第46話

「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」

 微かに語尾に京都風の名残を感じる女将らしき女性が、店の入口で出迎えてくれた。お寺のような立派な日本建築のレストランだった。

 来人が返事をしてくれて、女将が奥座敷へ案内してくれた。一つずつの部屋はそう広くはなさそうだが、襖で隔てられてる分他の客を気にしないで済みそうな造りに、私はホッとして後ろを付いて行った。


「ご注文がお決まりの頃また伺います」

 お品書きとお茶を供してくれると、女将は静かに退室していった。

 日本家屋にしては高い天井が解放感を与える。お寺っぽいと思ったら隣は本当にお寺らしい。綺麗に手入れされた境内を借景にして、目も楽しませてくれるようだ。


「季節のコースでいいかな。創作料理だけど精進料理風だから食べやすいと思うよ」

 お品書きを見ていた来人が声を掛けてくれる。私は振り向いて頷いた。

「すごい素敵なお店。若いのによく知ってたね」

「そう?前に上司に接待で連れてこられたから覚えてただけなんだけど、気に入ったなら良かった」

 丁度注文を聞きに来た女将にオーダーを伝え、来人と二、三言やり取りする。再び部屋が静かになると、何の鳥か分からないけれど遠くから鳴き声が聞こえてきた。それくらい周囲が静かだということだ。


「もう、怒ってない?」

 唐突な来人の切り出しに、私は驚き、そして首を傾げた。

「怒るって、私が?」

「うん、千早追っかけてブライトに転職すること」

 ああ、それか。

 私は笑いながら、お茶を手に取る。温かくて心が落ち着く。

「いや、怒るっていうか……、とにかく驚いたのよ、あの時は」

 まったく予想もしていない事態が起こると、現実が静止画になるということを初めて経験した。

「まあ、確かにパニックになってるこっち見て笑ったあんたの顔には腹が立ったけどね」

「え?笑った?違う違う、多分それは、ポカーンとしてる千早が可愛かったからだよ」

 何言ってるんだろう本当に。アホ面を可愛いとか言われてもさすがに嬉しくないわ。

 あの会合を思い出したようにニコニコし始めた来人には、怒ってますよ、はい。

「もういいけど。これからは同僚になるんだから、ああいうドッキリは止めてね」

 そう言いつつお茶をもう一口含む。緑茶の爽やかな香りが清々しい。


「やらないよ。もうこれからは、絶対に千早に隠し事はしない」

 湯呑を包んだ私の両手を、来人の手が外側から包みこんだ。


「前にも言ったけど、新年だからもう一回言う。俺は千早が好きだ。こんなに自然に好きだと思えた相手は千早が初めてだ。千早が人と濃い関係を作りたくないと思ってそうなことは気づいている。けど、俺がごく自然に千早を好きになったように、いつか千早にも俺を無理なく受け入れてもらえるように努力する」


 一言一言、自分自身と私の耳に刻み付けるように、しかし静かにそう告げる来人から、私は目が離せなかった。


『いつか千早にも俺を無理なく受け入れてもらえるように』


 今朝うちに突撃された時に、来人の勝手は普通に受け入れられるようになっている自分に疑問を感じたことを思い出す。

 しかしまだその答えは出ていない。今のところは、来人の言葉にただ頷くだけにしておいた。


◇◆◇


 来人が最初に言ったように、精進料理っぽい野菜中心の料理が続き、最近食欲不振気味だった私でも最後の水菓子まで平らげることが出来た。見た目も味も器も良し。外出も外食も苦手だけど、たまにはこういうところでご飯を食べるのはストレス解消になるかもしれない。


「ご馳走様でした。美味しかった」

「よかった。前にも思ったけど、千早は食べ方綺麗だね」

 そう言えば私も以前来人にそう感じたことがあることを思い出した。

「親が厳しかったからね……。私子供の時左利きだったんだけど、それも強制的に右利きに変えさせられたりしたし」

 先に左手を出すたびに叩き落とされた。いつしか左手を使うことは悪だとすら思うくらい、徹底的に。しかし表面上は右利きになっていても、握力は左のほうが強い。根本は変わっていないのだろう。


 よくある話だと流したところで、来人が怖い顔をした。

「もう千早も大人なんだし、左が使いやすいなら戻してもいいんじゃない?」

 やけに生真面目な顔でそう言われて私は固まる。戻す?

「今時左利きを直すって珍しい親御さんだね。まあたまに聞くけど。大変だったでしょ、利き手変えるの」

 わざとだろうか、庭に目を転じながら来人が言う。大変だった?

「無理に左を使う必要もないけどね。もっと千早は、好きに振舞っていいと思うよ」


 次から次へと投げかけられる来人の言葉に、自分の感情がついて行かない。来人は何を言っているのだろう。元へ戻すとか、大変とか、好きに振舞えとか。

 混乱する思考とは反対に、ものすごい勢いで記憶が巻き戻される。高校生、中学生、小学生。いやもっと小さかった時の自分まで。


 じっと自分の手を見つめる。左手を。気が付けば輪郭が滲んで、水滴が次々と滴り落ちてきた。

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