第3話 どら猫追いかけて

「んんんん~。んんんん~」


 鼻歌を歌いながら丸物のアジを開いている、ぴっちりセパレーツレオタードにレースのエプロンを腰に巻いたマイ。マイ対比だと子供のおもちゃのキッチンのようなサイズになるが器用に包丁で裁き内臓を取る。さっき魚定うおさだで3尾280円のところシゲさんが250円でいいよっと言ってくれたので即買いしたものだ。魚定は近所の商店街の魚屋さんでシゲさんはそこの二代目だか三代目だかの頭髪がやや不自由なおじさん。


 頭を割り塩を振って少し水が出てきたらペーパータオルで拭いて洗濯ばさみで吊るす。ロフトの窓の先がベランダになっているが、直射日光はよくないので駐車場側の軒に干す。これで夕飯までにはおいしいアジの天日干しが出来上がる。


 干し肉などの保存食はオーク料理の定番だ。グリズリーやドラゴンなどは一度に食べきれないし、エージングした方が旨味が増す。この世界にも大型獣は結構いるようなので、一度仕留めたいものだと思いながら下準備を終えたマイはテレビをつけた。透の部屋から運んできた37インチテレビだ。


 ロフトの1階に置いてあるが、座るとかなり下になり見にくいし画面の色も変になるので、勢いマイは床に寝そべって見ることが多い。東南アジア某国の寝釈迦仏を彷彿させる姿である。この姿勢でおせんべいをバリバリ頬張りながらお昼の情報バラエティを見るのがここのところのマイブームである。ちなみに今日は平日なので透は会社だ。


『芸能界の女帝・ジャパン喜多山きたやま前社長のお別れ会に双岡ならびがおか轆轤ろくろの姿が!』

『ノイマン王国との直行便がはじめて就航。帝都国際空港で盛大なセレモニー』

『京都帝国大学兼古かねこ教授、数学のノーベル賞といわれるキクチ賞を受賞。素数の長年の謎を解明!』


 双岡って暴力団との関係がバレて引退したとかいう元芸能人ね。

 その時に顔に大きな傷を受けたって話だったけど、大丈夫だったみたいね。

 さすが日本の整形技術。


 ノイマン王国って聞いたことあるような……。後でネットで調べとこ。


 兼古教授は去年のあの論文よね。あれはインパクトあったわ。オークの里でも盛り上がったもの。

 やっぱりゼータ関数は奥が深いわ。


 生来勉強家なのと、お昼の大半テレビを見ているおかげもあって、芸能界はじめ日本の事情に精通しているマイであった。


『え~~街さがしええもん見つけ隊。今日は北新山市中央大通り商店街にやって来ました~~』


 あらっ、近所じゃない!

 うそっ。見に行こうかしら。これ生よね。


 専業主婦のように、いや実質は違わないのだが籍も入れていないし何よりも透とは未だ清い関係であるのだが、単なる野次馬おばちゃんと化しているマイちゃんであった。ついつい知ってるお店や人が出ないかとテレビに集中してしまう。


 だから、その気配に気がつくのが今日は一瞬遅れた。


 駐車場側でごとっという物音。


 マイの目が光り、ダッシュで飛び出した。はだしだし、テレビは点けっぱなし玄関にカギも掛けていないがそれよりも大事なことが!


 3尾干したはずのアジの開きが1尾ない!


 むなしく揺れるアルミの洗濯ばさみ。


 すたたたと路地を逃げ去る灰色の物体。


 そんな光景が一瞬で目に飛び込む。


 おのれニャン太郎!


 ニャン太郎。ここ最近のマイのライバルである。台所の窓を開けているとそうっと忍び込み、ハムや生肉、刺身などをちょろまかす灰色ネコ。

 特にマイ特製の干物が狙われやすい。


 だから神経を研ぎ澄まし、ニャン太郎が周囲10メートル圏に入ったら脳内に警報が鳴るようにチューニングしていたのだ。そのおかげでこのところ連続撃退記録を更新していたのだが。


「待てー! ニャン太郎!」


 マイも加速する。


 路地から勝手口の隙間に潜り込み他所の裏庭に入るニャン太郎。ぶん、とジャンプし裏庭の塀の上をしたたたたと忍者のように走るマイ。


 庭の植込みを間に塀の上と地面を駆ける両者。


 ニャン太郎が急角度で方向を変え、雨水管を伝って屋根の上へ駆け登る!

 口にはアジの干物をしっかりぶら下げて。


 マイも狭い塀を足場にし宙へ跳ぶ!


 しかしその時すでにニャン太郎はさらに向かいの家の屋根へ!


 マイは伸身から屈身に空中で姿勢を変え、瓦屋根に300キロの巨体が飛び乗るが、上手く浅い角度で勢いを残し、水面を切る小石のように再跳躍してニャン太郎を追う!


 ニャン太郎は屋根伝いに走り、やがて駅前方向に抜けた。このあたりからビルやマンションが増えてくる。視界が遮られるので追跡を撒きやすいフィールドだ。ニャン太郎のホームグラウンドである。


 マイも強度の低い木造の瓦屋根の上を慎重に踏みつつ宙を駆ける。全速が出せないためやや離されたが、この先はコンクリート造だ。多少無茶しても壊れはしない!



 ニャン太郎は焦っていた。なぜだ!? 撒いたはずの人間がどうして追いついてくる!?


 マンション14階のベランダを駆け、オフィスビルの屋上キュービクルの間を抜け、スナックビルの外壁の螺旋階段を駆け下り、駐輪場をジグザグに走り建築現場の仮囲いの下をくぐり商店街の点検はしごを昇ってアーケードの上のキャットウォークを走っているのに、なんであの人間はすぐ後ろについてくるんだ~~~~!!!


 マイは風を切るように腕を真っすぐ斜め後ろに伸ばし、下半身は脚の回転ピッチが早すぎてもはや見えない。いわゆるエ〇トマン走法だ。まさか時速3000キロではなかろうが。


 ニャン太郎は致命的なミスをした。マイから逃げるのなら、側溝とか、共同溝とか、あるいは民家の床下とか、狭い場所へ向かうべきだった。

 だが、ニャン太郎には目的があった。そう、あの古いビルの屋上の、今は使われていないが撤去するのも大変なので放置されたままの、穴の開いた古い貯水槽まで、栄養をつけて戻ること!


 そしてそこに到達するためには、アーケードのこの場所から右の電柱にジャンプしないといけないのだ!


 迫るマイをかすめて飛ぶ格好になったニャン太郎。


 マイの手刀が空気を切り裂いて飛ぶ! かまいたちだ!


 風のカッターがニャン太郎を切り裂いた! と思ったが切り裂いたのはアジの干物のえらのあたり。

 切れたアジの胴体部はふわりと飛んでマイの手にはっしと掴まれた。


 頭部のみ咥えたニャン太郎は逃げる。しかしマイもまだ追い続ける。電柱に向かってジャンプ!


 先に電柱を蹴ったニャン太郎に続きマイも電柱を蹴る。ちょっと力を入れすぎてひびが入ったのは内緒だ!


 そしてくだんの古いビルの屋上に降り立つ。

 ニャン太郎の姿が……ない?


「にゃー、にゃー、にゃー、にゃー」


 突如響く子猫の鳴き声。いや、ねだり声。やけに反響すると思ったら、その方向にはひび割れた黄色い空の貯水槽があった。


 穴から中を覗くと……。


 ニャン太郎が威嚇するように背を逆立てて唸っていた。

 その後ろ、貯水槽の隅に敷かれた古布の山のなかでコロコロ丸くなっているのは4匹の子猫。

 みんな灰色だ。まだ目をつむったまま鳴いている。赤ちゃんだ。


「ニャン太郎。お前、お母さんだったのか……」


 勝手に太郎と付けたが、宿敵は雌だったようだ。

 そういえば、最初に遭遇した時、太ってるくせにやけにすばしこい猫だと思ったことがある。

 今はスリムだ。

 あの頃は妊娠していたのか。


 じっと隠れているつもりが、母親の匂いで赤ちゃん猫がせがみだしたのだろう。ミルク頂戴って。


 ふー、ふー。


 子どもを守ろうとするニャン太郎。アジの頭はしっかり咥えたままで。


 マイの脳裏に『野良猫にエサはやらないで下さい』『無責任な行為が町内に迷惑となります』『味を覚えると人間を襲うことも』『最後まで責任持てますか』など様々な警告フレーズが浮かぶ。


 ああ、しかし、しかし!


 隅っこで丸くなってる灰色ネコの赤ちゃんのキュートさよ!


 はあああ……。


 マイは見かけによらず(よるのか?)可愛いものが大好きなのだった。


「うん、この小さな穴じゃわたしは中に入れない! 不可抗力! 撤退!」


 誰に言い訳しているのかよくわからないが、マイはそういうと回れ右をした。

 そして、首だけ後ろを振り返り、


(武士の情けだが、見逃すのは一度きりだぞ)

(あいわかった)


 マイとニャン太郎の間でそんなやり取りがあったのか、なかったのか……。



 アジのを持って家まで戻ると、ミニパトが玄関に停まっていた。


「?」


 マイが近づくと、ミニパトから二人の女性巡査が降りてきた。


「かおりさん、美薗さん! なにかありましたか?」

「ああ、小森さん。玄関が空いたままなので声掛けしていたところです。不用心ですよ、鍵を開けたまま外出するなんて。中でテレビも点けたままじゃないですか」

「そーです。先輩とアタシがたまたま巡回中でよかったのです! 気をつけてくださーいなのです!」


 先輩がかおりで、です口調なのが美薗である。


「ありゃ、いけないいけない。ドラ猫を追いかけてて。あっ、そうだ! 実は商店街の隣のビルの屋上に生まれたばかりの猫がいまして! 保護してくれませんか!?」

「は、はあ?」

「ね、お願いします。うちじゃ猫飼えないんで、せめて里親さんが見つかるまでお巡りさんとこでお願いしますよ」

「交番はペットボランティアじゃないのです!」

「めちゃめちゃ可愛いですよ。ほら、このとおり!」


 いつの間にかスマホで赤ちゃんネコをちゃっかり撮影していたマイであった。



 その後しばらく、交番でおっぱいを飲ませる親猫と子猫の微笑ましい姿が見られた。

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