第1話 静かな目覚めは程遠い

 夢を見た。


 胸に風穴開く夢を見た。


 ふみふみとなにかが俺、清野一禾いちかの右頬を踏んでいる。


 まるでパン生地をこねるかのように柔らかくて弾力あるものが俺の頬を踏んでいる。


 この柔らかさが夢見の悪い俺を癒していく。


 だが、癒しと思うのはここまで。


 ぺしぺしぺしぺしと、いつしかふみふみは叩くことに変わる。


 今日は日曜日なんだ。


 学校もバイトもないんだから惰眠を貪らせてくれ、と訴えるもぺしぺしは止まるどころか頻度を増す。


 ぺしぺしぺしぺしばしばしばしばしばし――がぶり!


「痛って!」


 右耳に走る痛みで俺はベッドから飛び起きた。


「みゃおっ!」


 痛む右耳を抑えながら俺は元凶にまだ眠い目を向ける。


 血が出るほどではないが夢から覚めるほどの痛みだ。


 腹に風穴開いた悪夢だったが、どんな夢だったか耳を噛まれた衝撃で彼岸の彼方にぶっ飛んでしまった。


 目に映るのは首に巻かれた赤いスカーフ。


 次に映るのは耳の先から尻尾の先まで真っ黒な猫。


 噛んだ元凶なのだが何食わぬ顔でちょこんとベッドの上に座っている。


「お前な……」


 俺を叩き起こした。いや噛み起こしたこいつの名はペロ。


 年齢は一〇歳。性格はおおらかで気ままな雄猫だ。


 俺が七歳の頃、廃屋に生まれたばかりの姿で他の兄弟と共に捨てられているのを見つけて保護。


 捨てた奴の無責任さに腹が立ったと同時に見捨てて置けなかったこともあって俺は両親に飼うのを懇願する。


 本当は全員飼いたかったが、親父やお袋から一匹だけと言われ、兄弟の中でただ一匹、真っ黒なこいつを選んだ。


 残る兄弟は親父やお袋の伝手により無事、里親が決まり今なお元気よく暮らしている。


 ペロという名前の由来は童話<ながぐつをはいたねこ>の作者シャルル・ペローからとっている。


 猫を遺産として与えられた三男坊が猫の巧みな知恵により貴族にまで出世しお姫様と結婚するお話である。


 俺が黒猫を選んだのも、絵本で読んだこの話がピンと来たからだ。


 後で知ったことだが黒猫は不吉なイメージがあるも、それは西洋の話。


 日本において黒猫は福猫として魔除けや幸運、商売繁盛の象徴とされている。


 江戸時代、黒猫は結核や恋煩いに効果があると信じられており、あの新選組の沖田総司が結核治療のために飼っていたとか。


 古いお札にある夏目漱石の一作品、吾輩は猫であるのモデルは家に住み着いた野良の黒猫ときた。


 だからか、黒猫に名付けをする際、親父はソウセキ、お袋はソウジと名付けようとしたが俺はペロを押し切った。


 今では家族の一員であり、一〇歳という高齢でありながら元気に家の中をのんびりと歩き回っている。


 よく世話したのが俺だからか、家の誰よりも懐き、ベッドに入り込むのはザラ、頼んでいないのに目覚ましが鳴る前に起こしてくれるなど忠犬どころか忠猫である。


「んにゃ~!」


 俺が起きたのを確認したのか、ペロはその身をすり寄せてきた。


 フサフサな体毛を右手で撫でながら俺はもうひとあくび。


 今何時だと枕元に置いたスマートフォンを開いた左手で探そうと硬き感触が指先に伝わらない。


 ベッドの隙間に落ち込んだと思うも隙間にはない。


 この部屋は広い。


 家が大きいこともあって、だいたい教室一つ分の広さがある。


 寝ぼけてどこかに滑りこんだのならば探すのに苦労する。


 もっとも杞憂でしかなかったようだ。


 寝ぼけた頭は時と共に覚醒。


 ベッド横で静かに行われているパジャマ女とメイドのキャットファイトによりスマートフォンの居場所が判明した。


「またかよ……」


 俺はぼやきながら左手で前髪をかきあげた。


 キャットファイトの二人は俺のぼやきで目覚めに気づいたのか、取っ組み合った姿で揃って顔を向ける。


「あ、おにいおはよう! 今この女始末しているから顔洗って待ってて!」


 小さき体躯で負けじとパジャマ姿で張り合うのは今年で一〇歳となる清野藍香あいか


 元気溌剌な笑顔で物騒なことを口走る。


 最近は髪を伸ばし肩を超えるほどまで伸びているも、掴みあったお陰で乱れに乱れてる。


「あら弟くん、おっきした? 今日もいい朝をお姉ちゃんが愛と一緒に届けにきたぞ♪」


 にっこりほっこり笑顔で微笑むのはメイド服姿の清野楓月ふづきである。


 当人は朝の爽やかな挨拶のつもりだろうけどさ、俺からすれば爽やかのさの字なんて微塵もない。


 一八歳の高校生がなに小学生相手に物理的なマウントとってんだよ。


 髪が乱れに乱れた藍香と異なり、フワッとした長い髪に一切の乱れがないのは姉ポジとしての余裕か。

 

 唸り声の藍香が楓月の髪を手を掴もうと、軽く首を左右に振るだけで毛の一本すら触れさせない。


 うちの家のメイド服まで着込んでるし、使用人に間違われたら大問題だぞ。


 両者の中心にあるのは俺のスマートフォン。


 目覚まし時計代わりにセットしているがアラートは停止され、今では大岡越前裁きよろしくの引っ張り合いの奪い合いだ。


 どちらか俺を起こすかで揉めに揉めているのは毎度の光景。


 体格と膂力の差もあってか、藍香は楓月に押され、今では上に乗っかられている。


 メイド服の胸元を見事に押し上げるたわわな物体に藍香は押されに押され劣勢ときた。


「うっがああああ! いい加減離れろ! その汚い手を、重いデカ乳を離せ! もぐぞ、ゴラッ!」


「ダ~メ、弟くんを起こすのはお姉ちゃんの役目なんだからね? この胸は弟くんを起こすためにあるんだよ」


 今の今まで眠る俺に気を使って静かに争っていたのだろうと気遣うベクトルが違うだろう。


 俺が目覚めると気づく否や、藍香は唸り、楓月はにっこりと奪い合いを再燃させていた。


「なるほど、お前はそれで俺を起こしたわけか」


「にゃ」


 然りと言わんばかりペロは頷く。


「兄を起こすのは真なる妹って世界の法則で決まってるの! ガン姉の出番なんて、てめえのワカメ毛一本もないわ!」


「それは違うわ、アイちゃん。生まれた時から、いいえ、生まれる前から私は姉として弟くんをおはようからおやすみ、あ~んから、イヤンとお世話するのが決まっているのよ」


 いやだからさ、楓月。


 コエー昔と違って甘えさせるまでに性格丸くなったのいいとして、小学生相手にマウント獲るなよ、大人げない。


 学校では生徒会長、学年トップの成績を維持し、なおかつ運動部から助っ人を頼まれる人望篤き人物が大人げない。


 料理だって一口食えば藍香が黙るほどの美味さのに大人げない。


 うん、大事なので二度言った。あ、これだと三回か。


「さてと……」


 止めるのが役目なのだが、下手に干渉するとこじれるから放置するのが得さ、く……んっ!


「んにゃ!」


 俺の第六感より先にペロが野生の勘で枕の下に飛び込んだ。


 ベランダに続くカーテンが外から揺れたのはペロ隠れる枕の上にシーツを被せた時だ。


 カーテンより現れたのは人影ではなくコンサート会場にあるスピーカー。


 俺は今なおキャットファイトを続ける二人に警告を発するよりも我が身を優先させる。


 具体的に鼓膜を守るため、両手で耳を抑える。


『お兄ちゃん朝だ! 朝だよ! 可愛い妹のおはようボイスだよ! おはよおおおおおあああああっ!』


 瞬間、凄まじい音波攻撃が俺にダイレクトヒット。


 そして窓ガラスの一部に亀裂が走った。


「にっししし、あ痛った!」


 俺はキンキンする鼓膜と意識の中、カーテンの奥より現れたしたり顔の女に黒きカウンターが炸裂するのを目撃した。


「ふぎゃああああああああああっ!」


 黒きカウンターの正体は全身の毛を逆立てたペロだ。


 俺でなければ見逃していた猫パンチを顔面にお見舞いしている。


 よし、ペロ、いいぞ、もっとやれ。因果応報だ!


 猫はな、人間の何百倍も耳がいいんだぞ。


 そんな猫に大音量ぶっ放してみろ。


 どうなるかわかるだろうが!


「ひなた、お前な!」


 朝っぱらから音波攻撃を仕掛けた迷惑女の名は清野ひなた。


 一四歳の中学生、やや切れ長の瞳と無駄なく引き締まった四肢からスポーツ系クルーキャラに見えるが、実際は藍香に妹被りと揶揄されるほど、負けず劣らずの元気キャラときた。


 藍香や楓月と比べて髪は短めのセミロング。中学指定のセイラー服に、肩からはベースを下げている。


 先の容姿の通り運動系かと思われがちだが、学校では軽音部に所属しベースを担当。


 音波攻撃の発生源であるアンプ付スピーカーはその軽音部で使うものだ。


 制服姿なのも軽音部の練習があるからだろう。


 だからって学校の備品を私的に使用するのは問題だぞ。


「姉ちゃん、兄ちゃんまだ起きないの?」


「あ、兄貴、まだ寝てる!」


「ペロ、ペロペロだ!」


 廊下に続くドアが開いたと思えば、小学生三人がベッド、いや俺に突撃をかます。


 軋むは弾むは、その反動でペロが跳ね上げられるはと俺の部屋は混迷と化す。


「あ、ずるい! 兄にダイブしていいのは真なる妹ただ一人だ!」


「俺らは弟だから妹じゃない!」


「よって問題な~し!」


「ペロペロペロ」


「あ、それもそうか、ならばヨシっ!」


「なにがヨシだ! いい加減にしろ、お前ら!」


 こうして騒がしく賑やかな日曜日が始まった。


 ……俺なんの夢見てたんだっけ?

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