待機指令:ガルトゥイル深部修理場

 空を泳ぐ、魚の群れを見ていた。

 それを統率するのは、ひときわ大きな魚影。鯨のような生き物だ。


 俺はそれを知っていた。

 獣の《女神》フィムリンデ。

 第七聖騎士団の長、シグリア・パーチラクトが率いる高速輸送部隊だ。


 つまりそれは、開戦の準備が整ったことを意味する。

 俺たち第五聖騎士団を含む、実に三つの聖騎士団が投入された、大規模な作戦だった。

 北部への橋頭保の奪還。ヴァリガーヒ海峡を回り込み、砲撃都市ノーファンとの連絡を回復する。北への進軍路を拓くための、大規模な構想に基づく戦い。


 この戦いには、第六聖騎士団と俺たちが連携して臨む予定だった。

 そう――第六聖騎士団。リュフェン・カウロン。

 俺が知る限りもっとも軍人に向いていない性格をしながら、しかし、もっとも軍人に向いた頭脳の働きの持ち主だった。


 リュフェンはいつもどのように戦うかではなく、どうやって兵隊を戦わせるかということばかり考えている。

 兵隊たちの食事、移動、寝る場所、身に着けるもの、武器、消耗品――そういうやつだ。


 リュフェンを見ていると、俺はつくづく思う。

 戦術は努力と経験で身につくが、兵站にはたぶん才能のようなものがある。

 第七聖騎士団の輸送力を手配し、ヴァークル開拓公社から街道の整備状況という情報を買い上げ、貴族たちの協力で軍の駐留地点を確保した。

 この戦いにおける数々の備えを見れば、リュフェンという男がどれだけ戦争の才能に恵まれてしまったかがわかる。

 俺たちみたいなボンクラが、時間をかけて検討して至る結論に、リュフェンは先回りしてたどり着いている。


 あの男がいつも通りのことをやっていれば、後方のことは気にする必要はない。

 この作戦は、きっと成功する。

 特にたいした理由もなく、俺はそう思った。


『――状況完了。物資は予定通り届いて、シグリアの仕事も終わったよ』

 リュフェンからの通信があった。

『そっちが準備できてるなら、いつでもいける』

 雑音混じりの声。それは小型の盾のような器具で、表面に聖印が刻まれ、微細に振動しながら音を伝える。


『どうだい、ザイロ。自信はあるか? 日が暮れるまでに片がつくかな?』

「そんなにチンタラ時間かけて仕事するつもりかよ」

 俺は通信盤に向けて答えた。

「すぐ終わらせる。今日の夜はノーファンの温泉街で酒を飲むぞ」

『名案だ! そういうのが聞きたかった。いい店知ってる?』

「調査済みだ」

『さすが。じゃあ、後は勝つだけだな。どうやる?』


「西の森を抜けて、側面攻撃する構えだけとってくれ。あとは俺がやる」

『了解。また後で』

 それで、リュフェンとの通信は切れた。

 細かい戦い方の話をするつもりは、もともとない。

 全体的な流れ、というか方針だけは伝えてあった。


 リュフェンの部隊が側面から迂回する構えをとり、俺たち第五聖騎士団が正面を支える――と見せて、突っ込む。異形フェアリーの群れの真ん中に、楔を打ち込むように、いきなり要塞を出現させてやる。

 すでに、相手方には後退するか、俺たちを全面的に潰走させるか以外に道など無い。


 そういう風に戦いを進めてきた。西をリュフェンが抑え、東は海峡が閉ざしている。そして異形フェアリーどもが戦わずに下がるなら、願ってもない。

 この戦いの目的は砲撃都市ノーファンとの連絡回復だからだ。戦力損耗なしにそれができる。


 思えば、異形フェアリーたちの――魔王現象の目的とは何なのだろうか。

 単なる攻撃目標という意味ではなく、最終的な目的だ。

 魔王現象には人語を理解するほど、知性のある個体もいるという。それがいったい何を欲してこんな戦いをしているのだろう。

 人間を奴隷として飼うこともあるのだから、神殿の連中が主張するように、種族としての絶滅を望んでいるわけではないとは思う。


 俺には、やつらが人間の文明を根本的に衰退させようとしているとしか思えない。

 それはなぜか?

 魔王現象は牛や豚でも生命を維持することができるという。それなのに、なぜ危険を冒してまで、積極的に人類の都市を襲うのか。

 まるでそうあるべく定められた存在のようではないか。

 だとしたら、それはいったい何者にそう定められたのか?


「――ザイロ」

 取り留めもないことを考えていると、背後から名前を呼ばれた。

 セネルヴァの声だ。よく晴れた日に散歩でもしているような、どことなく弾んだ声だった。

「またこんなところで、一人で遊んでる。デクスターが探してたよ。もうすぐ戦いだろ? みんなに声ぐらいかけてほしいのに、ザイロがいないってさ」


 デクスターというのは、俺の副官だった。

 何かと小うるさいところがあるが、それ以外の面では文句をつけるのが難しいくらいには優秀だ。

 ただ、神経質すぎるのではないかと思うことがある。


「俺が声かけてどうするんだよ。たいしたこと言えねえぞ」

 俺はセネルヴァを振り返らずに答えた。

「わかんないけど。気合が入るって言ってる人もいるよ」

「デクスターにはよく言っとけ。戦いは気合や根性でやるもんじゃない。いま、その百倍重要な補給物資の話をしてたんだ」


 俺は胴体に巻き付けたベルトを調節する。

 そこに収められたいくつものナイフ。その鞘。柄。その握り。簡単に抜き放つことができるか。摩耗している部分はないか。

 こういう確認は、いつどんなときでも必要だ。十分に準備をしたという手ごたえがあれば、余計なことを考えずに戦いに集中できる。


「――でも、ザイロから声をかけてもらいたがってる人、いると思うよ。気分って大事なんじゃないかな。これから死ぬかもしれないんだし」

「死なないようにするんだよ。そもそもそういう演説が必要なら、デクスターがもう十分やってるだろ。あいつの方が上手い」

「違うよ。ザイロの言葉が必要なんだ。みんなの団長だろう? ほら、仮にも、一応は」

「仮とか一応とかは余計だ」


 が、セネルヴァの言葉にも一理はある。

 指揮官が絶対に勝てるという顔をしているから、兵隊は疑いなく戦うことができる。

 やりすぎは問題だが、叱咤激励でそれを強調しておくことは、決して悪くはない。俺の苦手分野ではあるが。


「わかった。いまからやるよ、デクスターには負担かけてるからな」

「よかった。それでこそ、ぼくの騎士。今回もきっと勝てるよね」

「いつだって勝てる。ここまで人類の版図を回復したんだ、あと一年もしたら魔王現象を根絶してるさ。俺たちは無敵だ」

「うん。ぼくの祝福もあるからね」

「まあな」

 セネルヴァは、どこかとぼけたような笑みを浮かべているだろう。

 俺はその顔を予想しながら振り返る。


「だが、無茶はするなよ。お前、この前は力の使い過ぎで――」

 言いかけて、その先が出てこなかった。

 俺は言葉を失った。

 セネルヴァの顔だ――そこには顔がない。真っ黒だ。顔の代わりにあるのは、深い闇の空洞だった。


「ザイロ」

 暗い闇の底から、セネルヴァの声が響いた気がする。

「ぼくは信じてるよ。きみは無敵だ。勝ち続けるだろう――ぼくがいなくても、きっと」


 そこで俺は気づいた。

 これは夢だ。

 セネルヴァは、そんなことを口にしたことはない――おそらくは。

 そうだったはずだ。


        ◆


 目覚めると、修理場のどこかだった。

 そう確信できるものがまず見えたからだ。


 白い布きれを寄せ集めて作ったような、人型の何かが、俺を見下ろしていた。

「あ」

 と、そいつは小さな声を発した。

「もう起きたの? 本当、相変わらずうんざりするくらい頑丈なんだから」

 一気にまくしたて、そいつは片手をあげた。やはり指先まで布に包まれている。

「見えてる? 視力は? 言葉は喋れる?」


「――ああ」

 俺はその布きれの塊のことを知っている。

 アンダウィラ。第二聖騎士団に従う、血の《女神》アンダウィラだ。

 傷を癒し、肉体を修復する、真紅のスプライトを召喚する者。布切れの塊に包まれている――たぶん少女で、中身は俺も見たことがない。もしかしたら、そもそもがこういう姿の女神という可能性もあった。


「見えるし、喋れる……」

 俺はかすれる声で答えた。

 もう一度、強く目を閉じ、開く。自分がどこでどうしているのか、もっとはっきりわかってくる。殺風景な天井。質素なベッド。それ以外は本当に何もない。

 病院よりももう少し陰鬱で、清潔だが頑丈なだけの部屋という印象だ。


「ふうん」

 と、アンダウィラはうなずき、手を引っ込めた。

「じゃ、感謝してね。私と、私の騎士たちが治してあげたんだから」

 実に偉そうな物言いだった。

「不調なんてないでしょ? 私の騎士たちは完璧よ!」

 この《女神》の『騎士たち』――第二聖騎士団は、特別な形態をとっている。

 おおよそ二十名からなる複数の聖騎士が存在し、すべてが医療技術者だ。連合王国各地の修理場で活動している。


 その聖騎士全員のことを、俺はことごとく苦手だった。

 やつらの気質は医者によく似ていて、無茶なことばかり言う。

 危険な白兵戦をするなとか、酒を飲みすぎるなとか、健康的な睡眠を取れだとか――おおよそ話が嚙み合わない。

 兵士に対して『無理をするな』とはどういう了見だ?

 いまの俺はちょっと事情が特殊だが、兵隊は明日にも死ぬかもしれないのに。


「ほら、何してるの? はやく感謝して!」

 アンダウィラは俺に強要した。

 こうなると、ちゃんと礼を言うまでしつこくつきまとわれることが経験上明らかだった。仕方がないので、言われた通りにしようと思う。

 事実、アンダウィラほど忙しい《女神》は他にいないだろう。

 もっとも激戦区に近い修理場を転戦し続けている。ある意味で、最も過酷な働き方をしていることは間違いない。


「……ありがとう。助かった、アンダウィラ」

「ありがとうございます、でしょ? 昔からあんたは愛想ないんだから! 私の騎士たちにも感謝しなさい」

「……ありがとうございます。聖騎士たちにも伝えてくれ」

「それでよし。あの竜騎兵よりも素直ね」


 竜騎兵。

 ジェイスのことか。あいつも修理を受けたのか――その後のことが、少し気になった。

 あれから、第二王都はどうなったのだろう。

 だが、俺が質問するよりもアンダウィラが踵を返す方が速かった。


「じゃ、そういうことだから。――ねえ、テオリッタ! あんたの聖騎士、起きたみたいよ!」

「はい! ありがとうございます、アンダウィラ!」

 アンダウィラが部屋の外に声をかけた。

 すると、軽い足音が駆けてくるのがわかる。俺はゆっくり体を起こして、それを見た。テオリッタだ。片手にいくつかの本や、ジグの遊戯盤を抱えている。


「目を覚ましたのですね、ザイロ!」

 安堵と、喜びの表情。

「持ってきましたっ。ザイロが三日はここから出られないと聞いて、退屈しているだろうと思って!」

 どん、と音を立てて俺のベッド脇の小机に本を置く。たぶん詩集だ。それからジグの遊戯盤に――それと、こっちはツァーヴから教わったのか? 賭博に使うようなカードの束も添えて。


「また、この私が遊び相手になってあげますからね! ねっ。嬉しいでしょう!」

「ああ」

 俺は苦笑した。

 退屈していたのは、絶対に彼女の方だろう。


「傷が癒えたら、行先は第一王都ですよ。聞いて驚きなさい、ザイロ。なんと今回の功績で、本当に休暇がもらえることになりました! 本物の休暇です! これも《女神》たる私のおかげですよね?」

「ああ」

「詩集も遊戯盤も快く貸してもらえました。これで三日間たっぷり遊べます!」

「ああ」

「あと、それから――そう! 戦い方の練習も! 見てください、ザイロ!」


 テオリッタは、上着から鞘に包まれたナイフを取り出してみせた。

 玩具のように頼りない刃物だった。


「私、一人で身を守れましたよ。ザイロが教えてくれたおかげです。このナイフも役に立ってくれました!」

「ああ」

「ザイロは文句をつけてましたけど、ちゃんと使えるナイフですよ。玩具なんかじゃありませんから!」

「ああ」

「これで私が、もっとしっかり身を守れるようになれば――ザイロも、きっと、そんな無茶をしなくても良くなる。そうでしょう?」

「ああ」


 俺は首を振った。

 テオリッタが差し出すナイフに、俺はまったく記憶がなかったからだ。

 だが、そのことを口にすると、テオリッタをひどく失望させてしまう気がしていた。


「そうだろうな」

 そうであればいいと思った。

 俺の祈りが届くはずがないとしても、そうであればいいとただ願った。

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