第13話 誰しも心に悪魔がいる

 藤裔家が裕福に見えて、実はスポンサーによって成り立っている。

 父の足下に置かれた茶封筒の意味は、何らかの契約の証であり、僕は人柱のような存在。だからこそ、こんな大事な話をするときでさえ、血の繋がった母を外したのだろう。

 そして司馬さんは、僕と藤裔家の関係性を調べ尽くしているはずだ。多額のお金をちらつかせれば、父も味方になってくれると思っている。

「今すぐに返事は出さないで下さい。私も、心の準備ができていないのですよ。断られることを承知の上で、参りましたから」

「なずなも返答に困るでしょう。そうだろう、なずな?」

「はい…………」

「なずな君、君の好きそうなお菓子を買ってきたからぜひ食べてね」

 爽やかな笑顔の裏にある脅威に、立ち上がることもできず、見送りは父のみが行った。

 今の僕にはお菓子すら刃物に見える。不法の何か。ひと口でも食べるなと、心の声が囁いてくる。

「なずなが人助けをしているとは知らなかった。自慢の息子だ」

「……ありがとうございます」

 戻ってきて父は褒めるが、もう何を言われても嘘っぱちにしか聞こえなかった。

「なずなの人生だ。ゆっくり考えるといい」

「はい」

 そう、これは僕の人生だ。父のために、藤裔家のために何かしなくたっていい。唯一自由なのは、僕が家を継がなくていいということだ。才能がなくて心底良かった。チュパカブラを編み出した僕を心底褒めたい。

 リビングに戻って話せる力が残っていなかったので、部屋に戻った。

 スーツケースの中身もまだ片づけていない。それよりも眠かった。現実を忘れて寝てしまいたかったが、引き戻したのはスマホのメールだ。

 画面が明るく光り、名前が浮かぶ。

──お疲れ様でした。忘れられない北海道の旅になりました。なずな君の考古学に対する姿勢に、とても勉強させて頂きました。できることなら……と名残惜しく感じてしまいます。家族のことも、君がいたから大きな一歩を踏み出せました。僕が北海道へ行く件ですが、なずな君を惑わせてしまいましたね。まずはゆっくり休みましょう。

 淡い気持ちを胸に、強く唇を噛み締める。そうしないと、溢れる想いで溺れそうになってしまう。

 ふんわりした将来設計図が胸に宿るも、今は勇気が出ず行動にも移せない。

──京介さん、北海道へ行ってしまうんですか?

 返事を待たず、僕は眠りについてしまった。


 起きると次の日の朝で、父はもうすでに仕事へ向かっていなかった。

 顔を合わせづらかったので、これには助かった。

 足の調子も良かったので、僕は大学に行くことにした。

 研究室に行くと、同じゼミの子たちが驚いたように目を見開いている。

「藤裔さん……おはようございます」

「おはようございます」

 同じ年代であるのにもかかわらず、こうして距離を離されると心には曲がりくねった砂利道ができる。まっすぐにも歩けないし、足元も覚束ない。

 なんだろう。いつもよりも距離が遠ざかっている気がする。残念ながら、僕には聞く術がない。

「佐藤教授は?」

「諏訪准教授と、何か話してます。生徒だけで進めてくれって言われてます」

「分かりました」

 ちょうど入ってきたのは、諏訪准教授だ。佐藤教授はいない。

 背中がしょんぼりと小さくなり、いかにも落ち込んでいますと後ろ姿が語っている。あまり良い話ではなかったようだ。聞こうにも、他の生徒の目があるため、何も声をかけられなかった。

「諏訪准教授、何かあったんですか?」

 勇気のない僕の代わりに、他の生徒が口にする。

「僕だって落ち込みますよ……はあ」

 本当に元気がないようだ。

 諏訪准教授は僕に気づくと、何でいるのという動揺を見せるが、一瞬で消す。それよりも傷心が勝っているようだ。

「二重も三重も嫌なことが重なりました」

「うわ、気になるう」

「では特別に一つだけ。来る途中にコンビニでソフトクリームを購入したんですが、カップの蓋を開けたとたん、ざっくり半分逝ってしまいました」

「なになに? カップについちゃったの? あれってたまに起こりますよねえ」

「カップについただけならいいんですが、そのカップについたアイス部分が下に落っこちてしまいました。見ていた野良猫が集まってきてしまいましたし」

「あげたらいいじゃん」

「だっだめです! 猫に人間のおやつは与えられません!」

「そうなんですか? 知らなかった」

「あとは言えません。僕を研究に没頭させて下さい」

 かきむしった頭部は鳥の巣状態になっていた。優しく撫でたくても、生徒がいる以上どうしようもない。

 僕は僕で、研究に集中することにした。


 夕方になり、生徒もまばらになってくる。諏訪准教授となんとか話をしたくて残ろうとするも、他の生徒は佐藤教授と話が盛り上がっている。これでは当分帰りそうにない。

「それでは……僕はこれで」

 諏訪准教授は一瞬だけ僕を見やる。

「……ココアが飲みたい」

 僕にしか聞こえないくらいの小さな声で独り言を言うと、さっさと片づけて帰ってしまった。

「……ココア」

 優しくて甘くて、なんていい響き。諏訪准教授とも何度もココアを飲んだ。彼の好みに染まってしまったのか、僕ひとりでもココアを飲むようになった。

 発した一言がどうしても気になり、僕は帰るふりをして諏訪准教授の研究部屋まで行くと、廊下まで甘ったるい香りがした。

 ノックをしてみると、控えめな返事が聞こえる。

「僕です。藤裔なずなです」

「どうぞ」

 ドアの向こうは対して驚いた声でもなく、僕は遠慮がちにドアを開けた。

「あっ」

「来てくれると信じてました。もし来てくれなかったら……カロリーオーバーです」

 湯気の立つマグカップを二つ持ち、諏訪さんは片方を横に置いた。

「お話がしたいです」

「……僕も」

 何度もふたりきりになってきたはずなのに、今日は緊張しかない。

「メールありがとうございました。返せなくてすみません」

「いいえ……ちょっと悲しかったですけど」

「そうですか。でもね、なずな君。僕はもっともっと悲しかったですよ」

「アイスを落としたから?」

「違います。いえ、それもあります。どうして話してくれなかったんですか?」

「話す?」

「……養子に行くかもしれないって話です」

「えっ……どうしてそれを諏訪さんが?」

「やっぱり……本当だったんですね。藤裔家の長男が養子に行く話が浮上しているってネットニュースになっていました。デマの可能性が高いですが、でも火が出ているのは何かしら火種はあるかもしれないと」

「もう出てるんですか? でもそれは僕はOKしたわけじゃないです。確かにそんな話はされましたけど……。落ち込んでいる理由はそれですか?」

「それ、です」

「可愛い人ですね」

「なんで笑うんですか、もう」

 いつもよりココアが甘い。気のせいかと思ったが、諏訪さんが一口飲んで首を傾げたので、気のせいではないのだろう。

「動揺してたみたいです」

「やっぱり可愛い」

「三十歳を超えた人に可愛いって……そんなこと言うのは、なずな君だけです」

 相変わらず笑うと眉毛がハの字になる。

 恋愛初心者なのは、僕も諏訪さんも変わらない。

 恋愛の駆け引きもできないし、先へ進むには何をすべきかも分からない。

「まだ母とも話していないんです。朝は会わなかったし。今日、帰ったら話してみるつもりです」

 諏訪さんも会ったことがある人だとは言わなかった。余計な気を使わせたくなかった。

「諏訪さんは、北海道にいつ行くか……」

 最後まで言葉が出なかった。

 びくりと身体を震わせ、いかにも聞かないでほしいと言わんばかりで、僕は言葉を詰まらせた。

「なずな君」

 諏訪さんは僕の手を握ると、今度は身体が跳ねたのは僕だった。

「北海道へ、行くことになりました」

 諏訪さんは改めて事実を伝え、僕を突き放す。けれど離れてほしくないと、掴んだ手に力を込めた。

「いつからですか?」

「それは…………」

 諏訪さんの手が震え、僕にも振動が伝わってくる。

「来月からです」

「来月…………」

「あちらから連絡があったんです。できれば早めに来てほしいと」

 いくら何でも早すぎだ。想像していた以上だった。

「諏訪准教授は、答えを出したんですね」

「なずな君……僕は…………」

「あなたからはたくさんのことを学びました。たった数か月でも、勉強させて頂きました」

「なずな君、待って」

「ココア、美味しかったです。ありがとうございました」

 勇気のない、哀れで滑稽な自分に嫌気が差した。

 別れを告げられるのが嫌で、逃げた弱虫な僕。勇気を振り絞って伝えてくれた諏訪さんと僕は、相応しくない。

 大学を出ると、なぜちゃんと話をしなかったのだろうと罪悪感で満たされた。けれど戻る勇気すらなく、諏訪さんはこんな僕を呆れているに違いない。

 流れる涙をそのままに、ただひたすら無心で歩き続けた。

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