第3話 前夜

 大きな満月が光を放ち、小さな星々でさえも良く見える見事な夜空だった。

 地上では松明がよく燃え、昼間とはまた違う明るさが闇の中で爛々と輝いていた。


 A.D.289 リンデ



「司令はなぜ、そこまでリンデにこだわるのだ!?」



 防衛隊の本営とされた宿屋の一室で、ひときわ大きく燃え上がる炎がひとつ。


 机に叩きつけられた拳は岩のようであった。

 怒りの咆哮は獅子のようであった。


 男の名はフレデリック。

 長いまつ毛に高い鼻、流れる視線は鷹のよう。異性を虜にする涼やかな見た目とは裏腹に、彼の気性は豪傑そのもの。度重なる戦闘にその身を傷つけながら、立ち昇る気炎は万丈であった。



「セレナ海岸に展開した魔獣どもに、ユニガンの騎士団との挟撃策は却下する」



 おそらく並の人間ならば、目を逸らすほどの剣幕に、相対するはひとりの老騎士。

 防衛隊司令ヒースはたじろぐ・・・・ことなく言い放つ。

 目つきは鋭く、髪も黒々とし、アルドが出会った弱々しい老人の面影はない。いやむしろ、11年後の彼にこそ、かつての面影はないと言うべきか。



「我々は陛下より、このリンデを守り抜くことを仰せつかったのだ。敵に背を向けて逃げるつもりはない」

「しかし、セレナ海岸の魔獣を討たねば、リンデよりも先にユニガンが落ちる!」

「ユニガンは落ちん!」



 ふたりが挟む机の上には地図があった。リンデのある箇所にはヒースとフレデリックを含めた、防衛隊を示す数個の黒い駒が。そして海と、セレナ海岸の東西を挟み込むように無数に置かれているのは、魔獣軍を示す赤い駒。

 にもかかわらず、あくまでリンデに籠ることにこだわるヒースの選択を楽観的視点によるものだと判断したのだろう。

 平行線を辿るばかりの議論に痺れを切らしたフレデリックが剣を抜いた。



「……なんのつもりだフレデリック」

「正直、アンタには失望した」



 ヒースの眼前に切っ先が突きつけられ、しばしの沈黙が訪れた。

 その間に、フレデリックはなにを思ったのか。



「……申し訳ありません、頭に血が上り過ぎました」

「……かまわん。少し、夜風にでも当たってきたまえ」



 剣が降ろされ、鞘にしまわれる。

 フレデリックはぎこちなく一礼すると、退室した。

 その後のフレデリックとヒースについては、歴史が証明してくれる。

 誰がどう手を出そうとも変わらない。フレデリックがリンデを死守する間に、ヒースがセレナ海岸へと出陣する未来へと収束するだろう。


 ーーだがもしも、それを変えられるとしたら。

 やがて行き着く収束点を、ほんの少しだけズラすことができるとしたら。

 それはきっと、今なのかもしれない。アルドたちは、ひとりになったフレデリックの前へと現れる。



「君らは義勇兵か?すまない、いまは……」



 ひとりにしてほしい。

 そう告げようとして、フレデリックは目を見開いた。



「おまえ……まさかベルトラン!?」



 フレデリックは、アルドとユーインを知らない。老いさらばえたヒースを見ても本人だと気付かないだろう。

 しかし、そのなかでひとりだけ。11年という時の流れを経てなお、ベルトランの姿はフレデリックの記憶に面影を刻んでいた。



「久しいなフレデリック。まさか、このような形・・・・・・で再会できるとは思わなかった」

「……ああ。お互いに、な」



 再会を喜ぶ様子はなかった。ふたりの間を渇いた夜風が吹き抜け、しばしの沈黙が訪れる。



「聞いていたのだろう」



 先に口を開いたのはフレデリックであった。



「なぜ、ヒース司令は理解してくれないのだ。このままリンデにこもったところで、勝ちの目などありはしない。俺たちが出なければ先にユニガンが落ち、やがてリンデも後を追うようにすり潰されてしまう」



 握りしめた拳が震えていた。噛み締めた歯がギリギリと音を立てていた。



「……ん?」



 ふと、アルドはフレデリックの態度に違和感を感じた。

 彼が口にし、態度に表す悔しさは嘘ではない。それは、ここにいる誰もが分かっている。

 ただアルドは、その中に僅かばかりのもどかしさ・・・・・が混じっているような気がしたのだ。



「ーーなあ、ちょっといいか?」



 この台詞を口にするとき、アルドは相手の本質を突いてくる。

 それを知っているベルトランとユーインは、アルドの次の言動に注目する。



「フレデリック……ひょっとしてアンタは、ヒースの作戦だけでなく、自分の考えにも納得がいってないんじゃないか?」

「な……!」



 図星を突かれたのか、フレデリックの瞳孔が開かれる。



「本当は、ユニガンとリンデ両方を守りたい。だけど、それができない現実に……いや、それができない自分に腹が立っているんじゃないのか」



 明け透けもなく物を言うアルドに対し、フレデリックが怒りを爆発させることはなかった。

 それどころか、大きく息を吐き出して呼吸を整えている。



「……分かっちゃいるんだよ。司令がリンデ防衛に徹することの道理くらいな」



 フレデリックは分かっていた。魔獣たちにとってこの奇襲は、決行に成功した時点で、少なくとも目的のひとつは達成されてしまっていることに。


 リンデの孤立か。または陥落か。


 中途半端に部隊を割けば、セレナ海岸の敵はすぐさま踵を返しリンデへ攻撃を集中させるだろう。だからこそフレデリックは、全軍で打って出て、セレナ海岸だけでも勝利を収めようとした。

 しかしそれでは、リンデは落ち、魔獣たちによってユニガン攻めの橋頭堡にされてしまうだろう。

 それを恐れるヒースは、ユニガンの兵力がリンデまで攻め上ってくることに賭け、あくまで防衛に徹する考えを示していたのだ。



 フレデリックの"捨てる"策か、ヒースの"賭ける"策か。

 どちらかの理を捨てなければ戦えないことこそが、フレデリックが歯噛みをする真の理由であった。



「……お、おぬしの作戦を選ぶべきだ」

「おい、じいさん!?」



 老いたヒースが一歩前に出た。



「ヒースの作戦を選ぶべきではない。リンデを捨ててでも、セレナ海岸へ総員で当たるのだ。そうすれば、一度は魔獣の侵攻も耐えられよう。おぬしのような若者が無駄に命を散らすこともない。次へ繋がるのだ」

「お、おいおい。縁起でもないこと言わないでく……」

「いや、そ、そうすべきなのだ」



 老ヒースは跪き、そして懇願するようにフレデリックに縋り付いた。

 彼は、自責の念で己を押し潰すように生きてきた。将来を期待する部下を、未来を担う若き才能を、この手で殺してしまったという後悔だけを引きずりながら、11年という長い時間を。

 結末を変えるのは今。フレデリックを救うのは今。

 たとえそれが、自身の心が救われたいというだけの、独りよがりな願いでしかないとしても、ヒースは溢れ出す感情を止めることができなかった。



「ありがとう、じいさん」



 フレデリックの表情が穏やかになる。ヒースと同じ目線の高さまで腰を下ろし、ゆっくりと頷いた。

 それを承諾と受け取り、ヒースは「おお……」と表情を明るくするも、



「おかげで吹っ切ることができたよ」



 ヒースの心臓が大きく跳ね、ひとつの感情で支配される。

 眼前に見えるは燃え盛る炎。されど、凍てつく氷のつぶてにその身を裂かれているような。これは絶望か、畏怖か、それとも恐慌なのか。いや、そのどれでもない。ヒースには分かっていた。


 ーーそれは失意だ。

 フレデリックが乗ってしまった・・・・・・・。死という運命の流れに乗ってしまった。


 流れに抗う者は多くいる。そして力尽き流される者も多くいる。

 だが、フレデリックは違う。己の意思で流れに乗り、己の力で最後まで泳ぎきる。ためらいなく兇刃きょうじんを振える強靭な意思をもった狂人が、稀にいる。そう、いまの彼のように。



「なんのために戦うのか、誰のために尽くすのか、この刃の先になにを示すのか。パズルのピースが綺麗にハマった『カチッ』って音を聞いたように、すべてがクリアだ」



 その柔らかな笑顔の裏に狂気を見た。普通の・・・人間なら持っているはずの、死を恐れ生を求めるという意思が感じられない。



「もういちどだけ、司令に掛け合ってみることにするよ。重ねて礼を言うよ、じいさん」



 マントを翻し歩き去るフレデリックの足取りは、力強かった。彼が辿り着くべき答えが見つかったのだ。



「そんな!フレデリック、そんな……!」



 ヒースは立ち上がれなかった。顔を上げることもできなかった。

 運命を変えたかった。しかし、変えられなかった。どうしようもない無力感に駆られるが、なぜか涙は出なかった。それどころか悲しみの感情すら湧いてこなかった。

 抜けて・・・いくのだ。体からなにもかもが、すべて。涙も、悲しみも。

 過去に戻れると知ったとき、過去に戻ったと実感したとき、過去を変えられると確信したとき。いまだ自分が抜け殻になりきれないのは、未練と希望が残されていたからだと理解・・した。

 しかし、すべてが泡沫の夢でしかないと理解させられた・・・・・とき、文字通りすべて弾けてしまった。

 もはや後は、本当に抜け殻になるのを待つばかりか。



「ーーお、おぬしら……!?」



 しかし、そんなヒースの身体を支える者たちがいた。



「まだ、すべては終わっちゃいない」



 吹けば飛ぶような右肩をアルドが掴んだ。



「むしろ、ここからだぜ」



 赤子でも容易く折れそうな左肩をユーインが包んだ。



「そう、我々がこの時代へ跳んだ意味……それはきっと、これから始まるのです」



 そして、決して崩れさせまいと支えるように、ベルトランが目の前でひざまずいた。



「どういう、ことだ……?」



 ヒースは困惑していた。

 3人はなにを理解したのだろうか、自分たちがやるべきことの形がハッキリと見えている。



「この時代に来る前、この夜のことを思い出せないと仰いましたな」

「……ああ」

「たぶん、アンタ以外、俺たちはみんな気付いてる。いや、なにがあったのか分かるって言ったほうがいいかな」

「だからよ、じいさん。アンタは思い出さなきゃならねえんだ。無理矢理に追いやってしまった、けれども決して忘れちゃいなかった記憶ってやつをな」



 フレデリックの行き先は、この時代のヒースが待つ司令室。

 老いたヒースが思い出せないのは、ここから先の出来事だった。

 見たくない、目を逸らしたい、すべてから逃げ現代へ戻れれば、どれだけ苦しまずに済むだろう。

 しかし、おそらくこれが最後の……いや、これこそが唯一のチャンスなのだ。己の未練と後悔に打ち克つのは今しかないのだ。


 ヒースは歯を食いしばった。数字と理屈で生きてきた彼にとっては遠い存在である"根性"という精神を振り絞り、立ち上がった。すると、ヒースの頭の中で、忘れていたはずの記憶が、瞬く間に形を為していくのが分かった。



「逃げてはならん……!あのときフレデリックは、決して諦めて・・・いなかった!」



 そう。どれだけ忘れようとしても、記憶とは片隅まで追いやることしかできない。決して消せはしないし、追い出すことも不可能なのだ。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る