刑罰:ヴァリガーヒ海峡北進突破 4
北方からの風が強いようだ。
濃い霧を運んでくる、寒々とした風だった。船室の窓が白く濁っている。
不吉な予感がする。
マルコラス・エスゲインは、それをごまかすように西方産の酒を呷った。
慣れ親しんだ葡萄酒とは違う。米から作る酒だという。どこか甘みがあるが、舌を刺すような味もする。『嵐庭』と銘打たれた酒だった。
かつてはこんな酒を目にすることも叶わなかった。いま、こうして貴重な酒を口にできるのも、すべては自分が強くあったからだ。あるいは、優れていたから。あるいは、運がよかったから。そのいずれかに違いない。
つまり――何が原因にせよ、自分はうまくやっている。そういうことなのだろう。
軍人として戦い続けてきた。
それが評価されたからこそ、ガルトゥイルの総帥の地位にまで上りつめている。
あとは、魔王を討伐する。この攻勢計画を成功させ、己と家の名を歴史に刻み込むだけ。幾人かの妻を娶り、子を成し、繁栄させる。そうすることで、自分の死後もマルコラス・エスゲインの名は称賛されるだろう。
――そうした思考を破ったのは、ドアを性急に叩く音。
それから、このところもう聞きなれた声だった。
「……そ、総帥閣下!」
聖女、ユリサ・キダフレニー。その上ずった声が聞こえた。
「至急、お耳に入れたいことがあり――、ございます。どうか、お、お話を」
マルコラスは眉をひそめた。愉快ではなかった。
おそらく前線での戦いの話だろう。もう戦端は開かれたと聞いている。ただ、船団のずっと後方にあたるこの船が脅かされることはない。第十聖騎士団、グィオ・ダン・キルバの率いる軍ならば確実だ。
(それでもこの『聖女』は)
と、マルコラスは考える。
きっと、戦のことについてまた意見をするつもりだろう。仕方がない。あの娘はいまだ田舎から出てきた軍事の素人であり、英雄たらんとする夢想を抱いている。
それを窘めるのは自分の役目だ。
ため息を一つして、許可を与える。
「入れ」
「はいっ」
ユリサ・キダフレニーは遠慮がちにドアを開いた。背後には長身の女。名前をなんと言ったか――聖女の護衛だ。名家より選抜された武装神官の一人。
その二人を横目に見るのは一度だけで、すぐにマルコラスは視線を戻した。手元の酒瓶と、窓の外の霧へ。
「問題が起きたか?」
「え、ええ、その」
促すと、ユリサは口ごもった。
そういうところは、まだ治っていない。早く適応させねば、と思う。どこでボロが出るかわからない。聖女には聖女の、ふさわしい振る舞いというものがある。
結局ユリサはしばらく逡巡した挙句、護衛の女に励まされ、次の言葉を継いだ。
「戦いが始まりました」
「知っている。それのどこが問題だ?」
「わ、私たちも、戦いに加わらなければ……いけない、かと」
「その必要はない」
マルコラスは聖女を見た。
どこか卑屈な表情をする娘だ。彼女の生まれは卑賎の出で、小領主ですらないと聞く。そうであるにもかかわらず、『聖痕』を持ち、こうして戦の象徴として祭り上げられた。
おそらく後ろめたい気持ちがあるに違いない、とマルコラスは思う。
だから過剰に戦いたがる。己が犯している罪――のような何か。分不相応な身分と待遇に関する何かを贖うために、戦いに身を投じたがる。そうすれば許されるとでも思っているようだ。
マルコラスに言わせれば、それは意味の無いことだった。
必要なのは幾重もの保険と、利害関係にある者たちへの根回しだ。
可能な限り安全な位置から、博打はせず、どうしても必要なときは自分ではなく他人の命を賭ける。少なくともマルコラスはその方法で軍の総帥に昇りつめた。結果を出してきた。
であるからこそ、これが唯一の正しいやり方なのだろうと信じることができる。
「何度も言わせるな、ユリサ。『聖女』が危険に身を晒す必要がどこにある」
「しかし、あの、前線では被害が出ているらしく……私の、この身に宿る《女神》の力があれば、少しでもそれを減らせるのではないかと……」
「くだらん。却下する」
マルコラスは断言した。
「人間の命には価値があると言いたいのか? 価値であるからには大小の差がある。私やお前の命は兵隊のそれより重い。そんなことのために労力を割く意味はない」
「お、お言葉ですが、閣下。私は、あの……」
「お前の意見など聞いていないぞ。以上だ。下がれ。お前が前線に出るのは、それが必要なときだけだ。つまり私が判断する」
いま活躍させても、それは第十聖騎士団の手柄の一部となるだろう。それはまったく良いやり方ではない。『聖女』の存在感を示すため、貴族と商人たちへの宣伝は必要だが、いまはそのときではない。
「もう少し賢明になってもらわなければな。知っているだろう」
マルコラスは子供をあやすような口調で言う。
「お前には、私の妻となってもらう計画がある」
軍と神殿が進めている、この魔王現象との戦いの後を見越した計画だ。聖女と将軍。その強固な結びつきは、人心を掌握し、内政を安定させるだろう。
「そろそろ見た目には及第点をやってもいいが」
マルコラスはもう一度だけユリサに目をやった。最初は田舎娘然としていた容姿も、貴族らしく整えればある種の魅力として映るようになってきた。
「その自己主張は控えてもらわねばならん」
「……はい」
ユリサはうつむいて沈黙した。マルコラスはそれを承服の意と捉え、大きくうなずく。
「では、下がれ」
◆
破壊の光が閃いた。
俺のザッテ・フィンデではない。爆音の類をまるで生じさせない、奇怪な一撃だった。
グィオの部下たちが持ち出した、筒型の兵器が使用されたのだ。
そこから光が放たれ、槍のように虚空を穿った。
具体的にどんな原理の武器なのかは俺もわからない。が、それは確かに効果があった――あの『タニファ』の軟質な肉を焼き、泡立たせ、抉り取った。
右の前足が根本から千切れている。
ただ、その分だけ反撃は手痛いものになった。
『タニファ』のやつは喉の奥底から絶叫し、ひどい行動をとった。残った左前脚で船縁を砕けるほど掴み、飛び上がり、甲板に突っ込んできやがったのだ。
謎の筒型兵器を構えていた兵士たちは、その突然の突進に対処し損ねた――俺もパトーシェも救援が間に合わなかった。兵士たちはあっさりと吹き飛ばされて、筒型兵器が甲板を転がる。
「くそ! リパルサーが!」
それが兵器の名前だろうか。兵士の誰かが叫んでいた。
そして俺たちは、甲板に「上陸」してきた『タニファ』への対応を余儀なくされた。まず、やつの体重それ自体が危険だった。船体が悲鳴をあげる。亀裂が走り、船縁が砕ける。
「やめておけ。負傷者は下がれ!」
パトーシェは即座に前進を選択していた。でたらめに振り回されてきた『タニファ』の左前脚を、刃から展開される光の装甲で弾く。遮甲印、ニスケフ。パトーシェの防御が万全なら、こっちは攻撃に移れる。
自然とそういう役割分担になった。幸いにも隙はある。というか、できる。
俺は『タニファ』が大口を開けるのを見た。
パトーシェの防御を下手な攻撃では崩せないと見て、大技にでるつもりだ。つまり、噛み砕き。
「テオリッタ、デカいのを準備しろ」
「はい!」
テオリッタの髪が火花を散らす。俺はすでにナイフを引き抜いていた。望むのは派手な爆発――刃が焼けそうなほど強く聖印を浸透させた。それと三歩分の助走。大きな腕のしなりで投擲する。
ちょうど、大口を開けた『タニファ』の口内に放り込むように。
我ながら古典的な手だとは思う。しかし効果はある。
口の中での光と爆発――ザッテ・フィンデの爆破は『タニファ』の舌を焼き、あるいは抉ったかもしれない。少なくとも牙は何本か吹き飛んだ。『タニファ』が天を仰いで絶叫する。
苦し紛れの、腕を伸縮させての鞭のような打撃。パトーシェが守りについているから、そんなものは通用しない。むしろ反撃されることになる。
「ニスケフ」
パトーシェは短い言葉で、聖印を起動させる。
「ラダ」
光の盾が刃の先に生まれ、振動した。そいつのおかげで今度は『タニファ』の腕を大きく弾き返し、のけぞらせることに成功する――ここだ。
俺は大きく跳躍し、さっき兵士たちの手から放り出された、謎の兵器を手にする。たしかリパルサーといったか。
「……イリーナレアの武器ですね」
テオリッタはどことなく不満そうに呟いた。
「他の《女神》が召喚した武器を使うなんて、いいですか、本当に今回だけですよ。そういうのは良くないですからね!」
「わかってる」
使い方は、さっきから何度か見た。グィオの兵隊たちが使うところを。
腰だめに構える、レバーを押し上げる、ランプが点灯。引き金を引く。それだけだ。単純な仕組みだが、威力の方はもう知っている。
光が虚空に閃いた。
そいつはのけぞった『タニファ』の喉元あたり――だか胸元だかどっちか――を射抜き、瞬時に沸騰させた。弾けて裂ける。さらに、爆音と炎が一度。
こっちはライノーの援護だ、振り返らなくてもわかる。
俺が狙ったところへ、寸分の狂いもなく砲撃を打ち込むなんて、他にできる砲手がいたらマジで驚く。
「いいね」
ライノーの声。いつもの薄笑いで言っていることだろう。
「素晴らしい連携だと思わないかい、同志ザイロ!」
知るか、と思ったが、とにかく『タニファ』はそのまま船の外へ弾き出された。こうなったらもう「詰み」だ。
「テオリッタ、とどめを譲ってやろうか」
「――ええ!」
テオリッタの瞳が燃え、髪が火花を散らす。虚空に剣が生じる。とんでもなく巨大な剣だ。塔のようなデカさ。
「やっぱり最後を決めるは、偉大なこの私! ですよね!」
馬鹿みたいに巨大な剣は、そのまま『タニファ』に突き刺さった。
その剣の質量がやつを海中に叩き落とす。沈んでいく。ただ、往生際の悪いことに、やつは尾を振り回し、伸縮させて船の舷に引っかけた。これもまさに苦し紛れ。そっちはどうにかなる。
『見えた』
上空から、急降下してくる影がある。青く冴えた翼だ。白く立ち込める霧を貫いて、ニーリィは鋭い咆哮をあげた。
『手こずってるじゃねえか。何をノロノロやってんだ』
ジェイスは腹の立つ台詞で煽りながら、素早く槍を投擲した。そのタイミングを寸分も違えない、賢いニーリィの炎もあった。それはたやすく『タニファ』の尾を焼き切って、完全に海中へと叩き込む。
盛大な水しぶきが上がって、それで終わりだ。
あとはグィオがやるだろう――俺は首の聖印に指で触れ、呟いた。
「おい。あの鰐野郎、あらかたこっちで片づけちまったよ。ゴミ掃除は任せた」
『……把握している。承知した』
グィオの陰気な声。
『やっておく』
やつはいつもこの調子ではあるが、どこか自信家でもある。特に鋼の《女神》は強い。こと指向性のある破壊力という面に限った時、イリーナレアはすべての《女神》の中で最大級の出力を発揮する。
だからつまり、水中で轟音が響き、『タニファ』の残骸が浮かぶまでそう長いことはかからなかった。
「……私が仕上げの役をするはずだったのですが」
テオリッタはどこか不満そうに唸った。
「ニーリィになら、仕方ありませんね」
「まあな。ジェイスのやつがデカい顔するのは腹立つけどな」
「ザイロ、あなたはジェイスと仲良くしなさい。だいたい――あっ! ニーリィが帰ってきますよ! ほら、手を振ったように見えませんか? 可愛いですね!」
「そりゃよかった。挨拶してやれ」
いまだ霧のたちこめる空へ、はしゃいだように手を振るテオリッタに背を向け、俺はゆっくりと歩き出す。
甲板はひどい有り様だが、沈没はしないだろう。おそらく。むしろ兵士への被害が大きい。船縁では、パトーシェが座り込んでいるのが見えた。
「どうした、もう限界か?」
「そんなことはない」
乳白色の霧をかきわけて近づく。俺が声をかけると、パトーシェは険しい顔をした。
「次が来てもやれる」
仏頂面での断言。立ち上がろうとしてよろめく。パトーシェが顔をしかめるのがわかった。
「足だな」
「……足首を捻っただけだ」
とは言うが、『捻っただけ』を甘く見るようなタイプではないだろう。俺は手を貸してやることにした。
半狂乱になったやつらが襲って来るかもしれない。
それに、パトーシェ・キヴィアにはそろそろ借りがいくつもできてきた。
「医務室行きだな、諦めろ。骨も診てもらえ」
「う、ぁ」
ほとんど抱え上げるような形になった。それくらい痛むのかもしれない。パトーシェは少し身じろぎをした。
「……必要ない。余計な手助けだ」
「そうか。ここだけの話だが、打ち明けておこう」
「ん、んん? な、なに、なんだ?」
「俺はこういうとき、だいたい余計なことをするやつだ。いまさら気づいたとしたら間抜けだな」
パトーシェに肩を貸して強引に立たせる。やつはひどく嫌がったが、たぶん本気で抵抗しようとしたわけではないだろう。こいつが本気なら俺は手痛い負傷を覚悟しなければならない。
「……前々から尋ねようと、思っていたことだが」
怒ったような顔で、パトーシェは俺を睨んできた。よほど腹に据えかねることがある、といった顔つきだった。
「なんだよ」
「貴様は、その……なんというか」
一瞬、パトーシェは口ごもり、明後日の方向に顔を背け、そして意を決したようにまた俺を睨んだ。
「こういうことは、誰にでもするのか? この、――」
ごぉおん、と、船が揺れたのはそのときだった。
おかげで危うくパトーシェは転倒しそうになり、どうにか俺が抱えてやる羽目にもなった。振動は船の前方。俺はそちらを見て、思わずうなり声をあげたと思う。
「冗談きついな」
「……今回ばかりは同感だ」
と、パトーシェも呻いた。
思えば、自然なことだった。なかなかすぐには瓦解しない
簡単な話だ。
魔王現象は、この海域にもう一匹いた――この霧を操っている方。
つまり、巨大なイカの脚が船の衝角を掴み上げているのが見えた。
そのまま船に巨体で乗り込んで来ようとしている。船体が悲鳴をあげている――あんなのに暴れられたら、今度は沈んでしまうだろう。
「……テオリッタ!」
迷っている余裕はなかった。俺は《女神》の名を呼んだ。まだ消耗の少ないうちに。いま、ここがぎりぎりの判断だろう。
後から考えても、仕方ない選択だったとは思う。それはそれとして、後悔はある。
「聖剣を使う。やれるか? こんなところで沈没は御免だろ!」
「……ええ!」
緊迫した声。テオリッタの髪が、霧の向こうで黄金の火花を発するのがわかった。
「召喚します。討ちましょう、ザイロ!」
――その新手の魔王を倒すまで、せいぜいそこから数十秒。
問題はその後にやってきた。
◆
「グィオ」
と、イリーナレアが振り返ったとき、すでにその眉間に焦燥感を滲ませていた。
見ただけでグィオにはわかった。
何かよくないものを見た顔だ。厄介ごとに違いない。そういう要素は、この一見しただけではそうと見えない完璧主義者の《女神》にとって、大きなストレスになるらしい。
彼女は手元の索敵盤を指差していた。
「ヤバいことになったんじゃないか。おい、妙なやつらが接近してきたぜ。数が多い」
「……そうですか」
グィオは『妙なやつら』が意味するところを考える。イリーナレアが一目見ただけでわかるほどの『妙なやつら』。
手元の索敵盤を見る。水をはった器に砂を沈め、『ローアッド』での音波探知を行う聖印兵器。浮き上がる砂粒の塊が、敵の姿を意味している。その大きさと速度までわかる。
「
「ああ。旗がある……これは……船かよ」
うなずくイリーナレアは、すでに望遠レンズを手にしている。
彼女が召喚した特別製のレンズで、本来は狙撃用兵器に取り付けられているものだ。霧は深いが、その向こうに垣間見えるものがあったらしい。
「あの旗。蛇……蛇みたいだ。赤い蛇……」
「ゼハイ・ダーエ」
グィオは反射的に呟いた。
その赤い蛇には、心当たりがある。
「良くないな……。ここで、出て来るとは……まるで私への嫌がらせだ」
「はあ? なんだグィオ、知り合いかよ」
「はい」
グィオはうなずいた。やつらの船が接近しているのは、艦隊のちょうど先頭の部隊だ。距離がありすぎ、霧も深い。おそらく助けにいくのは間に合わないだろうと思う。
「あの船団はゼハイ・ダーエ。海賊です」
言った途端に、船が大きく揺れた。
高波が見える――日は西の彼方に沈み、闇が深く、海が荒れ始めている。
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