第4話 再会
二人して雫を滴らせながら、手を引かれて着いた先は稲荷山神社の本殿だった。
彼は箪笥を引き巫女服を手早く揃えると、奥のふすまを開けて私と服をほおりこんだ。
「なに、なにあいつ!」
襦袢と、白衣と、赤い袴。一応浴衣は自分で着たし、上は大丈夫だ。
袴は、成人式の記憶を引っ張り出してなんとなく着ければいいか。
襖の向こうでごそごそと衣擦れの音がする。
あの人も着替えているのだろうか。
―ゆいちゃん?
そう、確かに聞こえた。その呼び方は幼稚園か小学校低学年のころの知り合いしかしない。中学卒業時に千夏以外の地元のつながりはほとんど切れてしまったし、千夏は呼び捨てる。であれば、いつ、出逢った人なのだろう。
「あの、どこかでお会いしたことあります?」
「ない」
襖の向こうに声をかけると、そっけない返事が飛んでくる。
私の顔を見て、固まって、ゆいちゃんとこぼしたあの反応で、「会ったことはない」はずがない。
「……ここ、神社の、本殿ですよね、入っちゃっていいんですか」
「俺んち。問題ない」
「これ巫女さんのですよね、お借りしちゃって」
「これしかない」
「この日めくりカレンダーおかしくないですか? 七月三十二日って」
「印刷ミス」
いちいち上からたたき切るように被せてくる。なんだ、その態度。カチンときた。
ギッ、と袴の帯を締め、襖を勢いよく開ける。
「あの、着替え終わりました」
襖の勢いにぎょっとしたのか、目を少し見開いたその人は、先ほどと違って着流しを身に着けていた。
「お、おう」
「着替え、ありがとうございます。着ていたものはどうしたらいいですか? 濡れたまま畳の上に置いておくのもまずいので」
「ハンガー使って、干しといていいから」
着物用のハンガーを借り、彼は高い位置に浴衣をかけてくれた。
視線は合わない。彼は頭の後ろをかしかしと掻いて、小さなため息をついた。
ため息をつきたいのはこっちだ。
「じゃあ出口まで連れてく」
「え、ちょっと、待ってください!」
ふい、と、彼は外へ出てしまった。
雪駄が砂利を踏む。歩幅を合わせてはくれないその人を追って慌てて下駄に足を通した。
「やっぱりどこかで会ったことありますよね」
「ない!」
少し駆けて追いつき問えば、先ほどよりも強い語気で否定される。
その様子は、意地を張っているようにしか見えなくて。絶対会ったことある、この人。と、確信した。
「まって、思い出すから」
「初めまして、俺でーす」
「あ、初めまして……じゃなくて」
「どうもここの住職です」
「住職はお寺でしょ」
「ちっ」
思考を邪魔するように突っかかってくる彼。大きな体と裏腹に子供のような振舞だ。
でも、このやり取り、私、 知っている。この空気。知っている。あの子は私のことをいつもからかって……。
―ちりん。
彼の長い髪をくくる髪紐の先端に付いた鈴が鳴る。
こちらに手を伸ばす少年の影がぼんやりと輪郭を持つ。
屈託のない笑顔と、白に近い黄金色。
「……いなり、くん?」
私の足は止まっていて、数歩先に進んでいた彼がビクッと肩を揺らした。
彼は勢いよく振り返り声を荒らげた。
「……はぁああああ、違いますぅ!」
ピンクに染まった頬と泳いだ眼が、感情を如実に物語っている。
「絶対嘘だ! え! ほんとに!? ほんとに稲荷くん!? でかくない!?」
「違いまーすぅ!」
「何その反応嬉しそうじゃん!! なに今までのそっけないの、何! 酷い!」
「うるせえ!」
ここ数年で一番大きな声を出した気がする。稲荷くんは全力で赤くなった顔を背けている。記憶にある彼は、中学最後の夏休みに最後に会ったときは、自分と同じくらいの背丈だった。こんなに大きくなるものなのか、男の子って。
「え、ほんとに……本物……?」
子供の用にはしゃいで、声を上げて、笑って、懐かしくて、涙がこぼれた。
「そうだよ。……何泣いてんの」
呆れたように笑う彼が頬にこぼれた雫の跡を親指でたどる。
「……え、あ、ごめん、なんでだろう、う、す、すぐ止めるね」
「あーもう、泣き虫ゆいちゃん」
「もう泣き虫じゃない! 大人になったの!」
「泣いてんじゃん今」
稲荷くんは昔と変わっていない。私をからかう楽しそうな声は、声がわりして低くなっても変わっていない。拭っても拭っても止まらない涙を掬われながら、私は子供に返っていた。無感情な人間だと思っていた、東京に出てから、心がこんなに動いたことはなかった。
「これは! ちがうの!」
「ひひっ、何が違うの」
「ばか!」
彼は笑ながら私の頭をかき混ぜるように撫でた。
「やめて、ぐちゃぐちゃになるじゃん! 上から来るのむかつく!」
「えぇ……思ったより背、伸びなかったねぇ」
「失礼だな! 稲荷くんこそ、なんでそんなにでかくなっちゃったの!」
「……今、ゆいちゃん、このくらいの年かなって」
子供みたいにニンマリしていた口が、ふっと緩められ、目を細める彼。
「え?」
「んや、あ、身長のことか。君が伸びなかったからでかく見えるだけだよ」
「小さいって言いたいの!?」
「はは」
一瞬、凪いだ空気はすぐ元に戻った。どういう意味だったんだろう。
「さ、いこう、帰り道はこっちだ」
「待って、まだお祭り、やってるんでしょ」
「……やってるけど」
「見たい!」
遠くから、お囃子が聞こえた。
私は知っている。ちゃんと覚えている。池に落ちた私を引っ張り上げた手も、茂みに迷い込んだ私を見つけた目も、泣いている私を慰めるために、一緒にお祭りを回ってくれた笑顔も。
七月三十二日に逢いましょう 黒崎ろく @roku_963k
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