただの肉なのだということの、なによりの証拠であろう。


 つまり酒とは、意識なるもののあやふやさを、最も雄弁に語る物だ。


 では―――酔いが覚めたとき、「わたし」は本当にそこにいるだろうか。


 考えて、考えて、考えて―――何も考えたくなくなって、ただ、コップに残った酒を、一気に飲み干した。


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