第3話 こいの池
三十一日、夏祭り当日。
結局、家族に幼い頃の思い出として鈴について尋ねてみても誰も心当たりはなかった。母親の浴衣を借り、簡単にアレンジした髪を整える。
鳥居の下で千夏を待つ。まだ日は高いが、すでに参道には屋台が並び、子供たちの賑やかな声が響いている。
―ゆいちゃん、こっちだよ。
「結子、大丈夫?」
視界に千夏が入り込み息をのむ。辿れない記憶に意識を持っていかれていたようだ。
「待たせてごめんね、もしかして体調悪い?」
「ううん、ごめん、ぼーっとしてた」
「ならいいけど、なんかあったらすぐ言ってよ? 気づかないから顔忘れられたかとおもったし!」
「忘れるわけないじゃん!」
ドキ、と胸が鳴る。忘れていない。千夏のことは。大丈夫。大切な幼馴染。
でも、あの子だって――大切なら忘れないはずだ。だからきっと、そんなに重要じゃないんだ、と自分に言い聞かせた。
「浴衣いいねぇ」
「お母さんの貸してもらった。千夏も似合ってる」
「あたしは高校の時の! ……なんか中学の頃に戻ったみたい」
「そだね。……ごめんね、もっと帰ってくればよかった」
「いやごめん、そんなつもりで言ったんじゃないよ、うれしいってこと」
「うん、ありがとう」
千夏と話すときは自然体でいられる、と思う。高校生活は楽しかったし、大学も楽しいけれど、空気を読んで、周りから浮かないようにして、いつも笑顔でいて、話についていけるようにドラマを見て、雑誌を買って。駅前のアパレルショップで服を買って。
そうして得た評価は、優しくていい子、だ。
どちらからともなくゆっくりと歩きだし、砂利を踏む。
「そういえばさ、昔みんなで遊びに来てさ、よく結子だけいなくなってたよね、毎年」
「え?」
「あとで茂みとかからひょっこり帰ってくんの」
「えー、そんなことあったっけ」
「心配して探すんだけど、どこにもいなくてさ。もう大人になったし、今日は迷子にならないでよ?」
「失礼な、大丈夫ですー」
懐かしみながら千夏は言うが、記憶がない。笑ってごまかした。
かなり幼いころに、茂みをかき分けて参道に戻ってきて泣いているところを千夏や家族に見つけられたという覚えはある。迷子になった記憶がない。毎年というなら覚えていない方がおかしい。そんなピンポイントで忘れることがあるだろうか。
「あと鯉見てて池に落ちたことあったじゃん」
「そ、それは幼稚園の時ね! しかも一回だけでしょ」
「浅いのに溺れかけてさあ。あのときから、あ、この子あたしが守らなきゃって思ってた」
「なにそれ」
「そしたら一人で東京いっちゃうんだもん。びっくり」
「私だってちゃんと」
ぼちゃん、と水に落ちる音。引きずり込まれる感覚。重たい浴衣。息が苦しくなって明るい方に手を伸ばす。誰かが私の手を掴んで――
「結子?」
「……あ、ごめん」
「ほんとに大丈夫? 帰る?」
「大丈夫だってば、心配性だなー」
―ちりん。
―ちりん。
鈴の音に呼ばれている。千夏には聞こえていない。自分にしか聞こえていない鈴が。
無理やり意識を引き戻して、笑顔を返す。
「せっかく久しぶりに遊ぶんだし、楽しも!」
「結子がそういうならいいけど……」
「うん、まずは腹ごしらえじゃない?」
「オッケー。じゃ、あたし焼きそば買ってくる。なんか食べたいモノほかにある?」
「たこ焼きと、リンゴ飴かなあ。甘いものは向こうだっけ」
「じゃあ結子は甘味担当。あんず飴も一緒に頼んでいいー? たこ焼きはまかせろ!」
「ふふ、わかった」
「十五分後、鯉の池集合!」
一方的に約束を取り付けて、駆けて行く千夏を見送り、リンゴ飴と、ご所望のあんず飴を求めて歩き出した。
きらきらと光を反射する赤い飴を見つめながら、なぜリンゴ飴は赤いのだろうかと考える。皮が赤いからといって、必ずしも赤い飴をかける必要はない。だって私は、青いリンゴ飴を見たことがある。見たことが、ある気がする。どこで見たんだっけ。
ぼんやりしながらお使いを終えて、鯉の池に架かる低い橋を歩く。境内に作られた、腰下くらいまでの浅い池にはたくさんの鯉が参拝客に向かって口をはくはくと動かしている。鯉たちは子供たちがきゃらきゃら声をあげながらなげる餌を我先にと吸い込む。
そうだ、あの日自分も、餌を求めてやってきた鯉を触ろうと思って――
「え」
どん、と後ろからぶつかられた感触。低い柵に足をとられ、つんのめった体を反転させようと捻る。
ばしゃんと、肩と脇腹が水に当たる音、次いで、耳元を泡が昇っていく。
すぐに底に着く程度の水深のはずが、体はどんどん沈んでいく。息が持たない。もがくほど、水を吸った浴衣が絡まり身動きがとれなくなってゆく。
光が見える。水面はどっちだ。
―ちりん。
伸ばした手を掴まれ、引っ張り上げられる
「えっ、うわっ」
助けてくれたであろう人物の驚いたような声のあと、ばっしゃんともう一つ水音が鳴る。
「はあ、はあ、げほ」
「あ、え、大丈夫?」
空気が一気に肺に押し寄せる。池の中で尻もちをついた男性が背をさすってくれている。早く息を整えねば、と勢いよく吸ったせいで逆に咽る。
「落ち着いて、息吐いて」
しばらくそうして抱えられていると、息が整い、滲んでいた視界もクリアになってくる。
「はあ、すみません。ありがとうございます、もう大丈夫です」
「あ……」
体を離して顔を見合わせる。同い年くらいの男性。白と赤の着物を帯ではなく腰ひもで縛っている。輪郭に張り付いた髪は白に近い黄金色。髪より深い色の瞳と視線があったところで、彼はぽかんと小さく口を開けたまま固まってしまった。
「あの、お着物が」
「……え、あぁ、はい」
自分の口から小さくこぼれた音が時を動かした。
すると彼は意識が戻ったように顔をそらし、張り詰めた空気が霧散する。
「助けていただいてありがとうございます、あの、ほんとにもう大丈夫なので、離してもらっても」
「……ゆいちゃん?」
抱かれたままの肩に居心地が悪くなり、依然動きのない彼に声をかけると、小さく耳に届いた音。
その呼び方は、あの子しかしない。
「あ、いや、ごめん! 服貸すよ。こっち」
はじけるように立ち上がった彼にひっぱり上げられて、手を引かれたまま共に池から出る。
見覚えは、ない、のに、この人は、昔の自分を知っている。
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