第10話 不幸中の幸いと偶然

 レントゲンも撮ってもらった結果、骨に異常はなかった。あんな高いところから落ちて捻挫で済んだのだから、不幸中の幸いだ。

「良かった……本当に良かった」

「ありがとうございます。諏訪さんが早めに対応して下さったので、ひどくならずに済みました」

「でも少し熱が出てきていますね。今日はこのまま帰って早めに休みましょう。何か飲みますか?」

「シェイクが飲みたいです」

「スポーツドリンクですね。ちょっと待ってて下さい」

 にっこり笑う諏訪さん。強い。でも確かに身体が熱い。彼の言う通り、スポーツドリンクが今はいい気がした。

 名前を呼ばれて薬の説明と支払いを済ませても、諏訪さんはまだ帰ってこなかった。

「あの……」

 厳めしい目つきの男性が遠慮がちに話しかけてきた。

 背は高く、諏訪さんと似た背格好の人だ。

「はい」

「そのカード……」

 保険証を差しているのかと思いきや、埴輪の絵が描いているカードだ。

「こちらですか?」

 お守り代わりにと、諏訪さんからもらったものだ。彼はくれると言ったが、そのうち返す予定ではいる。想い出のつまったものは、そう簡単に受け取れない。

「それ……あなたのですか?」

 どういう意図の質問だろう。僕のと言えば僕のものだし、違うと言ってもそれは正しい。

「知り合いから……借りました」

 曖昧に濁すことにした。

「そのカードの持ち主って……」

 遠くから諏訪さんがやってくる。手にはビニール袋とシェイクを抱えていた。やけに遅いと思ったら、わざわざファーストフード店まで走って買いにいったらしい。

 僕にシェイクを渡しつつ、隣に立つ男性に視線を送る。

 危うく落としかけたシェイクを両手で掴み、諏訪さんを見上げると固まっている。

 どうしたんだと反対側の男性を見ても、諏訪さんと同じ反応をしていた。

「京介……」

 確かに、男性は「京介」と諏訪さんの名前を呟いた。知り合いか、または……。

「兄さん……」

「お前、なんでここに」

「ちょっと、いろいろあって」

「なんでいるんだよ」

「大丈夫。すぐに帰りますから」

 僕に話すような優しい言い方ではない。敬語を使った、感情のないロボットのように言うと、僕の手を取って腰に手を伸ばしてきた。

「この子は、」

「教え子です」

「教師か何かやってんのか?」

「……ええ、まあ」

 家に勘当されたのも帰ってないのも、嘘じゃなかった。職業すら話していない。寂しくて、優しい人。

「では。僕はこれで」

 諏訪さんは何事もなかったかのように歩き出した。痛み止めのおかげか、だいぶ引いていて歩く分には支障はない。それよりも、心に支障はありすぎる。

「待てよ」

 兄さんと呼ばれた男性は、諏訪さんではなく僕の肩を掴む。たった数分で、諏訪さんの弱点を掴んだようだった。

 掴まれたからじゃない。身勝手な行いと平然と第三者を巻き込もうとする性格が、とても怖い。

「母さんが入院してる」

 彼の発する一言は、諏訪さんを動揺させるに充分だった。

「具合が良くないんだ。ときどき、お前の名前を呼ぶ」

「僕は…………、」

「自分勝手なのは分かってる。会いに来てくれないか」

 鬼になれないところが諏訪さんの優しさだ。それとは逆に、即頷かないのは彼の葛藤も垣間見える。今までどれだけ苦労し、悩み、考古学に没頭してきたのか。

「今は、この子の怪我で病院に来ています。まずは連れて帰るのが先です」

 その通りだと思ったのだろう。諏訪さんの兄は唇を噛み締めるだけて何も言わなかった。

「後で連絡をくれ」

 名刺を諏訪さんに渡し、彼はロビーから立ち去った。

 ふたり呆然としすぎて、しばらくは身動きが取れなかった。

 彼にとって人生の岐路と言っても過言ではないような分かれ道は、突然訪れた。

「諏訪さん……お薬もらいに行きませんか?」

 は、と目に意識が戻り、僕の腰を抱える手に力がこもった。

「すみません……ええと、なんて言ったらいいか」

「家に戻ってからゆっくり考えましょう。それとシェイクありがとうございます」

「どういたしまして」

 諏訪さんが買ってきてくれたシェイクはストロベリー味だった。普通、シェイクといえば大体はバニラシェイクを購入するものだが、僕はストロベリー味が良かったので、こんなときでも好みが一致したと嬉しくなる。

 車に乗って一口どうぞと告げると、諏訪さんは戸惑いながらストローをくわえた。

「それ、三口分です」

「…………うん?」

「食べ物の怨みは怖いですよ。怨念がどこまでも付きまといます」

 顔が強張っていた諏訪さんが、ようやく笑ってくれた。こうなると、ちょっとした悪戯心も芽生えてくる。

「京介さん」

「ちょっと、止め……いや止めないで下さい。ハンドルを引っこ抜くところだったじゃないですかっ」

「どっちですか」

「借り物の車ですよっ」

「京介さん」

 彼だって僕の名前を呼んでくれる。それは僕自身が名字を好ましいものと思っていないから、気を利かせてくれているのが大きいが、それでも嬉しかった。

 手を借りてホテルに戻ってきたとき、疲れが一気に押し寄せてきてベッドに倒れた。諏訪さんも隣に寝転ぶ。

「うどんにしましょうか。海鮮の出汁にして」

「絶対美味しいです。卵も入れたいです」

「いいですね。黄身を絡めて食べましょう」

 とは言っても、諏訪さんも僕も動かない。たまにはごろごろしたくなるときもある。

「家にいるとこうはならないので、こういう狭い空間は落ち着きます」

「自室はないんですか?」

「ありますけど……いつも廊下は誰かが通ってて、落ち着かないんです。お客さんは多いし」

「藤裔の当主の方が、何かまた賞を取ったみたいですね」

「そうなんですか? 諏訪さんの方が僕の家庭を知っているって、なんだか変な感じです」

「たくさんテレビに映ってますからね」

 自分の家のことなのでちょっとは興味を持つべきだろうが、何分才能がないと相手柄から意思表示があったとき、藤裔に興味が沸かなくなった。拒否をされれば、された側も同じ気持ちを持つ。

「もうちょっと君とだらだらしたいところですが、お腹が空きました。作りますね。デザートに林檎を剥きましょう」

「家族って、いいものですね」

 唐突の質問に、諏訪さんは面食らった顔をする。

「そうですね……普通というものは個々に持っていますが、なずな君と過ごす今が普通だとしたら、贅沢過ぎてこれ以上望むものはないです」

「………………僕も」

 嘘でも合わせてくれて、とてもうれしい。

 ふたりでご飯を作ったり、笑ったりごろごろしたり。

 彼は、僕の気持ちに寄り添ってくれる。傷つけないように、優しく見守ってくれる。

 いずれさようならをするときが来たら、笑ってお別れの言葉を口にできるだろうか。


 手探りで人肌を手繰り寄せようとしたが、どこを触っても冷たい感触しか残らなかったので、諦めて手を引っ込めた。

 隣に寝ていたはずの諏訪さんがいない。トイレでも風呂でもない。

 重たい瞼をこじ開けながら、ベッドから降りた。

 諏訪さんがいた。僕を背にして、誰かと電話している。そっと近づくと、敬語とざっくばらんな言葉遣いを織り交ぜながら……予想はつく。

「ええ……ええ、聞いています。明後日には……うん。それでも、僕は、戻れません」

 噛み締めるように、一語一語丁寧に話す諏訪さんは、声を荒げたり苛立ちも見せず、淡々と伝えていく。ある意味、怒るよりも心に刺さる話し方。僕はとても好きだ。

 諏訪さんは背後に気づき、あたふたと目線が泳ぐ。

 僕はトースターを指差し、彼に合図を送る。今日の朝食は僕が目玉焼きパンを作ろう。

 食パンの回りをチーズで囲い、卵を落とす。さらに上からチーズをかける。このまま焼けば完成だ。

 ミルクを温めていると、チーズの焼けた良い香りが漂ってくる。電話を終えた諏訪さんがトースターを開け、皿に乗せた。

「焼きすぎるところでした」

「タイミングばっちりですね」

 温かなミルクと一緒に食事をし、食後はデザートにヨーグルトを食べた。

「聞きたいことがあるだろうに、そっと寄り添って下さって、ありがとうございます。今の電話は兄からです。実は昨日メールを送り、僕の電話番号も伝えました。母の状況が思わしくないみたいで、深刻でした」

「諏訪さん……」

「……少しだけ、顔を出して来ようと思います」

「諏訪さんが決めたことです。良い決断をしたと思います」

 諏訪さんは笑い、僕の手にそっと重ねる。

「京介って、呼んでほしいです」

「京介さん、不安ですか? 不安ですよね」

「ええ……あまり良い結果は期待していませんが。京介さんと呼ばれるたび、目を背けてきたものと向かい合える気がします。なずな君の癒やし効果も含めて」

「死んだ魚でもアロマ系の効果は出せるんですね」

「ふふ、昼寝の猫は癒やされます」

 別れ道を引き返す方法もある、と伝えたかったが、今の諏訪さんには余計なお世話のようだ。

 それは僕自身に言い聞かせたかったことなのかもしれない。誰かに回れ道をしてもいいとと言われたい。けれどそれも敵わない。僕も立ち向かわなければならない。家の問題に。

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