第14話 自分が一番許せない

 腫らした顔のまま家に帰ると、出迎えた船木さんに甲高い声を上げられてしまった。

 タオルやら何やら世話を焼かれ、いくらか心を取り戻した。

 母も来ては、特に役に立ちそうもないのにただ僕の回りをうろうろと動き回っている。

 好きと認めてしまえば、失うものも大きかった。冷静な心が行方不明で、常に吊り橋を渡っている。落ちてしまえば楽だろうに、遠くを歩く諏訪さんにすがりたくてそれもできない。

「さっきね、お父さんとなずなの将来のこと話してたのよ。テレビで観て、お母さんは何にも知らなくて……」

「お父さんはなんて?」

「なずなの人生だから、なずなに任せるって……」

 流れる涙は引っ込んでいく。母も思うところがあるのか、いつもの明るい笑顔はなかった。

「司馬さんから連絡あったのよ。どこで情報が漏れたのか、必死に謝ってたわ。お詫びもしたいし、なずなと話したいって言ってるんだけど……」

 その噂の出所は司馬さんの可能性がある……とは、飲み込んだ。

 第一証拠はないし、母を惑わせるだけだ。

「なずなが決めていいのよ? 何か心配事でもあるの?」

「なんか……こんなに話したの久しぶりで、別の意味で泣きそうになる」

「ふふっ……成人迎えても、甘えん坊なのは変わらないわね」

「甘えん坊かな?」

「甘えん坊じゃないの」

「うん……それでいいや。司馬さんにも会って話すよ」

 甘えん坊ついでに、やっぱり僕は母が好きだ。

 頭を撫でられてこんなに喜ぶなんて、今度は泣きたくなるほど嬉しい。泣きたい。また泣いてしまおうか。

「僕が司馬さんのところに行くって言ったら、どうする? 止める?」

「うん、止めるわ。でも彼が好きで、どうしても行きたいって言うなら止めない。ええと……つまり、なずなが一番大切ってこと」

「……ありがと」

 泣いていいような気がした。


 僕はいろんな方面に決着をつけなければならない。

 本当に本当に、数週間これでもかというほど悩んだ。

 主に将来のことで、北海道へ行くかどうか、司馬さんのこと、……諏訪さんのこと。すべてに答えは出ていないけれど、僕は一歩前に踏み出したかった。

 研究室には生徒と佐藤教授だけで、諏訪准教授はいない。北海道へ行くため、いろいろ準備があるのだろう。

 新聞で知った僕の養子の件は、見たことあるホテルの前でインタビューを受ける司馬永十郎の姿があった。決して話は持ち上がってはいないという、曖昧に濁した肯定の言葉を吐いていて、僕は別の何かを吐きそうになった。

「諏訪准教授の話聞いた? 来月でさよならだってさ」

「うっそ……ほんとに?」

「北海道に引き抜きだって」

「戻って来なそう。ってかあと数日しかないじゃん」

 そう、あと数日しかない。なのにずっとずっと会えていない。メールを送る勇敢さもない。

 うだうだ悩んでいても仕方ないと、諏訪准教授の元へ行こうと覚悟を決めた。

 角を曲がろうとしたとき、女性の声が聞こえてきた。諏訪准教授、と呼ぶ甲高い声に顔を上げると、ちょうど女性二人に言い寄られている最中だった。

「諏訪准教授、よければ受け取って下さい」

「ああ……お菓子ですか? ありがとうございます」

 ビニール袋いっぱいのお菓子を渡され、諏訪准教授は嬉しそうに笑う。

「いなくなるのは寂しいです。また来ますよね?」

「そうですねえ……北海道の研究室は機材も揃っているし、元々僕がしたい研究は、あちらが進んでいます」

 間接的な言葉で、戻ってこないと話していた。僕が伝えられたわけじゃないのに、込み上げるものがあった。

 僕はどうしたい? どうするのが最善の選択で、心に正直に生きられるのか。

 あと数歩先で答えが出そうになったとき、諏訪准教授は僕に気づき、目を大きく広げた。

 声には出さないが、口が「なずな君」と形作る。僕と同じ顔をしている。泣きそうに歪んでいる。

 たった数秒の間でも、本当に本当に長く感じた。女子生徒が諏訪准教授と僕を交互に見て、不穏な空気を感読みとっている。

 弱虫な僕は逃げるしかなくて、何がしたいんだと心底呆れた。

 外に出ると、誰かが僕を呼び止めた。

 数メートル先には、司馬さんがいた。

「……なぜ、ここに」

「こんにちは。ちょっと時間もらえるかな? 今日はバイトでしょう? 残念ながら明日は仕事が早くて行けないから、どうしても会いたくてね」

 横をすり抜けられるのに、どこにも行かせまいと見えない檻の中に閉じ込められているようだ。

 足に鉛が入り、身体も動かない。すると、司馬さんから近寄ってきた。

 目の前に来ると、ほのかに男らしい香水の香りがした。

「さあ……行こうか。スイーツでも食べに行こう」

「…………はい」

 肩に置かれる手にぞくりと鳥肌が立ち、この手は違うと身体が悲鳴を上げた。もっと暖かで、遠慮がちで、優しい手がほしいと訴えている。

 助手席に乗りシートベルトを締めると、本格的に幽閉された気がした。

 大学を出てから十分ほどで目的地に着いた。

 空を突き抜けるほどの大きなホテルで、別世界に迷い込んだみたいだった。

 連れていかれるままエレベーターに乗り、雲に届くくらい上の階に到着する。

「予約した司馬です」

「ご案内致します」

「予約してたんですか?」

「まあね。君が来てくれなかったら、スイーツが無駄になるところだったよ」

 窓越しの世界は見晴らしがいい。邪魔も入らずしばらく眺めていると、三段の一番値段が高いアフタヌーンティーが置かれた。回りに座る人たちも、タワーに視線が釘付けだ。

「順番は関係なく、好きなものからどうぞ」

 司馬さんは優しい目で見ている。

 僕は少し悩んで、フルーツタルトを取った。司馬さんはサンドイッチを取り、紅茶をまず口にする。作法かと思い、よく分からないまま僕も先に紅茶を頂いた。

 瑞々しい大ぶりのフルーツが乗っていて、季節外れの苺は酸味がある。桃は甘みが強く、バランスが取れていた。

「美味しそうに食べるね。見ていて幸せになるよ」

「あの……どうしてここに?」

「一緒に来たかったんだ。それと、この前の話の続きを。考えてくれた?」

 司馬さんは、断られることが怖いと言っていた。けれど、断られる理由もないと自信が透けて見えた。だからこそ、決断を話すのは気が引けた。

 家のスポンサーの関係や、養子である立場を利用していて、これ以上のない出来すぎた有り難い話だ。

 口を開いては閉じ、なかなか口に出すことができずにいると、司馬さんから話題を振ってくれた。

「その様子だと、良い話にはなりそうにないね」

「……ごめんなさい。決して、あなたのことが嫌いなわけじゃないんです」

「いいや、覚悟はしていた。難しい話だろうし、君にだって自由はある」

 司馬さんはソファーに深く腰掛け、ネクタイを緩めた。

「好きな人がいる?」

「えっ」

「やっぱりそうか。同じ学校?」

「……一応」

「どんな人?」

「ほんわかしていて、ちょっとドジっ子さんです」

「なるほど。俺とはまるでタイプが違うか」

「そうですね……かなり正反対だと思います。司馬さんは司馬さんで、すごく魅力的な方ですけれど」

「お世辞でも嬉しいよ」

 具沢山のサンドイッチを食べ、チョコレートケーキに手を伸ばした。

 僕は見た目が華やかな、なんだかよく分からないスイーツを手に取った。

 それからは無言だった。時折「美味しいね」と言い合い、目が合うと微笑む。それの繰り返しだった。司馬さんもあまり話したくないようで、僕にしてみたら居心地の良い雰囲気だった。

 帰りはアルバイト先まで送ってくれた。

「じゃあ、バイト頑張ってね」

「……ありがとうございました」

 深々とお辞儀をすると、司馬さんはいつもより早く車を出す。

 いつもなら「またね」と言ってくれる人が、今日はそれがなかった。二度と会えなくても、一期一会だと割り切るしかない。

 店長はおかしな雰囲気を察してか、業務連絡だけを伝えるだけで世間話は何もない。今はすべてを閉じ込めて仕事に徹したいので、有り難かった。

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