第15話 邂逅を夢見て

 入ってきた旦那様を見ては、僕は挨拶も忘れ開いた口がそのままになった。

「こんばんは」

「……こんばんは」

「どうしても、君と話したくて……」

 子供みたいに顔を歪ませ、今にも泣きそうになっている。

 僕は立ち上がって彼の元へ行くと、両手いっぱいに抱きしめた。

「もう死んでもいいです……」

「これからもっと夢を叶えるのでは? 北海道で。死んだら駄目です」

「なずな君……」

 微笑んでみせて、もう一度抱きしめた。今度は京介さんもしっかり腕を回してくれ、人の体温を堪能した。

 恒例のココアを二つ注文し、マシュマロを浮かべて彼に差し出す。これで一つ二千円を超えるのだから、価値のあるココアと認めてもらいたい。

「なずな君から作ってもらうのは、やはり特別です」

「僕はあなたが入れてくれるココアが好きですよ」

「……嬉しいです」

 こつんと頭と頭と頭がぶつかり、すりすりしてくるので僕も仕返した。

「今日は朝までいられるんですか?」

「もちろんです。明日の朝に出発しますので、それまでは側にいます」

「…………明日?」

「別れが辛く、生徒にはあと数日いると嘘をついてしまいました」

「それ、は…………」

 僕には会いたくて来てくれたのか。

 嬉しい。泣きたくなるほど嬉しい。けれどその分、別れが辛くなるんだと彼は知っているのか。残酷で、世界一優しい人。

 顔が熱くなり、薄暗い明かりに感謝した。

「ええと……何を話しましょうか。参りましたね……言いたいことがあったのに、うまく言葉が出てきません」

「あなたの気持ちが分かりません」

「気持ち、ですか」

「北海道へ行くことは、迷いませんでしたか?」

 それが一番聞きたいことだったかもしれない。

「……考古学にすべてを注ぎたいと、学生の頃に誓いました。引き抜きは願ってもみない話でした。まさか生まれ故郷に戻ることになるとは、やはり縁はあったのかもしれません。東京でも、素晴らしいご縁に恵まれました。なずな君に会えたことです。君の雰囲気がとても好きです。落ち着きます。僕のわがままを言ってしまえば、君の人生を狂わせてしまうことになる。だから言いません。君に会えなければ良かったなんて思いませんし、思うときは一生来ないです。君は仕事の一環として僕に優しくしてくれただけかもしれませんが、」

「それは……ないです」

「……ありがとうございます。救われます。自分と向かい合えたのも、なずな君のおかげです」

 いつもと変わらないまったりした時間が流れていく。そう、変わらなすぎて、最後の別れとは思えないほどの。

 自分は一体何をしているんだ。気の利いたことも言えないし、行かないでなんてわがまますら呑み込む。

 僕は……どうしたい。

 答えはあるのに、心の蓋が自力で引き抜けない。茨に絡みついたまま、触れてしまえば血が吹き出しそうだ。

「なずな君? 眠いですか?」

「いえ、僕は……あ、はい……少し眠いです」

「ふふ、僕に気を使いましたね。ちょっと横になりましょうか」

 手を差し出されたので、そっと上から重ねた。熱が伝わるたびに涙の量が増えていく。どうして彼は、こんな悲しいことをするのだろう。

「なずな君」

「なんですか」

「幸せですか?」

「…………今は……そうですね」

「僕は、ずっとずっとなずな君の幸せを願っています。自分の幸せ以上に」

「なら僕は、あなたの幸せを自分以上に願っています」

「嬉しいなあ……」

「言えない願いって、なんですか?」

「言わないでおきます。叶うことは地球爆発よりも確率が低いです」

 諦めに近い笑みを漏らし、彼は僕を強く引き寄せた。

「眠くなってませんか? 瞼が重そうです」

「京介さんの声が眠気を誘います……」

「気にしないで眠って下さい。なずな君に会えただけで幸せですから」

 何が何でも寝させたいのか、京介さんは一定のリズムでとんとんと叩く。

 何が何でも寝るもんかと、僕は瞼との戦いだ。

 けれど勝負には勝てなかった。三大欲求に負けてしまった。

 瞼が閉じきる前に彼の匂いをめいっぱい吸い込み、せめて覚えておこうと最後の悪あがきをした。





「おはよう。起きられそう?」

 肩を揺さぶられ、僕は目を覚ました。

「え…………」

 店長が心配そうに覗き込んでいる。僕は飛び起き、隣を見るがもぬけの殻だった。

「お客さんなら帰ったよ。しばらく寝かせてあげてほしいって」

「……いつ?」

「三十分くらい前かな」

 勇気を出して会いにきてくれた彼に何もできなかった。

「帰れそう? 天気も悪いし、早めに外に出た方がいいよ。これからもっと悪くなるらしいし」

「雨降ってるんですか?」

「うん。しかも午後までに雷も鳴るってさ」

 京介さんは無事に海を渡れるのだろうか。飛行機が飛ばない可能性だってある。

「………………あ」

 僕の心に住む悪魔が囁いた。

 このまま飛行機なんて出なければいいと。

 けれど、もしかしたら願いが届いてしまっているかもしれはい。

 控え室に戻り、すぐにスマホの画面をつける。残念ながら誰からのメッセージも残されていなかった。

 代わりに空港のサイトを開き、現在のフライト状況を見る。喜ばしいことに、飛行機はまったく動いていない。

 挨拶もそこそこに急いで建物から飛び出し、僕はタクシーを拾った。

「羽田空港まで」

 走っていたときの方が、まだ気分が落ち着いていた。こうして黙って座っているだけでは、不安がよぎる。

 変わりゆく風景を見ても気分は紛れず、来るはずのないメールを確かめるために何度も携帯端末を見る。

──今日は何時に帰るの? 遅くない?

 母からのメールにほっこりした。

──ごめん、遅くなる。これから人と会ってくる。

──気をつけてね。ちゃんと連絡は怠らないようにね。

 いつまでも子供扱いに、苦笑いだ。

 空港に到着すると、思ったほど緊張はしていない。母のメールに感謝し、すぐさま出発ロビーへ急いだ。

 息を切らしても、ここで死んでしまっても、後悔がない道を選びたい。

 なぜ昨日のうちに伝えなかったのだろう。たった二文字を言うだけなのに。

 大きなスーツケースを横に置き、口を開けたまま上を見ている男性がいる。

 息を整えることも忘れ、彼にゆっくりと近寄った。

「……なずな君? どうして、なぜ……」

「行かないで下さい」

 隣に座り、京介さんの腕にしがみついた。

「あなたの優しさに甘えてしまい、自分の馬鹿さ加減に心底呆れてます。後悔したくないです。僕は……あなたに恋をしています」

「なずな君…………」

「好きなんです。行かないで下さい。お願いします」

 涙と鼻水で顔を濡らしながら、馬鹿みたいに懇願した。叶うことなどありえないのに。迷惑にしかならないと分かっていても、縋るしかなかった。

「なずな君……落ち着いて下さい」

「嫌です。飛行機に乗せたくありません。好きです」

「僕も好きですけど……とりあえず顔を拭かないと。ハンカチどこだったかな……」

「さっと出したらかっこよかったのに……。でもそんな京介さんが好きなんです」

「さっと出せない僕でも?」

「あなたじゃないと嫌なんです」

「でも君は、養子に行くって……。この前、ホテルの社長さんと車に乗ってませんでしたか?」

「見てたんですか?」

 顔を上げると、京介さんはしまったという顔で気まずそうに横を向いた。

「もしかして……追いかけてきてくれたんですか?」

「……………………はい」

 今度は京介さんが目を逸らす番だ。

 嬉しさのメーターが壊れてしまいそう。

 タイミング悪く今頃になってハンカチを差し出す京介さんも、僕には王子様に見える。

「僕は京介さんだけです。お願いします。行かないで下さい」

「僕の夢の中に、君がいてくれたらどんなにいいか願っていました。一緒に起きて、ご飯を作って食べて、ときどきお昼寝をしてごろごろする。当たり前にある幸せは、僕には手に入れることが難しい。こんなことは、一生言わないと思っていました」

「京介さん……、僕も決めた夢があります。それは考古学の学者になることです。そして北海道からの引き抜きを選択したい。でも今の僕じゃ、あなたと肩を並べることなんてたかがしれています。良い成績を収めて、必ず卒業したいんです。僕が北海道へ行くまで、待っていてもらえませんか? 最短で再来年に卒業なので、一年間は遠距離になりますが」

「君はどれだけ僕を幸せにさせたら気が済むんですか。一年でも十年でも待ち続けます。ですが、ごめんなさい。僕は行かなければなりません。行かない選択肢は取れません。今日は、運休確定みたいですけど……はは……。これからホテルでも取ります」

「僕もホテルに行ってもいいですか?」

「なずな君……」

 精一杯の僕の誘いに、彼は恥ずかしそうに微笑んだ。

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