第9話 新婚ごっこスタート
バターで鮭に火を通すと、とても良い香りが漂ってきた。スープはインスタント。ご飯は北海道産のお米。バターの香りは心を揺さぶる。
「お風呂上がりました。すごく良い香りですね。一人暮らしの僕の家では、絶対に匂わない香りです」
「僕の家もですよ。バターを使う料理はほぼ出てきません。どこにでもあるインスタントスープなのに、北海道で買ったってだけで特別な感じが出ます」
「北海道限定で蟹エキスが入っているので、特別ですよ」
「……ほんとだ」
パッケージには限定と書いてある。たくさんある中でこれを選んだ諏訪さんの手腕が光る。
「今まで食べた中で一番美味しいです」
「そんな大げさな」
「本当です。人から作ってもらうってだけでも幸せなのに、なずな君に作ってもらえるって、僕どうしていいのか」
普段の僕なのか店の僕なのか、どちらを見ているか聞きたかったが、諏訪さんが美味しい美味しいと連呼するので聞きそびれてしまった。
「少しだけ空き時間があります。本当にご家族に会いに行かなくていいんですか?」
気になっていた疑問を口にすると、諏訪さんの箸が止まる。
「北海道はなかなか来られません。余計なお世話だと思いますが……」
「余計なお世話とは、思いません。恥ずかしい話ですが、まったく気にかけてくれる人がいないと、孤独を感じるものですよ」
諏訪さんの眉はハの字になり、うっすら笑う。
「同じ網走市内ですし、偶然でも会えたら運命だと思うことにします」
「神様に任せるってやつですか」
「家族に見捨てられた僕を、神様が拾ってくれるか分かりませんけど」
「諏訪さんの良さは、僕が分かっていればいいです」
止まったままの手にそっと重ねると、諏訪さんは目を見開いて固まっている。
「新婚ごっこですから。手くらい繋ぎたいです」
諏訪さんは手のひらを上に向け、そっと握り返してきた。冷たい手がじんわり熱が広がり、顔まで届いてしまう。
「なずな君と僕が、同じ気持ちならいいのになあ……」
そういう意味でとってもいいのだろうか。
「同じだと思いますよ」
曖昧に返すと、諏訪さんの目が光った。
見ていられなくて、僕は目を逸らす。けれど手は触れていたくて、重ねたまましばらくそのままにしておいた。
就寝時間になると、諏訪さんは目をさまよわせながら手を差し出してきた。
僕はそっと重ね、ふたりでベッドの中に入る。軋む音が緊張を増幅させ、鼻で息をするには少し物足りない。
「昨日起きたら、君は丸くなって寝ていましたね。昼寝の猫だと言ったのはあながち嘘じゃなかったみたいです」
ちょん、と鼻に指を当ててきたので、軽く噛んでやった。痛い、と小さな悲鳴が上がり、お互いに顔を見合わせて小さく微笑む。
「明日、楽しみですね」
「発掘ですか? 僕も好きですが、三十歳の身体で体力がついていけるか……」
「まだ若いのに」
「そういうなずな君は、体力的にどうですか?」
「休みの日は、読書か寝てるかです」
「二つ同時にできますし、効率がいいですね」
諏訪さんは笑い、左手がさまよい始めたので僕の背中に回した。
少しだけ距離をつめてみると、彼から緊張の息が漏れる。
「なずな君は、眠くなるオーラをまいているんですか?」
「眠そうですね。寝て下さい。明日は午前中から動きますし、夜には疲れてぼろぼろになって帰ってきますよ」
僕も諏訪さんの背中に手を回してぽんぽんすると、最初は眠れないなどぼやいていたが、次第に寝息を立て始めた。
少しだけ、悪戯心が芽生えてしまった。顔を近づけても起きる気配はない。柔らかそうな頬に軽く音を立ててみても、寝息は乱れず一定の音を鳴らしている。
「……ごめんなさい」
キスしてごめんなさい。
勝手に襲ってごめんなさい。
……好きになってごめんなさい。
翌朝はうんと晴れた天気だった。諏訪さんお手製の目玉焼きパンで腹ごしらえをし、一度研究室へ向かってから大学から借りた車で発掘現場へ向かった。
「じっと見られると、緊張してハンドルががたつきます……」
「横で人に運転してもらうことって、なかなかないんです」
父の車に乗ったこともない。乳飲み子を抱えた母にも期待できない。
ふと、もしかしたら僕は彼に父のような役割を求めているのではないかと考える。
さらにじっと眺めると、諏訪さんも僕を見てきた。父に対してならば、こんな気持ちにならないだろう。胸が締めつけられるような、がつんと欲に直結する気持ち。生半可な想いで名前をつけては駄目だ。彼とはあまりに立場が違いすぎる。
途中から道が悪くなってきた。諏訪さんは何度も僕の様子を見てスピードを落とし、着いたのは午後を回ったときだ。
車の中で今朝作ってきたおにぎりを食べ、いよいよ発掘作業開始だ。先に来ていた教授と挨拶をし、スコップを片手に現場に入る。
掘り起こした跡が所々にある。ロープで囲ってあるわけでもなく、気をつけなければ落ちてしまう。足場も悪い。
よたよたと歩きながら、指定された場所へ移動する。諏訪さんは准教授の顔で、遺跡の設計図とにらめっこをしている。
「なずな君、穴に気をつけて下さい」
認めてしまえば楽で、苦しさはなくなるが別の苦しさに包まれる。名前をつけられない気持ちは、どう足掻いても『恋』だ。
「もし穴に落ちたらどうしますか?」
「そのときは、僕も一緒に入りましょう」
「……あなたまで入ったら出られないじゃないですか」
「大丈夫です。スマホがあります」
果たして地下から電話はできるか疑問でも、有頂天になるくらいは足下が軽くなった。こういうときが一番危ない。
「設計図から見るに、この辺から巻物を発掘したみたいです」
「土の色が変わっています。僕はもう少し違うところを掘ってみたいです。洪水や地震などで地面の断層が変わってますので、ここから出ない気がします」
「では二手に別れましょうか。僕はもう少し穴を広げてみます」
「では、僕は少し向こうを」
掘り進めてから二十分近く経った。体感だと一時間は経過したように思う。それくらいに足腰に疲労が溜まっていた。諏訪准教授の息も上がっている。
休憩を申し出ようと口を開きかけたとき、雨でぬかるんだ地面を踏んでしまい、声なき声をを上げて身体がおかしな方向へ曲がっていく。
気づいたときには太陽が遠くにあって、背中の感覚がない。鈍痛が全身に広がっていき、低いうなり声を上げてなんとか起き上がろうとするが、左足首がおかしな方向に曲がっていて現実逃避した。
「なずな君!」
「来ないで下さい!」
入ろうとしていた諏訪准教授はぴたりと止まり、唇を噛みしめる。
「大丈夫かあ?」
教授が気の抜ける声で上から覗き込む。諏訪准教授とは対照的で、場にそぐわないのにおかしくなって笑いが込み上げる。
「すみません、立てません。教授、はしごが何かお持ちですか? 僕たち持ってこなかったんです」
「ちょっと待っててくれ」
太陽の代わりに諏訪准教授がぼんやりと目に入る。目を開けているのも疲れたので、僕はそっと目を閉じた。
鈍い音と共にばちっと重い瞼を開けると、隣で痛がっている諏訪准教授の姿があった。
「な、なにやってるんですかっ」
「痛いです……でもなずな君の痛さに比べたらこれくらい」
「バカなことはしないで下さい」
「足はどうですか? 頭は?」
「頭は打ってないです。足首の感覚があまりないです」
諏訪准教授は一緒に落とした木板を僕の左足に寄せ、ビニールロープで巻き始めた。
「背中に乗れます?」
「僕をおぶって出るつもりですか? そんな無謀な」
「力がないと思ってます? ふふ、その通り。でもなずな君は落としません。自信があります」
根拠のない背中はなぜか逞しく見えた。
膝でなんとか立つと、彼の背中に手を回す。思っていたより広い背中だ。それに腕に力が入る。
諏訪准教授は立ち上がると、軽いと漏らした。
教授から下ろしてもらったはしごを掴み、できるだけ斜めに置くと、諏訪准教授は一歩一歩足を踏みしめる。軋む音が落ちたときよりも怖かった。
「目を瞑ってて下さい」
彼の優しさに甘えて、今度こそ強く目を瞑る。そうすると、彼の香りが一番感じられ、安心できた。
太陽の光が瞼を強く刺激し、諏訪准教授は大きく息を吐く。
「なずな君、このまま車に乗ります。病院に行きましょう」
有無を言わせない強い言葉に、僕は頷いた。
「すみません教授、彼を連れていきます」
「ああ、頼む。骨に異常がないといいんだが……」
ふたりで車に乗ると、諏訪准教授は諏訪さんの顔になる。僕はどちらの顔も好きだ。
顔に泥がついていたのか、諏訪さんは僕の顔をハンカチで拭う。
「気持ちいい……」
「少し熱があるかもしれませんね」
「そうやって……触られるの、気持ちいい……」
諏訪さんは喉を鳴らす。熱い吐息を漏らし、唇の横を優しく撫でた。
「昨日……」
「昨日?」
「……いえ、なんでもないです。道が悪いので、ゆっくり急いで病院に向かいます」
道は分かるのか、と言おうとしたが、網走市は彼の故郷だ。余計なことは言わず、おとなしく寝ているのがいい。
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