第36話
「昨日はゆっくり出来た?」
矢崎さんの行きつけらしい和食屋さんに入った。おしぼりを出してもらったところで話しかけられる。
「はい、お陰様でゆっくりできました。家事も色々溜まっていたので」
「ごめんね。さすがに女性の服は洗濯出来なかったし」
まさかそこまでやろうとしていたのか。思いとどまってくれて助かった。
「でね、昼食に誘ったのはもう一つ理由があって」
もう一つ?
「もし野村君達でマックス社の案件を回せるようなら、成瀬さんには僕の手伝いをお願いしたいんだけど、どうだろう?」
「矢崎さんの案件、といいますと、どれでしょう?」
私の何倍も関わってるもんね。
「うん、既存じゃないんだ。来月からになるけど、帝国管財の案件を預かることになってね。どうだろう?」
私はフリーズするほど驚いた。そりゃそうだ、日本で有数の歴史ある大企業で今まではコンサル業界トップのNYブラウンが担当だということで有名だったのに、それを、うちが?
「佐々木常務がもぎ取ってきたらしいよ。すごい人だよね。一体何をやったのか」
「……マネジメントは、常務が?」
「いや、実働のマネジメントは俺だよ。大きい案件だから十人はピックアップしようと思ってるけど、成瀬さんには俺のサブに付いて欲しい」
身震いがするほどの緊張感と興奮が、腹の底から立ち上ってきた。まさか断るわけがない。
「是非!よろしくお願いします!」
思わず大声で叫んでしまってから、半個室のような席だったので助かった。ハッとして自分の口を押える。は、恥ずかしい。
「あはは、やる気満々でよろしい。じゃあ、よろしくね」
冷えた緑茶で乾杯する。私も幾つか進行中の案件があるから、バランスに注意しなければいけないが、お蔭でふわふわしていた病み上がり気分が吹っ飛んだ。
「そんなに嬉しいの?ニコニコして」
「はい!だってすごくやりがいありそうですし、何となくメンバーも予想できるし。すごく勉強になりそう」
「うーん、成功したような失敗したような、不思議な気分だな」
成功?失敗?
「マックスの案件から成瀬さんを引き離すことに成功。でも俺が付き合ってって言った時の百倍嬉しそうだから、失敗」
……すみません。正直者で。
急に顔に影を落とした矢崎さんが、予想外の質問をしてきた。
「……憧れてる人って、誰?」
……え?
「君の家で立花に会ったとき、奴が言ってたんだ。成瀬さんには憧れてる男がいる、理想が高いですよ、って」
あああああああいつーーー!!!!
よりによって会社の人に!上司に!矢崎さんに言うかな?!
来人への怒りで、テーブルの下で拳を握り締める。爪が手のひらに食い込んで痛いくらいだ。
しかし矢崎さんは世間話の一つだと思っているらしい。あまり深刻そうではなく、うーん、と首をひねりながら続ける。
「立花は知ってるっぽかったんだけど、誰とは教えてくれなかったんだよね。だからなんとなく気になって……」
良かった、ここは全力ですっとぼけるしかない。
「奴の言うことは気にしないでください。何のことでしょうね。適当に言っただけじゃないですか?」
具体的なことは何一つ言っていないことが分かってほんの少し安堵するが、穏便に切り抜けるにはどうしたらいいか、頭がフル回転し始めた。
「そうなの?……理想が高いっていうのは?」
「いい年して一人だし彼氏もいないから、そう思い込んでるだけじゃないですか。別に理想とかないですし」
ルキウス様は大好きだけど、あれが現実にいるはずないことくらい分かってる。だから理想の男=ルキウスではないのだ。
そしてルキウス様を別とすれば、男性に対して良くも悪くも興味も評価もない。自分とは別の生き物、という区別以外は。
無意識に鼻息が荒くなってる私をよそに、ホッとしたように矢崎さんが笑った。
「なんだ、ハッタリだったか……。いや、立花の言い方が『お前より俺のほうが千早のこと知ってるんだぞ』みたいに聞こえて、どうしても気になって……。ごめん、忘れて」
深く追求せず話題を終えてくれた矢崎さんに心から感謝した。その反面、来人への苛立ちが強くなる。
確かに来人は、自分は矢崎さんが知らない私の一面を知っていることをアピールしたかっただけかもしれない。けれど、ルキウス様は私にとってただのゲームの攻略キャラではない。もっと、来人が想像しているよりずっと大きな存在だ。だからこそ安易に無関係の人に知られたくない。あのチャットのメンバーに対しては、私にしては珍しく心を開けているからこそ色んな話が出来ている。そこらの人に話せるような思いではないのだ。
まさかここまで重いものだとは来人も想像していなかったからつい出てしまった発言なのかもしれないが、私はどうしても見過ごすことは出来ない。
注文の品が次々届く。一つずつ品のいい器に盛られていて、見た目も美しく味もいい。和食の優しい味に、カッカした気持ちが少しだけ癒された気がする。高級なお店なだけにランチとはいえあまり混み合っていないのも助かった。微かに聞こえる琴の音が心地いい。
料理を楽しみつつ、矢崎さんと他愛無い会話をして昼食を終えた。
しかし心の中では、来人への疑問と苛立ちが続いていた。
あの来人が『うっかり』話すとは思えない。矢崎さんが感じたような、子どもっぽい優位性のアピールのためにルキウス様の話題を持ち出すのも、私が知っている来人らしくない。
何か彼なりの意図があったのか。
ただそうだとしても、私は来人へ、そして自分自身へ、怒りを感じずにはいられなかった。
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