第48話
手を繋いだまま、車に乗り込む。来人は静かに車を発進させた。
もしかしたらこのまま事情を聞かれるかと予想していたから、すぐに移動し始めたことにほっとした。
万が一、姉が追いかけてきたら。
プライドの高い彼女が後を追ってくることはない、しかしプライドが高いからこそあのままで終わらせるはずがないのでは、という二つの予想で、まだ心が震えていたから。
数分走って、気が付くと車は駐車場のような広い場所に停車した。私は来人を振り向く。
「公園だよ。丁度ナビに表示されたから寄ってみた。外に出てもいいし、ここに居てもいいけど……どうする?」
どうする。そう聞かれて、改めて周囲を見渡す。かなり広い駐車場で、来人はあえて端のほうに止めてくれたらしく、車も見当たらない。葉擦れの音だけが聞こえる状況に、やっと普通に呼吸が出来ていることに気づいた。
「……何か飲み物買ってきていい?」
答じゃない返事をしてしまったが、来人は優しく笑って頷いた。
「俺が買ってくるよ。何がいい?」
「じゃあ、ホットコーヒーで」
「了解。ブラックがあれば、そうするね」
私が頷き返すのを見届けると、かなり遠くに見える自販機へ向かって行った。
私は右手首をそっと押さえる。さっき姉の百花に掴みあげられた感触がまだ残っている。先日デパートで遭遇した時は人混みもあって会話を交わさないうちに逃げられたが、今日はそうはいかなかった。
『キモオタのくせに』
『妹のくせに』
『ダメ人間のくせに』
今日も投げつけられた姉の言い草は、もうずっと聞かされ続けてきたものだ。そして今に至るまで、私を形作る要素になっている。
私はキモチ悪い、私はあの人の妹で常に下に居なければいけない、私はダメ人間だ。
心の中で繰り返せば、それは姉の声になって再生される。思わず手首をつかんだ手にぎゅっと強く力が入る。
「消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ……」
「千早」
突然肩を掴まれ、ハッと我に返る。名を呼んできたほうを振り向けば、助手席側のドアを開けてしゃがみ込み、心配したような表情の来人がいた。
「大丈夫?」
肩に置かれていた手が、ゆっくりと左頬を包んでくる。温かい飲み物を買ってきてくれたからだろうか、ふんわりと温かくて、温もりが優しかった。気持ちよくて思わず目を瞑ると、同時に涙が零れ落ち、慌てて拭うが、その手も来人に押さえられた。
「いいよ、我慢しないで。泣きたいなら泣いていればいい。俺がいると泣けないなら、あっち行ってるから」
我慢しなくていいと言われたからか、私の目からは後から後から遠慮なく涙が流れ続ける。まるで壊れた蛇口だ。止めたいのに止まらない。私は声が出なかったので、黙って頭を振った。
それだけで意図を理解してくれたらしい来人は、笑いながら手に持っていた缶コーヒーを握らせてくれる。そのまま反対側へ回って、自分は運転席へ座った。
缶コーヒーなんて久しぶりだ。リングプルってこんなに固かったっけ。やっとの思いで開けて口を付けると、コーヒー特有の苦みが胃と気持ちに染みわたった。
「美味しい……」
「それは良かった。ちゃんとしたコーヒーショップがあればもっと良かったけどね」
「ううん、缶コーヒーってこんなに美味しかったんだって見直してる」
お世辞でも冗談でもなくそう感じる。一気に飲んでしまうのが勿体なくてチビチビ口を付けた。
しばらくして、涙も止まっていたことに気づいて、改めて来人へ向き直る。
「ごめんね、さっきからみっともないところばかり見せちゃって」
同じく買ってきた飲み物を飲んでいた来人は、飲みこんでからこっちを見た。
「みっともなくなんかない。千早は被害者なんだ。そんなことで気を使わなくていいよ」
まだ目尻に残っていたらしい涙を指で拭ってくれる。被害者。想定外のキーワードだ。
「あんなのが家族だなんて、大変だったな、今まで」
そのまま滑り降りた手は、私の手を強く握る。若くても男の人の手だ。私よりずっと大きくて分厚くて力も強い。
さっきまで私の中でこだまし続けていた姉の罵声が遠のいていることに気が付いて、自分で驚いてしまった。いつもなら、数時間は続くのに。
「半分だけ会話聞いちゃった。でも何も言わなくていいから。今日のことはもちろん誰にも言わない。でも俺は覚えていてもいいかな。これからも千早を守るために」
私の指の間に自分の指を滑り込ませ、更に手と手を密着させながら来人は話し続ける。
「聞かないの?私と、姉のこと」
「そのうちね。今は話さないほうがいい気がする。千早が安定して、俺に話してもいいって思ったらでいいよ」
来人になら聞いてもらってもいいと、既に思っている。あまりに無様で惨めな私の子ども時代を。しかし完全には心の準備が出来ていない。来人はそこまで見越してそう言ってくれたのだろう。毎度ながら気遣いの奥深さに頭が下がる。
「分かった」
ありがとう、という意味を込めて私のほうから来人の手をぎゅっと握り返す。顔を見ようと目線を上げると同時に、来人の唇が私のそれと重なった。エンジンを切った車内は暖房も切れていて寒かったが、手と唇の温もりが心地よくて、私はしばらくそのままじっとしていた。
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