第37話
無事一日を終え、私はさして疲れていないにも関わらず、定時には矢崎さんと佳代達にオフィスから追い出された。
会社を出たところでスマホが唸った。手に取るとやはり来人だったが、開くことなくスマホをバッグへ入れる。応答しないのは失礼なのかもしれないが、昼に感じた感情を整理してからでなければ、相手が来人なら自分が何を言い出すか分からない。その為の時間が欲しかった。
普段はそのまま地下鉄に乗るが、今日は近くのデパートまで足を伸ばす。無くなりかけていた化粧品を追加購入し、冬物の服でいいものが無いか探すため、上の階へ移動した。
十二月に入っているからか商品だけでなく店内装飾も華やかだ。目を奪われながら新作のコートに手を伸ばしかけたところで、名前を呼ばれた。
「あれ?千早じゃない」
声が聞こえた途端、視界から一切の色彩が消えた。水中にいるように音が遠い。それなのに私の名を呼んだ人の気配と足音だけははっきりと感じ取れる。
全身から汗が吹き出すのが分かる。しかし声の主は、私の異常は何一つ考慮しない。いや、そもそも見ようとしない。昔から。
「ちょっと、こっち向きなさいよ」
軽やかに明るい声で、そう言いながら私の前に回り込む。明るい栗色の髪が目に入った。
「お姉ちゃん……」
「久しぶり。なあに?随分デキる女っぽいファッションするようになったのね。一瞬分からなかったわ」
傍から見れば仲の良い姉妹の会話。だが私は、今すぐ窓を蹴破って外へ飛び出したいのを必死で抑えていた。
◇◆◇
気が付けば、自分のマンションへたどり着いていた。玄関に入ったところで力なく座り込んでしまう。まだ手が震えている。服の下は汗がびっしょりだ。早くシャワーを浴びて着替えないと本当に風邪がぶり返してしまう。しかしやっと自分だけの空間にたどり着いた安堵で、体に力が入らない。
また、こうなった。いや前よりひどくなっているかもしれない。
家族なのに。本当に血がつながっている実の姉なのに、私は彼女といると自分の存在が踏みつぶされ息絶えそうになっている蟻になったように感じる。
『なにそれ、変なの』
『あんたには無理なのに何頑張っちゃってるの』
『すぐいい子ぶるよね。本当は違う癖に』
『うわっ、キモ!こんなのが妹とか、ないわー』
子供の頃から聞き続けた姉の声が大音響で響き始める。打ち消したくて思わず大声で叫ぶが、姉の声だけ更に大きくなって部屋中に反響している。
今日も。
『こんな高い化粧品使ってるの?似合わなーい』
『このスカーフ、本物?違うわよねー、あんたっぽくないもの』
『まだあのキモいゲームやってるのー?オタ全開だよねー』
巧妙に私にしか聞こえない大きさの声で、だけど私の脳裏に刻み付けるように囁きかける。どんなに嫌でも、姉の声だけはどれだけの喧騒の中でも遠く離れていても、私はしっかり聞き分ける。一言一句逃さずに。
碌に会話もしないまま、私はデパートを飛び出した。丁度大通りを通りかかった空車のタクシーに乗り、なんとか家まで帰って来れたけれど、本気で救急車を呼ぼうかと思ったくらいだった。
少しずつ多めに酸素を吸い込めるようになったので、姿勢を変えて壁に寄りかかるように座る。
「情けない……、全然、進歩してないわ」
敢えて声に出して自分を叱咤するが、その声にも力が無く、情けなさが倍増しただけだった。
そこに再び、スマホが鳴動した。そのまま放置しようとしたがいつまでも鳴り続けていることで、メッセージではなく着信だと分かった。仕方なく、二十コール目くらいで応答する。
「もしもし……」
『千早?……俺、来人。ごめん、気になって電話にしちゃった』
「気になって、って……?」
『だって昼からずっとメッセージが既読にならないからさ。余程忙しいか、じゃなかったらぶり返したかなって思って。……大丈夫?』
そうだった、私は来人が勝手に矢崎さんにルキウス様の存在を匂わせたことにキレて、こいつからのメッセージをスルーしていたんだった。
でももう、それもどうでも良くなってしまった。いや、本来かなり大事な件ではあるのだが、姉の前には全てが吹き飛ぶ。さっきまで姉の声だけが木霊していた私の脳内に、既に馴染んだ来人の声が入ってきたことで、一気に気が緩んだ。
「うん……、大丈夫……」
明るく答えようとしたのに、バレバレなほど震えていた。
『千早……、泣いてるの?』
私は返事が出来なかった。否定も、肯定も。
なんで来人はいつも最悪のタイミングで色々察してくれちゃうんだ。自分でも見たくない自分の感情まで気づいてしまうじゃないか。
『すぐ行く』
どこへ?と聞く間もなく電話は切れた。私は自分の涙でべしょべしょになったスマホを見ながら、(汚ねー)と思いつつ、しかし拭う気力も沸いてこなかった。スマホも、頬も。
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