第16話

「もうすっかり冬だねぇ、コート無しじゃ寒いよ」

 空調の効いたオフィスから出た直後は外気温との温度差が体に堪える。しかしそういう矢崎さんも、スーツだけだ。

「男の人って結構寒くなるまでコートや上着着ないですよね。寒くないのかなぁ、っていつも不思議で」

「寒いよ。でもなんか面倒だし。会社は暑いし」

「内勤は女性が多いですからね。動かないと寒いから、自然と室温高くしちゃうんですよ」

 他愛無い話をしながら、そのまま地下鉄のほうへ歩いていこうとしたら、腕を掴まれた。


「昨日みたいな時間にならないようにするから、少しだけ付き合って」

 時計を見るとまだ七時半前だった。私は頷く。

「大丈夫です。お茶にします?軽く何か食べていきます?」

 出来ればお酒の席は避けたいというのを言外に漂わせたつもりだったが、無駄だったらしい。

「いい店があるんだ。嫌なら飲まなくていいから」

 ……仕方がない、ついて行こう。私は諦めて矢崎さんと一緒に歩き始めた。


 着いたのは地下にあるバーだった。入り口でギャルソンが立って待っているような店でちょっと緊張したが、中はアンティーク調の内装で人もほとんどいない。

「会員制だから人が少ないんだ。平日じゃ尚更だね」

 会員制。さすが。何がさすがなんだか自分でも分からないけど。

 ギャルソンに案内されたのは、背もたれも大きなソファがテーブルをぐるりと囲んだ席だった。座ったらクッションの固さが丁度よく、とても座り心地が良かった。


「いいソファですねー、寝そう」

 日中色々あった疲れのせいで思わずそう言うと、何故か嬉しそうに笑いながら返された。

「いいよ、送ってあげるから」

 ……だめだ、今日の矢崎さんは冗談が通じない。

「大丈夫ですよー。あ、ここって食事も食べられるんですか?」

 空気を変えたくて話題を変えると、ギャルソンがそっとメニューを差し出した。礼を言って受け取り開く。案の定フレンチらしきメニューが並ぶ中、オムライスやグラタンなどの馴染み深い写真もあって驚いた。

「結構何でもあるんですね。バーなんてほとんど来たことないから、ナッツとか果物くらいしかないのかと思ってた」

「そっか。成瀬さん、デートではこういうところ来ないの?」

「デートなんてしませんよ、相手いませんからー」


 ルキウス様が現代に居たらどうだったろう。きっと三つ揃えのスーツとか似合うよなぁ。真っ白でもキザじゃないよね、金髪だし、背高いし、脚長いし……。そしたらこんな店連れてきてくれるのかな?!うわ、やばいどうしよう格好いい!!


 矢崎さんの言葉から思わず別の世界へほわほわと妄想を飛ばしてしまった私は、すぐ近くまで寄ってこられていたことに気が付かなかった。

「成瀬さん、彼氏、いないの?」

 やけに近い場所から声が聞こえて、驚いて離れようとしたが何故か手を掴まれた。

「絶対彼氏いると思ってた」

 なんでですか。ただの一度もそういう話したこと無いし、嘘で匂わせたことだってないのに。

「いつも飲み会とかでも二次会には出ないで帰っちゃうから、きっと彼氏が焼きもち焼きなんだ、って皆で噂してたんだよね」

 ああ、そういうことか、と納得。皆で噂していた、と言うのは正直不愉快だが、絶対に二次会に参加しないというのも確かに不自然だったかもしれない。理由は大勢で飲むのが得意じゃないという、ただそれだけなんだけど。


「私がいないところでそんな話してたんですか?違いますよ、飲み会が苦手なだけです」

「じゃあ、本当に彼氏いないの?」

 はい、と頷きながら、心の中ではスーツを着た現代版ルキウス様がチラチラする。ていうかなんでこんな会話になってるの。


 自分のプライベートを話すのは嫌いだ。というより、怖い。たとえ相手が信頼する上司であっても。

 矛先を変えたくて、逆に質問を返した。

「矢崎さんこそ、そろそろご結婚とか考えないんですか?」

 私より五期先輩だから、三十四?五?親に何か言われたりするよね。

「俺の結婚が気になるの?」

 また返された……。だからそうじゃなくてー。

「俺はいつでもいいよ。成瀬さんがいいって時で」

 もうダメだ、こういう会話も空気も耐えられなくなったのではっきり言うことにした。


 私はグラスを置いて、体ごと矢崎さんへ向き直った。

「矢崎さん、私彼氏いませんけど、そもそも結婚願望も恋愛願望も無いんで。そういう話は」

 私じゃない人としてください、と続けようとしたところで、視界が塞がれた。ついでに、口も。

 何やら温かい感触が唇を掠めた。本当に一瞬だったけど、何が起こったのか、離れたことでよく見えるようになった矢崎さんの表情で理解できた。


 見たことないような、少しだけ恥ずかしそうなはにかんだ笑顔だった。

「ごめん、どうしても我慢できなかった」

 私は状況に全くついていけず、謝られたのだからこっちも、とか思いながら人形のようにカクカクと頭を下げ、その後は一切プライベートに突っ込んでこない矢崎さんと、仕事の話だけして過ごした。




「あの、ご馳走様でした」

 なんだかんだと過ごしてしまい、気が付けばまた十時を過ぎていた。

「二日続けてごめん。疲れてるのに」

 いいえ。それは全然。ていうか謝るのはそこなのね。


「さっきのは」

 矢崎さんが続けた言葉に、私のほうがギクリと身を固くした。

「驚かせたのは申し訳ない。でも……、謝らないから」

 と言いつつ、声はめちゃくちゃ申し訳なさそうだ。きっと私が気にしているだろうと気を使っているのかもしれない。

 長く緊張が続くのは得意ではないし、ここで意地を張るのも理由が無い。私は吹っ切ったように笑って首を振った。

「もういいです。あれは」

「本気だから」

 ……え?

 また私の言葉を遮って、突然真面目な顔をした矢崎さんが言った。


「俺と、結婚を前提に付き合ってくれないか」


 私はまた、状況を理解するのに暫し時間を要してしまった。微かに残っていたカクテルの酔いも、ついでに全部吹き飛んでしまった。

 

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