第十話 最後の最後でまたお仕事
病院の近くの、河川敷にある桜並木が満開になった三月末日。
目の前に広がるのは、家財道具がすべて運び出されて、なにもなくなった部屋。
ここに入居が決まった時は、たった二年でここを出る日が来るなんて、思ってもみなかった。ましてやその理由が、結婚して旦那様と地球の裏側に行くだなんて。
「たった二年だったけど、お世話になりました」
玄関で深々と頭を下げると、ドアを閉めて鍵をかける。
退出前の管理会社との確認はすでにすんでいて、後は鍵を帰しに行くだけだ。四月から、女の子の研修医か新しい看護師さんが病院にやってきたら、ここの部屋を使うことになるだろう。
書類上、昨日付で私は病院を退職した。
そして引っ越しもパスポートも間に合って良かったなと、安堵しながらアパートを出たところで、いきなり携帯電話が鳴った。電話番号は……げ、これはもしかしなくても、
「……はい、もしもし?」
イヤな予感しかしなくて、不信感丸出しな声で応じる。
『俺だ。
どうして「ヒマか?」でも「なにか予定が入ってるか?」でもなくて、ヒマだったなという断定なのか。そりゃあ今は無職状態で、時間だけはありますけどね、それとこれとはまったく別な話であって。そんなことを説明しても、東出先生が理解してくれるとは思えないけれど。
「まあそうですね。無事に退職もしましたし、アパートを引き払ったところなので、もしかしたらヒマかもしれません」
『ヒマなんだな。だったら少し手伝え。花見客が集団乱闘で大騒ぎだ』
忘年会シーズンを何事もなく乗り切ったと思ったら、次はこれ。我が病院酔っ払い患者到来シーズン第二段、お花見と歓送迎会の三月。
「河川敷に行けば良いんですか? それとも病院?」
『病院に決まっているだろうが。俺は救急車に乗ってそっちに向かってる。……ああ、わかってるから黙って待て。こっちもあれだけの人数を受け入れるには、色々と準備がある。うちだって、今日は休日態勢で人がいないんだからな』
なにやら向こうで先生に話しかける声がして、先生は苛立たし気に答えている。お気の毒な救急隊員さん、きっと怖い顔をした
『
「またひどいこと言ってる……」
『なんだって? 聞こえんぞ、返事は?』
「わかりました、今から病院に向かいます。それと当直明けの可哀想な西入先生は、捕まったら足止めします」
多分捕まらないと思うけどね。心の中で舌を出しながら、病院に向かうことにした。もちろん遅くなりそうな予感しかしないので、実家に電話をする。そして病院に行く途中で、不動産屋さんに鍵を返しに立ち寄った。
「あれ? 北川先生って昨日付で退職したはずじゃ?」
そして運の悪いことに、通用口に到着すると、帰宅しようとしていた西入先生と鉢合わせしてしまった。ああ、お気の毒な西入先生、申し訳ないけれど、
「東出先生から連絡があったんですよ。桜川のお花見会場で乱闘があって、怪我人が大量に出たんですって。ほら……」
遠くで救急車のサイレンの音がしている。それに気づいた西入先生は、大きな溜め息を一つ吐いて肩を落とした。
「北川先生が東出から、なにを言われたかわかったような気がするよ。僕が当直明けなんて、考慮されてないんだろうね?」
「当直明けだからいるはずだって、頭数に入れられてました」
「まったく人使いの荒いヤツなんだから。誰も彼もが、あいつみたいな体力持ちじゃないんだけどな。もう少しなんとかならないかねえ、あれ」
「お嫁さんでも来たら、少しは変わるんじゃないですか? ほら、結婚したら、奥さんが待っている自宅に帰りたい気持ちが、少しは理解できるようになるかもしれません」
「それはまた遠い未来の話のような気がしてきたよ」
西入先生は遠い目をした。
そして西入先生は、あいつにお嫁さんが来てくれるのはいつになるんだろうねえと愚痴りながら、私と一緒に出てきたばかりの通用口に引き返すことになった。
+++
「あれ? なんで北川先生が?」
騒がしい救命救急の治療現場で、何度目かの質問。
「ヒマなら手伝えって、あそこの将軍様に言われて」
そう言いながら、診療台の前に仁王立ちになって、大暴れているお兄さんを叱りつけている先生の背中をアゴでさした。それで納得されてしまうのが何とも悲しい。
「まったく東出先生ときたら……こちらはもう大丈夫ですから、帰ってもらって良いですよ?」
「そうなんだけどねえ……」
「おい北川、このバカを押さえるのを手伝え」
ほらね?と笑いながら肩をすくめると、先生のもとに歩いていった。
「患者さんをバカ呼ばわりするのは、どうかと思いますよ、先生」
「バカはバカだ。本当のことを言ってなにが悪い。ほら、押さえてろ」
私に指示を出すと、そのままその酔っ払いさんの傷口を縫い始めた。ワーワー言っているところをみると、麻酔なしでそのまま
「はいはい、おとなしくしてくださいねー。ジッとしてないと、その口まで縫われちゃいますよー」
ジタバタしているお兄さんを口では優しくたしなめながら、力任せに抑え込む。もしかして私、やることが東出先生に似てきたかも?
「ところで先生、これって私、ただ働きじゃ?」
「どうせヒマなんだろ、なにか文句でも?」
金銭に執着するとは医療従事者にはあるまじきことだなと、つぶやいている。お金がどうのこうのという話じゃなくてですねえ……。
「別にヒマを持て余しているわけじゃなくて、アパートを引き払ったから、実家に戻るところだったんですけど」
「だったらヒマなんじゃないか。ほれ、もっとしっかり押さえろ」
おとなしくしない患者さんを見下ろしながら、殴って気絶させてから縫うか?なんて物騒なことを言っている。
「それより先生は、なんでまた、救急車に乗る羽目に?」
「がらにもなく、満開の桜を見て帰ろうと思ったらこのざまだ。まったく。やり慣れないことをすると、本当にロクなことがないな」
腹立たしげに患者さんに針を突き刺した。今のは絶対に八つ当たりだ。
「先生は普段通りにしているのが、一番だってことですね。まわりは迷惑ですけど」
そう言ったら、思いっ切りにらまれてしまった。
「俺だって、好き好んで病院に住んでいるわけじゃないぞ。文句は事務局長に言え」
ブツブツと言いながら、先生は私のことを助手代わりにして、次々と自分の前に連れてこられる怪我人さん達の治療を続けた。
+++
「あー……さすがに当直明けにあれはこたえたよ」
治療が一段落して解放された西入先生と私は、フラフラしながら通用口を出た。休みのはずの東出先生は、案の定そのまま患者さん達の経過観察をするために、病院に居座ることに。私達だけでも帰してくれるのは、先生の優しさなのかもしれない……多分。
「絶対、東出先生には怪我人を呼び寄せるなにかがあるんですよ」
「かもねえ。本人はそんなこと、思いもしないだろうけど」
西入先生が首を回しながら笑う。
「実家に帰るんだろ? どうだい? 駅前でお茶でもごちそうするけど」
「帰らなくても大丈夫なんですか? 寝てないんでしょ?」
「そのぐらいならなんとかなるよ。それに当分は、北川先生におごることもできなくなるしね」
「じゃあ、駅前にクリームデニッシュがおいしいお店があるじゃないですか。あそこに連れてってください」
そんなわけで私と西入先生は、仲良く駅に向かった。
+++++
『まったく、東出先生らしいね』
電話の向こうで、裕章さんが呑気に笑っている。
「笑いごとじゃない。あの調子だと空港に行く途中でも呼び出されそう」
『それは困るなあ……』
普段はこんなふうに国際電話なんて使わないんだけど、退職したってことでその報告も兼ねて、裕章さんに電話をしたのだ。ちょうどあちらも、土曜日でお休みだし。
「それでね、出発する当日になるんだけど、昼間に病院の食堂を利用して、みんなで送別会をしてくれるんだって。裕章さんも招待されてるからね」
『そうなのかい?』
退職する前に、
「ほら、結婚式も挙げないで行っちゃうから、みんなでにぎやかに送り出してくれるんだって。そういうことなので、予定に入てれおいてね」
『わかった、楽しみにしているよ。……ところで
「なに?」
一瞬だけど、裕章さんがためらったのを感じた。
『もしかしたら雛子さんのアヒル、本当にすごいヤツかもしれないよ』
「どういうこと?」
『そっちに帰国した時にあらためて話すけど、番犬以上の働き者かもしれない』
「ちょっと、もしかして強盗にでも入られた?」
『僕の家じゃなくて大使館なんだけどね。そのお蔭でいま、大使館では新しい警報機を設置するために、大がかりな工事がおこなわれているよ』
私のアヒルちゃん、一体どんな活躍をしたんだろう。
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