第十一話 僕の主治医さん

雛子ひなこちゃん、地球の裏側に、お嫁に行っちゃうんだって?」

「お相手はそっちの国の人なのかい? 違う? ああ、外国に行くお役所の人なのかい、ほおほお」


 この一週間、まったりするのも落ち着かないと感じてしまうのは、研修している間、忙しくも充実した毎日を送っていたからだ。そして間違いなく、東出ひがしで先生から受けた悪影響の一つだと思う。長い休みが取れたら、絶対にゴロゴロしてすごしてやるって思っていたのにな。


 そして私は実家の医院で、父親と祖父のお手伝い。私が診察をすると言ったら、祖父は診察することをやめて、最近やって来るようになった野良猫の相手をすると言って、引っ込んでしまった。


 そのせいか、さっきから昔なじみの患者さん達の質問攻めにあっている。なんとかしてほしくて、父親にこっそりと視線を送ったら、地元密着の町医者は診察も大事だけど、患者さんとのコミュニケーションも大事なんだよと言って笑うばかり。まあたしかに、こういうのんびりしたお喋りと診察は、大学病院では味わえないことではあるけれど。


「一人娘が遠くに行っちゃうと、若先生も寂しくなるね」

「いえいえ、やっと一人前の医者になって独り立ちしてくれるので、こちらとしては肩の荷がおりて清々せいせいしてますよ」


 また嘘ばっかり。最近になって、やっと踏ん切りがついたくせに。そんなことを口にしなくても、昔なじみのお婆ちゃん達はお見通しのようで、父親の顔をわけ知り顔で見ながら笑っている。


「でもまあ、たまには帰っておいでよね。老い先短いあたしらからしたら、雛子ちゃんは孫娘みたいなものなんだから。たまには顔を見せてもらわないと寂しいわ」

「そうですねー。ちょっと遠いけど、頑張って顔を出すようにしますよ」

「そうそう、それに大先生にも、曾孫ひまごの顔を見せてあげないといけないからね」

「ってことは、若先生はお爺ちゃん? あらまあ、じゃあそろそろ、若先生の呼び名をあらためなくちゃ」


 もうとっくに「若先生」なんて年ではなくなっていると言うのに、お爺ちゃんお婆ちゃん達からしたら、ずっと自分達の子供と一緒なのだ。こういう昔からのお付き合いから遠ざかってしまうのは、少し寂しいかもしれないなと思った。



+++



「明日、裕章ひろあき君はどうするつもりなんだ?」


 休診時間になって、お昼ご飯を食べていた時に、父親がたずねてきた。


「明日はそのまま、千葉ちばの実家に直行。最後ぐらいは、お互いにきちんと実家に戻った方が良いだろうからって。私にもこっちで、ゆっくりお父さん達とすごしてほしいんだって」

「そうなのか」

「なに? 私が外泊しちゃっても良いの? 北川きたがわ雛子ひなことしては、最後の夜なんだけど」

「い、いや、別にそういうことじゃない。聞いただけだ」


 ヤブヘビだったかと慌てた顔の父親が、なんとも可愛らしくて思わず抱きついた。


「おいおい、抱きつく相手が違うだろ?」

「いいの。お嫁にいって苗字が変わっても、遠く離れていても、お父さんの娘には違いないんだからね?」

「わかっているよ。裕章君には幸せにしてもらいなさい」

「お父さん、それ逆なんだから。私、彼の主治医ですからね」

「じゃあ、裕章君を幸せにしてあげなさいで良いかな」

「そういうこと」


 父親は笑いながら抱きついた私の背中を、子供の頃にしていたようにポンポンと軽く叩いた。



+++++



 私達四人が待ち合わせの場所に行くと、少しだけあらたまったスーツ姿の裕章さんと御両親、そしてお爺さん御夫婦が立っていた。


「お待たせしいたしました」

「いえいえ、本日はお日柄もよろしくて」


 それぞれの親世代祖父母世代が挨拶をしているのを横目に、裕章さんが私の前に立ってアヒルを差し出してきた。ちゃんとつれてきてくれるなんて、裕章さんもなかなかわかっていらっしゃる。


「はい、雛子さん。僕達の大事な仲人なこうどさん」


 こっちを見ている私達のアヒルちゃんは、今日はなんだかほこらしげというか、ちょっとえらそうな顔をして、私を見詰つている。


 ちなみに私が裕章さんからもらったボールペン達は、今頃は飛行機の貨物として、一足先にあっちに向かっているはずだ。目的地に到着する前に、行方知れずになる荷物も珍しくないと言われていたから、少し心配ではあったけど、なぜか裕章さんは、絶対に大丈夫だよと、笑って太鼓判たいこばんをおしてくれた。


「ふふ、今日はなんだか、よそ行き顔をしているような気がするわね。この子は、ここにいてもらわなきゃ」


 そう言って、裕章さんのスーツの胸のポケットに挿し込んだ。前にこうやって裕章さんの胸ポケットにさした時は、なぜか泣きそうな顔をしていたけれど、今はとってもほこらしげ。裕章さんとアヒルちゃんの間で、一体なにがあったんだろう。れいの強盗事件のこともあるし、今から話を聞くのが楽しみだ。


「それぞれ挨拶はすんだ? まさか役所の中まで、ついてくるとか言わないよな?」


 裕章さんの言葉に、家族全員がこっちを見た。


「わし等はここで待っているから、二人で出してきなさい。結婚式とは違うが、これも二人だけの大切な儀式だからな」


 裕章さんのお爺さんが、笑いながら言った。


「じゃあ、行ってくるよ。雛子さんのパスポートの修正申告もあるから、ちょっと時間がかかるかもしれない。あっちの喫茶店で、お茶でもしていたらどう?」

「わかったわかった。邪魔者はおとなしくお茶をしているから、心置きなくゆっくりしてきなさい」


 皆に見送られて、お役所の建物に二人で向かう。


「今日の雛子さん、すごく綺麗だよ」


 少し離れたところまで来た時に、裕章さんがそっとささやいた。今日は特別な日でもあるから、少しだけおしゃれなワンピースを着てきたんだけど、気に入ってくれたなら嬉しいな。


「今日だけ?」

「まさか。もちろんいつも綺麗だけど、今日は特別にってことだよ」


 誰かに今の聞かれていなくて良かった。だって今の裕章さんの顔つき口振りを目撃されたら、その場で絶対に盛大な砂吐きをされそうなんだもの。


「婚姻届、持ってきたよね?」

「もちろん。言われたものは全部、バッグの中に入れてきたわよ」


 手に下げていたバッグから、私達の名前を記入するだけになった婚姻届を取り出した。


「やっぱりここは、アヒルちゃんのボールペンで記入するの?」

「当然」

「すごい大役をおおせつかっちゃったわね、アヒルちゃん」


 窓口の前にある記入用のテーブルで、二人の名前を順番に書き込んだ。きっと、今夜の夢の中に出てくる動物達は大騒ぎだろうし、アヒルちゃんは皆の前でほこらしげに演説をするに違いない。


「たしかに受領しました。おめでとうございます、末永くお幸せに」

「ありがとうございます」


 婚姻届を窓口に提出すると、受け付けてくれたお役人さんはニッコリと笑って、お祝いを言ってくれた。お役所仕事であっさりと受け取るだけだと思っていたので、驚いたと同時に嬉しかった。


南山雛子みなみやまひなこさん」


 パスポートの修正申告を終え、外に出ようとしたところで、裕章さんが急に立ち止まって、そう呼びかけてきた。


「なに?」

「うん、呼んでみたかったんだ。僕の苗字になった雛子さんのこと」

「気に入った?」

「ものすごくね」

「それは良かった」


 嬉しそうな裕章さんの顔を見上げると、彼はニッコリと微笑み返してくれた。


「雛子さん、僕の主治医になってくれてありがとう。これからも末永くよろしく」

「こちらこそ、末永くお願いしますね。ああ、もちろん裕章さんの健康は、私がきっちりと守りますから」

「うん、頼みます」


 これから私達は、裕章さんの赴任地となった色々な国々を、二人で巡ることになる。


 きっとその中には、聞いたこともないような国もあるだろう。行く先々で、どんな人々や出来事に巡り合うことになるだろう。今からすごく楽しみだ。

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