第18話

 ほとんど眠れないまま、いつもの時間に家を出る準備を始める。ふとスマホを見るとまたメッセージランプがついている。誰からのものか、なんとなく予想がついて、どうしても確認する気が起こらずそのままバッグに放り込んだ。


「おはようございます、チーフ」

 三人のうちいつも一番乗りの真子が挨拶をしてくれた。

「おはよう」

「あれ?なんか今日、調子悪いですか?」

 しまった、敏感だなぁ。というかバレバレなのかな、ほぼ寝てないの。

「もしかして昨日私のせいで無理させちゃいましたよね……、すみませんすみません!」

 時間短縮のため業務を手伝ったことを指しているのだろうか。私は慌てて否定した。

「違う違う、昨日あまりよく寝られなくて、そのせいよ。でも今日金曜日だしね。一日頑張ったら週末はゆっくりするわ」

 そう言うと、真子は半分だけホッとしたような表情で自分の席へ戻って行った。


 私は再び自分の作業へ戻る。そこへ一通の新着メール受信のポップアップが表示され、ギクリとする。差出人は「立花」。

 私用携帯へのメッセージなら無視出来るが、仕事用のメールアドレスで受信したメールは無視できない。逃げ場を失くした気分で、息を止めながらメッセージを開いた。


『おはようございます。立花です。昨日は資料のご送付ありがとうございます。迅速なご対応感謝いたします。本日中に何らかのご連絡をさせていただきますので、今しばらくお時間頂戴いただけますでしょうか』


 私は内容を見てほっとした。本当に仕事のことだけしか書いていない。身構えすぎて寝不足にまでなった自分が馬鹿馬鹿しく感じて、昨日までと同じように返信を送った。


『こちらこそ追加資料を早めに頂けたお陰で大変助かりました。ご確認のほどよろしくお願いいたします』


 そのまま返信し、ハッとした。また立花がCCに他メンバーを入れていなかったのに、自分もそのまま返してしまっていた。ああ、やっちゃった……。

 まあいいか、四人には転送しよう、と操作し始めたところですぐに立花からメッセージが届く。


『昨日はどうしたの?メッセージがまだ既読にならないんだけど』


 私はため息をついた。仕事上の取引先担当者としての「立花来人」は、仕事用のメールに私用を混ぜ込んでくるようなタイプだとは思っていなかっただけに、軽く失望を覚えた。

 返事をする気になれず、ぼーっと画面を眺めていると、後ろから肩を叩かれた。


「おはよう、成瀬さん。昨日はお疲れ様」

 案の定矢崎さんだった。まるで前門の虎後門の狼そのものだ。どちらからも逃げることは出来ない。そもそも二人とも仕事上の関係者なんだから、逃げるつもりもないが。

「おはようございます矢崎さん。こちらこそご馳走様でした」

 息を止めるように感情の流れを止めて、今まで通りを装って挨拶をしたが、矢崎さんは何故か少し悲しそうな顔をして、私を促した。

「ちょっと、いいかな」

 なんとなく嫌な予感がしたが、拒否するわけにもいかず、荷物を置いて歩き出した矢崎さんの後ろに従った。


 既に掃除が終わっている会議室に入ると、立ったまま矢崎さんは話を始めた。

「昨日の件なんだけど……」

 やっぱりそうか……、そうですよね。

 ここで返事求められるのかな。私としては……、もう決めているつもりだけど。

 矢崎さんの次の言葉を予想しながら腹に力を入れて待っていると、彼は少しはにかみながら続けた。

「ちょっと延期」

 ……え?

「ごめん、なんか急に焦ってあんなこと言っちゃって、混乱させたよね。本当にごめん」

 言いながら、まるでクライアントに謝罪するように九十度のお辞儀をされ、私は慌てる。だって会議室はガラス張りだもん、外から見える、見えちゃう!

「や、矢崎さん止めてください。ていうか他の人に見られると……」

 そう言うと、ちょっと笑って頭をあげてくれた。


「成瀬さん、とっとと断ろうと思ってただろ、俺のこと」

 ギクリ。

 ズバッと当てられて、しかもそれが顔に出ていたらしい。矢崎さんの苦笑いが深くなる。

「じゃあ尚更だ。今は返事しないで。俺に時間くれるかな」

「時間、って……」

「今の俺は成瀬さんにとって上司兼大学の先輩だろ?そこから抜け出すための努力をする時間。だめかな」

 それは……。

「私が決めることでは……」

「今彼氏いないって言ってたよね、それは本当?」

「はい。というか、恋人なんてほとんどいたことないので」

「ほんとに?!」

 ああまた驚かれた。そりゃね、この年でね、今まで一人しかいたことないしそれも半年程度で別れた相手なんてね、そんな女いないでしょうね。

 また少し自分の過去を引っ張り出しながら、微かに頷いた。

「じゃあやっぱり昨日は本当に失敗だ。しばらくはあんな話しないから、心配しないで」

 そう言うと、いつもの気安い矢崎さんに戻ったように見え、私は安心する。自分が不甲斐ないせいで無理に気持ちを押し込めてくれたのかもしれない。そう考えると申し訳ないと思わなくもないが、正直いつも通りに戻ってくれないと仕事にも支障をきたす。


「分かりました。では一旦無かったこととして」

「いや、それは困る」

 え?

「俺は成瀬さんが好きなんだ。恋人に、出来れば妻になって欲しい」

 妻、と言う単語に、再び緊張感が高まった。ちょっと待って、確かに昨日『結婚』の二文字は出たけれど。

「俺の気持ちは無かったことにしない。でも成瀬さんの中での俺の位置づけを確定するのは、もう少し待って」

 そう言うと、矢崎さんは何故か哀しそうに笑った。


「君に選ばれる男になるよ。だからもう少し、待って」


 そして、思考が追い付かずボケっと突っ立っている私の横をすり抜けて、会議室から出て行った。

 

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