第8話 凪義の過去
管理人室に引っ込んだ凪義は、その奥の仮眠室で寝息を立てる射地助とゼーニッツをよそに、椅子に座ってスポイトから口に赤い液体を垂らしていた。
赤い液体……それは、先の二度の戦闘の後、どさくさに紛れて採取したサメの血液であった。
サメの血を飲み干した凪義は、そっと腕をまくり、左腕を上からなぞってみた。
左腕の皮膚はほんのり固く、ざらついている。まるで鮫肌のように……
「……進んでいる」
***
元々東京本土で生まれ育った凪義は二年前、母の地元である鬼車之島を訪れた。島を訪れるのは、これで三度目だ。彼は南国の美しい自然を気に入っていたが、山の所有者が設置したというソーラー発電所だけは、自然豊かな島とはあまりにも不釣り合いで、景観を損ねているように見えた。
凪義はまだ小さい弟と妹を連れて海で遊んでいた。浮き輪をした二人を引っ張って、凪義は岸を遠ざかっていた。
……その時、急にサメが現れて、弟、次いで妹を一口で食べてしまった。本当に、一瞬の出来事であった。凪義は叫び声すら上げられなかった。
海水浴場は騒然となった。当然、凪義も必死で岸まで泳いだ。何かに足を掴まれ、海中に引きずり込まれてしまった。サメではない何かが、凪義を引っぱったのだ。
海底にいたのは、白い肌をした男であった。男の瞳は赤く、縦長の細い瞳孔はまるで夜行性の蛇のようであった。凪義の意識は、そこで途切れた。
……そこからどうやって砂浜に戻ったのか、凪義には記憶がない。だが、気づいた時には砂浜で突っ伏していた。その時もう空は暗くなりかけていた。
目覚めた凪義は砂浜中を駆け回って両親を探した。が、何処にもいない。更衣室で服を着た後、持っていたスマホで電話をかけたが繋がらなかった。
一人ぼっちの凪義は、祖父の経営する旅館に戻るために夜道を歩いていた。この時凪義の頭を支配していたのは、ただ恐怖のみであった。よしんば両親と再会できたとて、弟と妹はもう戻ってこない。恐ろしさでどうにかなりそうであった。
――その時、脇道の林から、人が出てきた。
「お、お父さん!」
背格好と来ている服は、凪義の父そのものであった。だが、出てきた人物はくぐもったようなうめき声を発するのみで、凪義の呼びかけに答えようとはしなかった。
お父さんが苦しんでいる……そう思った凪義が近づいた、街灯に照らされた顔は、確かに父のものであった。父は首を掻きむしりながら苦しんでいる。様子がおかしいことは明らかだ。
「う、ああああああ」
「お父さん!?」
叫び声を上げながら、父の頭部がぐにゃりと変質していく。飴細工のようにぐにゃぐにゃと曲がった父の頭は、やがてサメの頭部のような形になった。
「ぐるるる……」
サメ頭と化した父は、獣のように喉を鳴らしながら迫ってくる。凪義は後ずさったが、段差につまづいて転んでしまった。尻もちをついた凪義を前にして、サメ頭が大口を開ける。
大口が凪義の目の前に迫ってきたその時、突然、サメ頭の父は動きを止めた。
父の胸には、刃物が貫通していた。誰かに後ろから刺されたのだ。
下手人は、父よりも年上と思われる、白髪交じりの中年男であった。この白髪交じりはそのまま凪義を車に乗せて拉致し、船で網底島まで連れて行った。
この下手人こそ凪義の師匠となる
「鮫辻の
鳴滝は、凪義にサメと鮫辻について教えた。
鮫辻浄頭なる呪術師は、
「お前の父親は鮫辻によって鮫人間に変えられたんだろう。そしてお前もだ」
そして鳴滝は、サメ化を防ぐための方法を二つ、凪義に教えた。一つはサメの血を定期的に摂取すること、もう一つは「総身集中の呼吸」を常に維持することであった。
「ボウズ、お前は二つの内の一つ、どちらかを選べる」
鳴滝は、凪義に二者択一を迫った。このまま鮫人間と化して討たれるか、それともサメに対する自警団「鮫滅隊」に入隊し、訓練を積んで「総身集中の呼吸」を体得するか……
凪義は迷わず、後者を選んだ。その日から、地獄の日々が始まった。
鮫滅隊の隊士の殆どは、身内をサメに殺された者たちであった。そのため、彼らのサメに対する怨恨は相当深いものがある。凪義もまたその例に漏れず、自分の家族を奪ったサメへの憎しみを原動力に、過酷な訓練に励んだ。何度も死にそうになりながら、それでも彼は折れなかった。時には「岩をチェーンソーで切れ」などという無理難題すら押し付けられた。それでも凪義は決して諦めず、ことを成し遂げた。
そうして、一年と半年ほどが過ぎた。
「炭戸凪義、お前を正式な隊士と認める」
鳴滝は、低く落ち着いた声で凪義に言い渡した。
鳴滝は独自の情報網で、鮫辻の尻尾を追っていた。すると、鬼車之島で再びサメの出現が増加し、またサメ人間の目撃情報も掴んだ。鮫辻は鬼車之島に戻ってきたのではないか……鳴滝はそう推察した。
「僕に行かせてください」
その言葉は、自然と凪義の口から出た。
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