第8話 北海道

 暑くもなく寒くもなく、表現の難しい気温で過ごしやすい。

 関東から数時間で到着した初めての地に足を踏んだが、まだ北海道だと実感がなかった。

「ここ北海道ですよね? うーん……そんな感じがしない」

 隣にいる諏訪さんも同じ気持ちらしい。飛行機に乗っている間はずっと寝ていたためか、後頭部に寝癖がついている。

 彼の頭を押さえて直してみるが、僕の力より寝癖のパワーが勝っている。とても頑固。

「うわあ……目が覚めました」

「覚めましたか?」

「夢から覚めましたけど、こんな夢をずっと見ていたいとも思います……いけませんね。准教授としてしっかりしないと」

「しっかりするのは研究中や講義中だけでいいと思いますよ」

 ここからはバスで移動する。宿泊する施設へチェックインするにはまだ早く、先に大学へ行くことになった。

 大学の研究施設は、僕が普段いる施設よりも圧倒的に広い。しかも綺麗だ。うちの研究施設は汚いわけではないが、年季の入ったものを使っているといえば、聞こえはいい。考古学について日本一、研究が進んでいる場所だけあり、最新の機具も使用している。

 教授に挨拶をすると、君が藤裔君か、と力強い握手とハグをされ、気持ちがついていかない。

「だっだめです! なずな君が潰れてしまいます!」

 諏訪さんが阻止してくれ、なんとかクマさんから逃れることができた。今日からお世話になる有沢教授は身体も声も豪快に大きい。本当に潰されるところだった。

 ひと通り場所を案内してもらい、仕事は明日からとなった。

 宿泊するホテルは大学から十分ほどで行き来ができ、利便性も悪くない。

 ロビーに入ると、ビジネスホテルだからか家族よりはひとりで来たサラリーマンが多い。片手に地図を持つ人は、おそらく一人旅の人だ。

「なずな君、大変です。事件です」

「どうしました?」

 鍵を受け取った諏訪さんは、エレベーターに乗ると慌てふためき始めた。

「ベッドが一つしかないらしいんです」

「それが事件ですか? 一緒に寝ればいいかと」

「いっ……そ、そうですよね。男同士ですもんね」

「ちょっと……そんな顔しないで下さい。こっちまで恥ずかしくなるじゃないですか」

 必要最低限の部屋には、大人ふたりでも余裕で寝られるベッド、鏡台、なんとキッチンまである。覗くと顔が反射し、ぬっと横から諏訪さんも覗き込む。

「諏訪さんの料理の腕まではいかほどですか?」

「そこそこです。朝食は食パンに目玉焼きとチーズを乗せて食べるのにはまっています。なずな君は?」

「僕は作らなくても毎食出てきます」

「羨ましい」

「……自虐ネタなので笑ってほしかったんですが。藤裔家に入る前は、僕がご飯を作っていました。なのでそれなりです。作りましょうか?」

「ぜひ交互に作りましょう! 気合いが入ります」

「目玉焼きパン期待していますね」

 今日の夕食は、コンビニで購入したお弁当だ。本当はキッチン付きではなく、朝夕食事付きのホテルを取るつもりだったが、残念ながら予約できずにこのような部屋になったらしい。けれど食費はすべて大学持ちだ。

 僕は麻婆丼、諏訪さんはハンバーグ弁当を食べ、明日の打ち合わせを行う。

 明日は僕が生徒の前で講義を行わなければならない。巻物の一部を発見したときの状況の説明、発掘作業のときに気をつけていること、北海道の研究室と違いはあるかなど、話すことはよく山積みだ。

 諏訪さんが目を擦り始めたので、先にシャワーをすすめた。その間に僕は明日の資料をパソコンでまとめておく。

 キーボードの音で眠気と戦っていると、ドアの音で目が覚めた。

「お先に失礼しました……変ですか?」

「……誰だか分かりません」

「髪を乾かしたら、あとでちゃんと眼鏡をかけます」

 眼鏡を外し、濡れた髪をかきあげる姿に僕は視線を逸らした。見ていられない。

 熱を抑えようと、僕もシャワー室に入る。熱めのお湯を上からかけると、少し気持ちが落ち着いた。

 バスローブを着て部屋に戻ると、パソコンから顔を上げた諏訪さんと目が合う。諏訪さんは固まる。持参したココアの湯気の方が動いている。

「すみません……ナズナ君を思い出してしまいました」

 裾を持ち上げて昔のお嬢様風に首を傾げてみると、鼻血が出るので止めてほしいと切実に言われてしまった。

「一緒に寝るんですよ? 本当に心臓に悪いです……」

「そっちが先に誘惑するからでしょう?」

「誘惑? 僕がですか? ええ?」

 分かっていないところになんだか腹が立ったので、何も答えずにさっさと眠ることにした。

 僕が答えないでいると、やがて電気は消え、隣に潜り込んでくる。

 背中越しには何も温もりは感じず、気になってなかなか寝つけなかった。


 教壇に乗ると、何十人もの視線が一斉にこちらに向く。ここで平然と授業を行える教授や准教授が何倍もたくましく思えた。

「藤裔なずなと申します。本日は、よろしくお願いします」

 一瞬ざわついたが、気にしたら負けだ。藤裔の名字は有名すぎる。緊張を解くため、僕はチュパカブラを思い浮かべた。

「ここに立ち、巻物の一部を発見したときの状況を話してほしいと言われました。が、もったいぶって話すようなことは特にないのです。たまたま発見しただけなんです。しいて言うなら、数撃てば当たる、ですね」

 笑いが起こった。いい傾向だ。笑いは人の緊張を和らげる。なぜか横にいる諏訪准教授が一番笑っている。

「休まず真面目に講義を受け、発掘調査に参加した結果、今に繋がっています。僕の発見した巻物は一部でしたが、ほぼありのままの形で北海道ですでに見つかっていたと聞いて、大変興味深く思っておりました。巻物に描かれていた土器や埴輪は今までに見たことがないような形状であり、そして使われていたインクも未発見のもの。もし本物だとすれば世紀の大発見になると確信しています」

 笑っていた諏訪准教授は、今度は涙を流している。この人の心の線は、曲がったり切れたりしていないだろうか。壊れていないか心配だ。

 僕の講義が終わり、一時間の昼休憩の後、いよいよ巻物とご対面だ。その前に、諏訪准教授と一緒に食堂へやってきた。

 僕はビーフシチュー、彼は天ぷらそばを注文する。

「好きな洋食を好きなだけ食べられる世界って良いですね」

「今日の夕食は何にしますか?」

「あっ作らないといけませんでしたね。スーパーに寄って、安売りしてたら魚を買ってムニエルにしたいです」

「仕事とはいっても、せっかく来たんだから一度くらいは海鮮ものが食べたいですよねえ」

「……新婚みたいですね」

「………………ですね」

 まさかそんな受け答えをするとは思ってもみなかったので、ビーフシチューの味が分からなくなる。

「新婚ごっこしてみませんか?」

 ちょっとどきどきしながら聞いてみる。

「僕……新婚どころか生まれて三十年、好きな人とお付き合いもしたことがないんですけど……夢のまた夢です」

「僕だってそうですよ。大学にいる間は仕事一筋。終わって外に出たら新婚ごっこ。楽しそうじゃありません?」

「…………すごくいい。したいです」

 少しくらい夢を見たって罰は当たらないはず。大学の准教授ってところがどきどきポイントだけれど、抑えがきかなくなってきている。言い訳がましく、違うと否定したいところでも、少しずつ惹かれ始めている。どこがいい、と聞かれてもうまく答えられないが、とにかくいい。大学の関係上、ダメだと思うと余計にくっつきたくなる。

 でも今なら、まだ元来た道を引き返せる気がする。

「新婚ごっこをしてくれるときは、なずな君ですか? それともナズナ君ですか?」

「……アルバイトの僕じゃないです」

「君は優しいですね」

 諏訪さんは僕の手を一瞬だけ握り、すぐに離した。後ろで女子生徒の笑い声が聞こえたからだ。

「ありがとう。なずな君。北海道に来て気が滅入っている僕の心配をしてくれているんですね。僕は大人ですから、ちょっとは打たれ強いですよ。あっでも新婚ごっこはしてみたいです」

 違う、そうじゃないのにと声を大にして言いたかったが、結局新婚ごっこはしたがっているので納得することにした。

 研究室では、新婚ごっこどころじゃなくなるほどの案件を聞かされた。

 僕の発見した巻物の一部に使われていたインクは、おそらく植物からエキスを抽出したものだろうと説明を受けた。しかもその植物はまだ不明で、大発見の可能性があると連呼され、いたたまれない気持ちになった。無心で掘り当てたものが、まさかこんな大事になるとは。

 教授や生徒が興奮する中、諏訪准教授だけは顎に手を当て、何度も顕微鏡を覗いていた。

「ここまで大きな話になるとは思いませんでした。講義で話して、発掘調査に加わるだけだと聞いていたので」

「僕もですよ。なずな君のおかげで貴重な体験をさせてもらっています。明日から体力勝負ですので、今日は美味しいものを食べましょうね。ところで、新婚ごっこはいつから開始ですか?」

 落ち着かなく目線を泳がせ、期待のこもった声だ。おかしくて笑ってしまう。

「今からって言いたいですけど、それだと生徒にも見られてしまいます。網走みたいなところだと、都会と違ってすぐに噂になりますから」

 スーパーでも生徒らしき人がちらほらいる。成人男性ふたりもここでは珍しいし、自重すべきだ。

 カゴに魚や野菜、ご飯は出来合いのものを入れる。炊飯器はないので炊くことができない。

 明日の朝食に目玉焼きパンを作ってくれるらしく、諏訪さんは卵と食パン、チーズもカゴに入れていく。

「サンドイッチを買うと、端っこに具材が入ってないじゃないですか? 僕、あれが許せないんです」

「諏訪さんとは気が合いそうです」

「けど大丈夫。僕の作る目玉焼きパンは、端まできっちり美味しく食べられます」

「それは楽しみですね」

 重い方をさり気に持ってくれ、けれど「うっ」と低いうなり声を上げた瞬間、笑ってしまった。僕が持つべきだったのかもしれない。けれど男のプライドにお任せして、僕は軽いビニール袋を持った。

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