第12話 転落
「母ですが、一年は持たないとのことでした」
ココアを飲みながらさらりと告げられた真実に、味が行方不明になった。
「覚悟をして病室に入りましたが、緊張感がすぐに飛んでいきました。僕の知る母ではなかったです。他人の女性と対峙したときと、何ら変わらなかった。おまけに彼女は僕を覚えていませんでした」
「覚えていない……?」
「認知症が進んでいたんです。なので、あなたの息子の啓二の友人だと告げると、彼女はよく来てくれたと快く招いてくれました」
ごくりと喉の音がいやに響く。緊張のせいか、音が研ぎ澄まされているように感じた。
「彼女は和やかに今までの人生を面白おかしく話してくれました。が、そこに僕の記憶はすっぽりとなかった。認知症って、摩訶不思議な病気なんですね。僕は大事な人を忘れたくない。けれど、忘れてしまえばそう思っていたことすら思い出せなくなる。新鮮な気持ちで母に会いました。喧嘩もせず、穏やかな時間でした。最後にはまた来てねと、手を振ってお別れしました。または、僕の中ではないです」
「今はどうあれ、いつか会えて良かったと思える日が来ると思います」
「……優しいですね、あなたは。実は今はすっきりしているんです。血の繋がりは逃げられないけれど、一生会わないと考えたら、それはそれで耐えられなかった」
「お兄様に会えたのも、こういう巡り合わせってあるんでしょうね」
「なずな君に会えたのも、そういう道があったからだと思いたいです。僕は君に何度も救われています。なずな君と出会う前は、どうやって息をしていたのか思い出せません。君こそ……僕のヒーローです」
重ねる手に力が入った。
いろんな欲に耐えられなくなり、足でちょんちょん触れてみた。諏訪さんは気づき、僕の足に寄り添ってくれる。
「なずな君は寂しがり屋さんですね」
「そう見えます?」
「ええ。僕に触れていないと、袖を掴んできたり背中をつついてきてり。後ろを歩くアヒルの雛みたいです」
「がー」
「ああっ……かわ……」
ぐしゃぐしゃに頭を撫でられた。大きな手は、きっと父親がいたらこんな感じなのだろうと想像し、暖かなものがじんわりと浸透する。同時に、父親では満たされない甘さと切なさも溢れ出す。
「准教授と生徒の枠を飛び出してしまいそうになります。駄目なのに、手が勝手に伸びてしまいます」
「今、僕は准教授って呼んでませんよ? 京介さんは、生徒として見ながら僕に触っていたんですか?」
「し、仕事のことなんて今は頭にありませんよっ」
「やらしー人ですね」
「……はい、やらしくてすみません」
「僕とお揃いです……ふふ」
それでも立場というものが常に邪魔をして、どこまで歩み寄っていいのか。
そんな考えを吹き飛ばすかのように、諏訪さんはごめん、とかすれた声を乗せて息を吐くと、顔を近づける。
流れに身を任せて、僕も顔を上げた。
一秒もない時間だったが、全身から汗と熱が零れんばかりに溢れ、お互いに目を忙しなく動かす。視線が定まらない。
「やらしくてすみません」
「二度も謝らないで下さい」
視線を交わし、ようやく笑い合った。
本当は一秒以上経っていた可能性もある。もう帰りの時間だ。それだけ過ぎるのが早かった。
飛行機の中では、なんだか眠れなくてずっと目を瞑って起きてを繰り返していた。隣もあまり眠れていないのか、何度も寝返りを打っていた。
家まで送ると言う諏訪さんの優しさに甘え、いそいそと助手席に乗り込んだ。飛行機ではあれだけ眠れなかったのに、諏訪さんの車に乗った途端、眠気が増し、僕は重い瞼に勝てなかった。
「…………なずな君?」
「ん…………」
「起きて下さい。お家……というより、お屋敷ですね。着きましたよ」
頬をむにむにされ、目を覚ました。頭がすっきりしている。これで足の痛みがなければ最高の気分だった。
「あの方は、なずな君のお母さんですか?」
「…………うわあ、なんで。なんでいるの」
「? お家だからでしょう? 可愛い子を抱いていますが、噂の弟さんですか?」
「…………一応。半分弟です」
素直じゃない僕に気にする素振りは見せず、諏訪さんは運転席から降りた。
僕はなるべくゆっくりと荷物を下ろし、だらだらと時間稼ぎをする。
何を話しているのかは聞こえないが、諏訪さんが弟を抱いている。母が抱くよりかちんとこないが、別の苛立ちが沸いてどうしようもない。
「おかえりなさい。楽しかった?」
「仕事だよ。楽しいわけ……ないこともないけど」
僕の心に住む天の邪鬼が暴れ出したとき、悲しげな目で諏訪さんは僕を見る。血の繋がりなんてないのに、弟もおんなじ目をしていた。
四つの目に責められ、情けない回答しか出せなかった。
「可愛い子ですね。とても人懐っこい。なずな君、抱っこする?」
「え?」
弟は僕に手を伸ばしてきた。
純粋な目に引かれるがままに、僕も赤ん坊に手を伸ばす。
今まで意地を張っていたのが嘘のように、すんなりと抱き上げられた。
「…………あったかい」
弟は僕の頬を指で押す。何がおかしいのか、一人であーあー、と声を上げて笑っている。
「小さい頃のなずなそっくり」
「赤ちゃんなんてみんな似たり寄ったりでしょ」
「違うわ。この子もなずなも私が生んだ子だもの。分かるわよ。なずなも子供ができれば分かるわ」
母のおかげで僕の趣向がはっきり分かった瞬間でもあった。
凍りつく諏訪さんと、背景に花を咲かせる母、空気を読まない弟。そして僕は、諏訪さんがよりいっそう愛おしく感じた。
「孫なら弟に期待した方がいいよ」
「まあ、結婚したくないの?」
「夢に見たこともないから」
母は一度中に戻って、紙袋を持ってきた。
「息子がお世話になりました。美味しいバームクーヘンなのよ。よろしければ食べて」
「ありがとうございます。甘いものは大好きなんです」
諏訪さんは本当に嬉しそうに笑う。
「じゃあなずな君、またね」
「はい。お世話になりました」
准教授と生徒の距離感を保ちつつ、ばれていないかとひやひやするが、母は特に怪しんでいる様子もなかった。
見えなくなるまで車で見送り、さっさと自室に戻った。情報量が多すぎて、頭がパニックを起こしている。
こんなに簡単に弟を抱けるとは。あれだけ拒否していたのが嘘みたいだった。諏訪さんは魔法使いに違いない。かかった魔法はいまだに解けず、頭の大半を彼で占めてしまっている。
スーツケースに入れっぱなしのお土産品は、空港で買ったものだ。よくある有名なホワイトチョコレートのお菓子。絶対美味しい保証がある。
今ならみんなで食べようと、渡せそうな気がする。どの家庭でも当たり前にあるような行為も、僕には少し難しい。
落ち着いたところで土産を持ってリビングに行くと、キッチンでは母がコーヒーを入れていた。
最後の勇気がどうしても沸かなくて、テーブルにそっと置く。
「お土産買ってきてくれたの?」
「うん……」
「ありがとう。これ好きなのよ。嬉しいわ。コーヒー入れるから座ってて」
「お父さんは?」
「今からお客さんがいらっしゃっているのよ。お世話になっていた方らしくて、ホテル経営の社長さんだって言ってたわ」
「へえ……そうなんだ」
母と話すのも久しぶりに感じて、親子なのに緊張する。
前は弟の存在が不快で仕方がなかったが、前より嫌でなくなっている。
母と両隣に座ると落ち着かない。
「なずなのことも知っているお客さんらしいの。司馬さんって方だけど、知ってる?」
「司馬…………?」
まさか。
そんなはずはないと脳が拒否をするが、僕の願望でしかない。
ホテル経営とまで言われてしまえば、アルバイトの顧客である司馬さんの可能性しか考えられなかった。
動揺を隠したくてコーヒーを飲んだりミルクを入れたりしてごまかすが、余計に怪しい動きにしか見えない。
「なずな」
父が廊下から顔を出す。僕は立ち上がり、頭を下げた。
「先ほど戻りました」
「大事ないか?」
「はい」
「なずなに会いたいと言うお客さんが来ている。この前も来てくれたんだが、北海道に行っていて会えずじまいだったからな」
「……………………」
「どうした?」
「いえ……行きます」
断れたらどんなにいいか。行くしかない。あの司馬さんではないと祈ることしかできない。
残念ながら、願いは神に届かなかった。
仕立ての良いスーツに身を包んで、片手を上げて白い歯を見せられては、他人ですとは言いづらい。
「やあ、久しぶりだね」
「……こんにちは」
余計なことは言わないでおきたい。そもそも、僕は今しているアルバイトを家族には話していないのだ。司馬さんが父にどこまで話しているのか気になるし、出方を伺うに限る。
「こちらは司馬永十郎さんだ。なずなと顔見知りらしいな」
「え、ええ……まあ」
司馬さんを見ると、ふと彼は笑った。
「この前はありがとうございました。具合が悪いところを道端で助けて頂いて、大変感謝しております」
「え? そ、そうでしたね……」
とんでもない大事になっている。そんな事実はない。
重そうな紙袋を見るに、演じるための土産を持ってきたのだろう。
「あの、どうして僕の家を……」
「入って行くところが見えたので」
司馬さんの目が細められる。
ぞくりとしたものが背中を這い、僕は固まり動けなくなってしまった。
司馬さんは嘘をついている。
徹底的に調べ上げた。最近の話でもなく、それもずっと前から。
そう思わせるほど周到すぎる。僕が帰ってきたタイミングも、父のいる日を狙った理由も。
「それで、なずなに何のご用で?」
「なずなさんを、うちの養子に頂けないかと」
驚いたのは僕だけじゃなく、父も固まっている。
一筋縄ではいくタイプではないと思っていたが、想像の斜め上を突き抜けていく人格だった。そんなこと、父が許すはずがない。と信じていた。信じたかった。
「なずなを?」
「突然、不躾な申し出をお許し下さい。私は幼い頃から父も母も家におらず、面倒みてくれる人はいてもいつも心は離れ、寂しく過ごしておりました。社会人になり、忘れていた気持ちを満たしたいと思ったのです。それは人を恋しいと思う心です。彼のおかげで、身体だけではなく心も救われました。彼のような人格者が経営者としてほしいのももちろんですが、私の側で寄り添ってほしいと、本日は参りました」
「なずな、どう思う?」
僕に質問を向けつつ、父の本性を知った気がした。
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