刑罰:ヴァリガーヒ海峡北進突破 3
このとき、ヴァリガーヒ海峡を北上する戦艦は、その数四十隻に達していた。
それに『猟艇』と呼ばれるやや小型の船が付き従い、補給艦はさらにその後ろを護衛されながら進む。
この大艦隊の中で最も目立つのは、中段よりやや後方を移動する戦艦だった。
あまりにも異質な白い船。聖印船とも明らかに違う、滑らかすぎる外観の一隻。謎めいた機械仕掛けで照準を合わせる砲塔をいくつも備え、その軌跡には青白い光を曳く。
これこそは、鋼の《女神》イリーナレアが召喚した異界の船だった。
――その艦首で、第十聖騎士団長、グィオ・ダン・キルバは低く呟いた。
「霧が出てきた」
溢れるように北方から流れてきた霧が、艦隊を丸ごと包み込もうとしている。
当然、これがただの霧であるはずがない。この船に積まれた様々な探知兵装も、徐々にノイズを発生させる度合いを増していた。おそらくそのような効果を持つ霧なのだろう。
だから、グィオは通信盤に向けて言う。
「……時間をかければ、そちらを襲っている魔王現象『タニファ』を逸失する可能性がある」
通信盤の向こうにいるのは、『芦風』号の船員たちだ。それに加えて、懲罰勇者どもも乗っている。
「即刻、『タニファ』から離脱しろ。その距離では確実に攻撃に巻き込まれる」
部下に命じたつもりだった。
が、通信盤から返ってきたのは、常に怒り続けているような――そういう態度が身に染みついた類の男の声だった。その声には、聞き覚えがある。
『そいつは無理だ』
ザイロ・フォルバーツ。
『魔王現象の野郎が舷に取りついてやがる。掴まれちまって逃げられねえよ!』
グィオはあの不可解な男の顔を思い浮かべた。
声も言葉遣いも顔もいつも怒っているように見えるが、そのくせ軽口が多い。ふざけているのか真面目なのか区別がつかないという聖騎士団長だった。なぜか一部の部下からは、やたらと信望があったという。
同じく不可解な男として、聖騎士にはビュークスという人物もいるが、そちらの方がまだグィオにはわかりやすい。
「魔王現象に接近を許したのか」
グィオは頭の中に艦隊の配置を思い浮かべる。
聖印船同士が互いに、互いの索敵と迎撃の隙を補うような配置にしていたはずだ。緊密な防衛網。その構築をしくじったとは思えない。
「いったいどうやった?」
『知らねえよ。実際目の前にいるんだから、どうにかしたんだろ』
その投げやりな言い方には憂鬱な気分にさせられるが、グィオは我慢強く続けた。忍耐は彼の得意とする分野だった。
「……だろうな。なんとか引き離せないのか」
『お前の部下の兵隊が、総がかりでやってみてる。けどな……くそ! 近すぎて大砲が使えねえし、雑魚の
ザイロの舌打ちが聞こえた。
『ほかの船は何やってんだ!』
グィオは手元の索敵盤に目を移す。
そこに刻まれているのは、音響印『ローアッド』という。音の反射を捉える仕掛けにより、敵と味方の所在を探る――そういう聖印だ。
(これは)
と、思わずグィオは眉をひそめた。
最前線からゆっくりと後退しはじめている戦艦が三――いや、四隻。まだいるか。その抜けた穴によって索敵と迎撃の備えに穴が開いていた。それを補うために、他の戦艦が激戦を強いられている。先頭に位置する『芦風』号はその負荷が最も高い。
グィオはその状況を理解した。心当たりはある。
「後退を始めている戦艦がある。離脱するつもりなのかもしれない」
『ああ? なんだよ、ふざけてんのか!』
「貴族連合。そしてガルトゥイル西部方面軍……の一部、それに私の艦隊にもいるな」
貴族連合に関しては、もともと危惧はあった。あまり期待もしていない。
名誉と周囲への面子を立てるために参戦を表明したが、戦意に乏しい私兵の部隊。ガルトゥイルから回された軍にも士気が低い部隊はいた。
よって万が一、彼らが戦闘を放棄しても問題とならないように艦隊の配置は考慮していた。
だが、グィオの率いる第十聖騎士団にそのような部隊が出るとは思えなかった。いま離脱しつつある『紅流』号と『静鷹』号についても、グィオが信頼を置いている部隊が乗り込んでいる。
何かがあったのかもしれない。ならば、それは――
「――グィオ! 『紅流』号と『静鷹』号から連絡だ」
背後から声が聞こえた。
こちらはよく知っている。すらりとした印象の、背の高い少女。一つに束ねた長い灰色の髪がかすかな火花を散らしていた。頬には聖印。
鋼の《女神》イリーナレアという。グィオが契約した《女神》だった。
「航行系と索敵系の聖印機構に不調だとさ!」
イリーナレアは腕を組み、吐き捨てるように言った。このような態度が似合う《女神》は他にいないだろう、とグィオは思う。
「後退するしかねえってよ。ただ整備はきっちりやってたはずだから、もしかしたら壊されたのかもしれないとか言ってたぜ」
「……そうですか」
破壊工作。あるいはそれは、共生派と呼ばれる者たちの手によるものだろうか。
その可能性も考えてはいたし、対策も打っていたつもりだった。
が、グィオはその手の策謀に対する専門ではない。噂に聞く第十二聖騎士団――あの連中ほど得手ではないし、そういう暗闘に長けたアディフの第八聖騎士団は、いま西方の陸路進軍を支援している。
「そうか、じゃねえよ。グィオ、どうすんだ? 『芦風』号のやつらをまとめて吹き飛ばせってか?」
「……いや」
グィオは首を振った。乱暴なイリーナレアの言葉の裏に、かすかな怯えがあるのを感じ取っていたからだ。
《女神》は人間に危害を及ぼすことを嫌う。イリーナレアも例外ではない。
すでに召喚した兵器を射出するのはグィオの役目だし、実際に『芦風』号ごとまとめて吹き飛ばすことは可能だろう。
が、それを行った後のイリーナレアへの影響を考えると、強行はできない。
最悪、そのためにイリーナレアは精神的な損害を受け、一か月――下手をするとそれ以上の長期にわたり、戦闘不能に陥るだろうことは予想できる。
グィオはこの《女神》の内面が、その態度と裏腹にとても繊細であることを知っている。それに、『芦風』号には《女神》も乗っていた。
だから、グィオは通信盤の向こうのザイロに告げる。
「どうにか魔王現象『タニファ』を引き離せ。そうすれば、イリーナレアの兵器で確実に撃滅できる」
『簡単に言うんじゃねえよ』
ザイロの声の背後から破壊音が響いている。悲鳴。怒号、金属音。なるほど、簡単な仕事ではないだろう。しかし――
「できなければ、お前たちごと沈める以外にない。健闘を祈る」
『あっ! てめえ、この』
そこでグィオは通信を切った。
イリーナレアを振り返る――強気な笑みを浮かべてはいるが、それは表情だけだ。グィオには彼女の感じている、嫌悪感と恐れが伝わっている。
「……そこまで心配する必用はないと判断します。懲罰勇者どもの人間性はともかく、作戦成功率だけは非常に高い」
「心配してるように見えるかよ、オレが」
イリーナレアは鼻で笑った。
「暗い顔でいつも悩んでるのはグィオの方だろ」
「ああ。……そう。そうですね」
グィオは認めた。イリーナレアと口論するほど無駄なことはない。その代わりに、この不愉快な事態を引き起こした連中へ怨嗟をぶつけることにする。
「これが終わったら、貴族連合とガルトゥイル西部方面軍への厳罰が必要だ。私の指示なく後退したことは命令系統を無視したものになる。後悔させてやる」
◆
「くそっ!」
俺は通信盤を放り投げた、というよりその場に叩きつけた。
それをパトーシェのやつが見咎めて、小言を言ってくる。
「なにをする。壊れたらどうするつもりだ! グィオ団長は何を言った?」
「援護には期待するな、こいつを引き離さなきゃ船ごと吹き飛ばすってよ――テオリッタ、頼む! いくぞ!」
「はい!」
テオリッタの髪が火花を散らす。俺が指さした方向に、無数の剣が生まれる。俺もナイフを引き抜いた。全力で投擲する。
それを見て、狙撃兵長が声を張り上げた。
「撃て!」
雷杖と、剣の雨が放たれた。
それは甲板に乗り上げようとしていた魔王、『タニファ』を狙っている。逃げ場所のない飽和攻撃。あの図体で回避などできないはず――だったが、やつは異様な動きをみせた。
稲妻と剣が命中した瞬間、その体表がごぼりと粟立ったように見えた。
それだけだった。
まるで粘土に針を突き刺したようなものだ。
出血もなければ、傷口もない。
稲妻も剣も、俺の放ったナイフの爆破も、ただ巨体の一部を削ったただけだ。
それでも多少の痛みはあるらしく、苦し気に身をよじり、『タニファ』は空を見上げて咆哮をあげる――そして、反撃が来る。
「来るぞ、伏せろ!」
と、誰かが叫んだ。
言われなくてもわかっている。俺はテオリッタの肩を掴み、そのまま甲板に転がる。
『タニファ』が前足を振り上げ、振り下ろす――その腕が唐突に伸びた。
ぐぶ、と、熱した飴細工のように長く細く伸びて、先端の爪が物騒な鋼色に輝く。風の音。立ち込めていた霧が渦巻く。その爪による一撃は中央の帆柱を傷つけ、また軌道上にいた不幸な兵士をまとめて吹き飛ばした。
「……ふっ」
隣でパトーシェの短い呼吸音。
あいつだけは伏せながらも剣を振るい、伸びてきた爪を弾くという芸当もやってみせた。障壁印による光の装甲が一瞬だけ展開され、『タニファ』の爪があらぬ方向へ捻じ曲がるのを見た。
おかげで少しは軌道が逸れ、帆柱がへし折れるのは免れたか。
障壁印は起動時間と展開範囲が狭いほど強力な効果を発揮する。つまりパトーシェはとてつもなくこの聖印の扱いに長けている――たいした反応と手際だと思ったが、本人の顔は険しい。
「これは、厳しいな……!」
パトーシェが伏せたまま唸った。
「やつの皮膚と、皮下脂肪――それに筋肉から骨に至るまで、極めて柔らかい形状を維持できるらしい。まるで負傷が見られない。みろ、弾き折った爪が復元していく」
「ふざけてるな。餅みたいに伸び縮みしやがって」
「内臓器官を破壊するしかないな。あの軟質の構造を貫いて……!」
俺も同じ意見だ。
伸縮する体。それがこの魔王『タニファ』の特性であるようだった。動きはそう俊敏でもない、むしろ緩慢ではあるが、この体が厄介だ。
攻撃がろくに当たらない。それに、問題はもう一つ。
「ザイロ! 来ましたよ、またです!」
テオリッタが注意を促す。
敵は『タニファ』だけではない。背後から舷を乗り越えて上がってくるのは、ケルピーとフーアども。そちらにも対処しなければ、砲兵が危ない。
「……私が、聖剣を呼ぶべきでしょうか?」
テオリッタは俺の腕を掴んできた。緊張しているのがわかる。瞳の炎が燃えている。
「きっとやれます。ザイロ、あなたの判断を」
たしかに、テオリッタの聖剣ならば『タニファ』を消し飛ばせるだろう。ただ、それは一度限りの切り札だ。いま使うべきか。こいつを倒せば
迷うところだ。
逡巡している間に被害も出る。ここで最後の手段を切るか? いや。わざとらしすぎはしないか? こんな、いかにもテオリッタの『聖剣』が有効そうな相手が――
「懲罰勇者ども! こちらはいい、雑魚の相手をしろ」
俺が結論を出す前に、グィオの部隊の指揮官――つまりこの船のキャプテンが鋭く言った。
「有効と思われるイリーナレア様の兵器を積んでいる。『タニファ』は我々がやる」
「仕方ねえな」
俺はあえて軽口を叩いた。
「大物は譲ってやる。パトーシェ、暇なら手伝えよ」
「……なぜ貴様は、そういう人の神経を逆撫でするような冗談ばかり言うのだ」
「まったくです。陸にあがったら礼儀作法の勉強をしてもらいますからね」
パトーシェとテオリッタの抗議は無視した。いまさらだし、もう言われ慣れている。
構わずケルピーどもの方へ向かう。藻だか毛だかに覆われた獣が二匹。フーアも一匹。俺はテオリッタの呼び出した剣を掴んでいる。
「カエル野郎は任せた」
「承知した」
と、言うが速いかパトーシェは跳んだ。甲板が悲鳴をあげるような強い踏み込み。鋭い斬撃は、逃げようとしたカエルの化け物を正確に捉える。
切っ先が食い込むと同時、光る障壁がそいつを体の中から切断していた。
ケルピーの方は、俺にしがみつくように腕を振り回してきた。
その先端に鉤爪――当たってたまるか。飛翔印による急激な、短い跳躍。たやすくかわして、剣を叩き込む。首筋。刃にはザッテ・フィンデの聖印を浸透させてある。
よって、浅い切り込みでも簡単に頭が吹き飛んだ。
これで一匹。もう一匹は振り返りざまのナイフ投擲――を、するまでもない。
テオリッタだ。
虚空から呼び出した剣がそいつを貫き、動きを止めている。俺としては、あとは蹴とばして海に叩き落とすぐらいしかすることがなかった。
「どうです!」
テオリッタはふふん、と鼻を鳴らした。
「偉いでしょう! 助けてあげました」
「さすが《女神》だ。やるようになったな?」
「でしょう! 『さすが《女神》テオリッタ』と言ってもいいのですよ」
「さすが《女神》テオリッタ。ただ、ちょっと数が多すぎるな……!」
俺はテオリッタの頭を軽く一度だけ撫でた。次から次へと、
「他の船は何やってんだ! 明らかに負担がデカすぎるだろ!」
「離脱している船がある……! 迎撃態勢に穴が開いているぞ」
パトーシェはさらに一匹のケルピーを切り捨て、後退する。新手がまた五匹、乗り込んでくる。たしかにあれに一人で突っ込んで相手にするのは骨が折れる。
「このままでは押し切られる!」
俺もそんなのは御免だった。
グィオの手下の連中からは、「懲罰勇者どもは雑魚の相手をしろ」と言われた以上、「できませんでした」とは言いたくない。あまりにも無能で、今後ずっとそのネタで舐められることになっても文句は言えないからだ。
なんとかするには――俺は手持ちの武器を思い浮かべ、やり方を考えようとした。
(炎は厳禁。まとめて一網打尽にする方法じゃなくても、止めればいいんだ。たとえば、ノルガユ陛下のやってた『鉄条網』みたいな――)
「……ああ、なるほどね」
ライノーの声が聞こえたのは、そのときだった。
「わかったよ、同志ザイロ」
「わかるな、アホ」
俺は反射的に答えた。ライノーの声があまりにも爽やかであり、振り返って見たやつの顔がいつも通り寒気のするようなふざけた薄笑いを浮かべていたからだ。
ただ、俺の制止は遅すぎたし、そもそもライノーはそんなものを聞く男だっただろうか。
断じて違う。
「任せてくれ」
と、言ったと同時に、ライノーは砲を放った。
その狙いは前方や側面の
その予感は数秒後に的中した。
砲弾が炸裂して轟音と光を放つ。海が震え、風が吹いた気がする。
その砲の標的となったのは、味方の船だった。それも、戦場を離脱しようとしていた戦艦。やつらの後部の航行系聖印がある機関を、ライノーの砲はうんざりするほど正確に破壊していた。
「足を止めたよ。これでみんな協力して戦えるね」
ライノーは俺が止める間もなく次の砲弾を装填しており、即座に撃ち出している。
「
さらに一隻。
ライノーの砲撃を食らって、煙を吐いて戦艦が逃げる足を止めた。あれではその場で抗戦するしかない。
俺は開いた口を閉じる前に文句を言っておこうと思った。
「いつも思うけど、お前……」
「お前は、何をやっているんだ!」
俺の気分が伝染したように、パトーシェも血相を変えて怒鳴った。
「味方の船を砲撃する馬鹿がいるか!」
「でも、戦況はマシになっただろう」
ライノーは褒めてほしい、とでも言うように笑った。
「さあ、反撃しようじゃないか」
たしかに。
良くなったのは戦況だけだ。後でどんな目に遭うか――俺は八つ当たり気味に、跳びかかってきたケルピーの一匹を蹴り飛ばした。
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