第九話 ピヨピヨ父、最後の足掻き

「この大晦日おおみそかが終わったら、しばらくは雛子ひなこと一緒に、年越しできないんだねえ……」


 今年のうちの病院の忘年会シーズンは、去年のように、東出ひがしで先生が頭から血を流しながら、酔っ払いおじさんを担いでくるようなアクシデントもなく、酔っ払いさんが三度ほど運ばれてきた程度で、無事に仕事納めの日を迎えることができた。


 そして私の顔のあざも消えて、パスポートの申請書類諸々は、イブの日に無事、下田しもださんの手に渡っていた。


 忙しいなりに穏やかな年末を迎えようとしているのに、なぜか我が家では一人だけ、ブツブツと辛気臭しんきくさい顔をしている人が約一名。言うまでもなく父親だ。


「もう、やめてよね。大晦日おおみそかに、そんな陰気くさい顔をするのは」

「雛子の言う通りよ。一年の〆がそんな陰気な顔だなんて、とんでもないわ、お父さん」

「そんな今生こんじょうの別れみたいなことを言うんじゃない。お前がそんなんなら、ワシは一体どうすれば良いんだ」


 私だけではなく、母親と祖父にまで文句を言われ、父親は娘を嫁に出す感傷にもひたれないのかと、しょぼくれてしまった。まったくもう。それは感傷とは言わないの、単なる愚痴ぐちだから!


「あのね、たしかに遠い国だけど、同じ地球の中にいるんだから。それに、直線距離にすると意外と近いのよ? どのぐらいの距離か知ってる?」

「地球の真ん中を突っ切って行けるわけないんだから、そんなこと知っても無意味だろ」

「でも真下だし」

「雛子、そういう問題じゃない」

「じゃあ、どういう問題? とにかく私はね、大晦日おおみそかにそんな辛気臭しんきくさい顔をしているお父さんは、好きじゃないの。見ているだけで気が滅入っちゃうの、せっかくみんなで集まる年越しなんだから、もっと楽しくすごしたいの、わかる?」


 私が一気にそうまくしたてると、父親は悲しそうな顔をした。その顔を見て、少しばかり言いすぎたかしらと、良心が痛まないでもない。だけどここで甘い顔をすると、図に乗って大変なことになるから、断固とした態度で接しなくてはならないのだ。


「そんなことを言ってもだな」

「だいたい私が日本を発つまで、まだ三ヶ月以上あるでしょ?」

「だがギリギリまでは病院で研修だし、こっちには戻らず、そのまま裕章ひろあき君と出国してしまうんだろ?」


 最近になって父親はやっと「南山みなみやま君」から「裕章ひろあき君」に呼び方を変えた。その変化からして、父親なりに心の整理はついているんだとは思うんだけど、いまだにグチグチと言い続けているのはどうしてなんだろう。母親は、言うだけ言ったら気が済むんだろうと考えているらしく、最近では放置気味なんだそうだ。もしかして父親って、けっこう可哀想……?


「そりゃあ、ここから病院に通えるなら、早めにアパートを引き払っても良かったけど、朝早いと無理でしょ?」


 これでも一度は、少し早めにアパートを引き払って、実家からしばらくは病院に通おうかなって考えた。だけど当直の時ならまだしも、早朝に出てこなくちゃいけない時は、かなり早く自宅を出なきゃいけない。考えた結果、少しでも自分の睡眠時間と勉強時間を確保したくて、このままでいくと決めたのだ。


「結婚式もしないなんて」

「そんなこと言ったってしかたないでしょ? 裕章さんもなかなか帰国できないんだし、私は研修が終わったらすぐについていきたいんだもの」

「せめて、一年ぐらい待ったらどうなんだ、そうすれば、裕章君もある程度の日程の調整ができるだろうし、結婚式もできるだろう? 対外的に結婚式をあげているのとあげていないのでは、心証がかなり違う」


 もっともらしいことを言っているけど、普段が普段なだけに説得力がない。


「イヤです。そんなこと言うなら、明日からでも裕章さんのところに行っちゃうからね」


 私の言葉に、父親はショックを受けた顔をした。そしてその父親に、母親が追い打ちをかける。


「お父さん、いい加減にあきらめなさいよ、見苦しいわよ」

「見苦しいってお前……娘が結婚式をしないんだぞ? お前はそれで良いのか?」

「私達の時と時代が違うんですよ。大事なのは、当人同士の気持ちでしょ? ねえ、お義父とうさん」

「そうだな。それに、裕章君と雛子が決めたことだ。まわりがとやかく言うことではないよ」


 父親はまだブツブツと、なにか言っている。


「ああ、結婚指輪は作ったのよ。一月末にできあがってくるのを、私が受け取りに行くの」


 これで少しは夫婦らしいことをするでしょ?と首をかしげてみせた。だけど父親は、まだ納得していない様子だ。


「それにね、外交官として外に出ていく人だと、入籍だけして赴任地に行くってパターンは珍しくないんだって。裕章さんのお友達が言ってたわよ」

「それはだなあ……」

「とにかく、研修が終わるまではこっちで頑張るって、裕章さんと約束したから日本に残ったけど、それが終わったら、私は誰がなんと言おうと、裕章さんと一緒にあっちに行くから」


 そうきっぱりと宣言すると、父親はムッツリと黙り込んでしまった。



+++



「まったくもう、なんであんなに意固地いこじなんだか……」


 アパートからこっちに送った荷物の整理をしながら、溜め息をついた。父親は今ごろ下で、お爺ちゃんのお説教成分が含まれた慰めをうけているに違いない。


「しかたがないわ。お父さん、ひなちゃんがお嫁に行くのは、もう少し先だと思っていたのよ」


 私の隣で服の選別を手伝ってくれていた母親が笑う。


「それって、病院では出会いがないって安心していたってこと?」

「そうかも。もしかしたら誰か婿養子にしようって目星をつけた、若い先生でもいのたかもしれないわね、私は聞いてないけど」


 うちの病院で独身の先生なんて、数えるぐらいしかいないのに、なにを考えていたのやら。


「ここを継がせるために? 本当に親子三代で、町医者をしたかったのかしら」

「実際のところ、高度な治療のできる大学病院や総合病院も必要だけど、地域でなんでもてくれるお医者さんって、大事でしょ?」

「それってプライマリーケアってやつよね?」


 私の言葉にうなづく母親。


 プライマリーケアというのは、地域に密着して、予防から治療まで幅広くありとあらゆることをする、診療体制のことだ。


 そしてそれを担うお医者さんは総合医と呼ばれ、内科・外科だけでなく幅広い知識が求められる、いわばお医者さんの何でも屋さん的存在だ。もちろんるだけではなく、必要とあればきちんとした専門の先生を紹介できる、コンシェルジュ的な役割も担っている。


 意外と知られていないことだけど、本来どの専門医にかかれば良いかという判断をする初期診療は、大きな病院ではおこなわれない。こういうコンシェルジュ的な町医者の存在は、実のところ、今の医療体制にとってとても重要な存在なのだ。


 そういう意味では、我が家は三世代そろって医者で知識も豊富だし、それぞれ専門で勉強したことがばらけているので、総合的にることに関しては適していると言えた。


「ひなちゃんが家を継いでくれたら、大学病院ともつながりがあるから、紹介して入院させることもできるわけじゃない? そういうのを、お父さんは思い描いていたのかもしれないわね」


 前に裕章さんも言っていたっけ。お父さんの親子三代開業医の、ささやかな夢がどうのこうのって。


「ちょっと可哀想なことを、しちゃったのかしらね。いまさらそんなことを聞いても、私の気持ちは変わらないけど」

「まあ、お父さんの夢はかなわなかったけれど、ひなちゃんが幸せになってくれれば、それでお父さんは嬉しいんだから、気にすることないわ。あら、この写真、懐かしいわね」


 母親は、いつの間にか服の整理を放り出して、クローゼットからアルバムを何冊か引っ張り出していた。それには、私が生まれてから大学に行くまでの、写真が納まっている。


「見て見て。これって、初めてハワイに皆で行った時の写真よ。私も若いけど、お父さんも若いわね。あら、ひなちゃんとお爺ちゃん、全然変わってない」

「そう?」


 母親が指さしたのは、家族全員で並んで撮ってもらった写真。この頃はまだ、お婆ちゃんも元気だったなあ……。


「お婆ちゃん、裕章さんに会っていたら、なんて言ったかな」

「そうねえ……“あら男前だわね”ぐらいは言いそうよね」

「言いそう言いそう。歌舞伎かぶきのなんとかって役者さんがテレビに出た時も、そんなふうに言ってたもんね」


 私の旦那様になる人を、お婆ちゃんにも会わせてあげたかったな。


「明日は初詣はつもうでに行くんでしょ?」

「うん?」

「お父さんを誘ってあげて。寂しくてしかたがないんだから、日本にいる間はできるだけ、お父さん孝行してあげてほしいの」


 そうでないとうるさくて困るからと、母親が苦笑いした。


「わかった。ついでにお年玉でもせしめようかしら」

「喜んでみついでくれるわよ。ほんと、お父さんはひなちゃんに甘いんだから」


 ウフフと女同士で笑いながら、服の整理を再開して最後までやり遂げた。不要になった服であまりくたびれていない普段着的なものに関しては、近くの教会に寄付することになりそうだ。そんなことを母親から聞いて、奇抜なものを買わなくて良かったと、ホッとしたのは言うまでもない。



+++++



 そして元旦になると、父親を初詣はつもうでに誘い出した。普段なら祖父も一緒に行くと言いそうなものなのに、そう言わなかったのは、きっと察するものがあったんだと思う。


「去年の今頃は、お父さん達に裕章さんのを紹介していたのよね。早いなあ、一年たつの」


 近所の神社へ初詣はつもうでに向かう人達に混じって歩きながら、しみじみとつぶやいた。


「なあ、雛子」

「なに?」

「医者としてのキャリアをつむことは、あきらめたのか?」


 そのへんは裕章さんとの結婚とは別に、親としては気になることだよね。だって学費を出してくれたわけだし。


「そんなことないよ。うちの病院の理事長先生からの紹介もあってね、フルタイムとまではいかなくても、大使館の近くにある病院で、現地邦人の診察を任せてもらえるかもしれない。今は日系人の先生が、何人かで回しているみたいだから」


 その先生達と意思の疎通ができるようにと、頑張って英語の勉強もしたんだし、理事長先生もそういう人事交流も期待して、私のことを送り出してくれるんだから。


「そのせいでパスポートの申請の他に、あれこれ提出する書類が増えたんだから」

「ちゃんと最新の医学書を持っていくんだぞ」

「わかってる。それとわからないことがあったら、こっちに電話して良い?」

「ん?」


 気の無い返事をしたつもりなんだろうけど、少しだけ嬉しそうな表情になったのがわかった。


「お父さんとお爺ちゃんの経験には、まだまだかなわないからね」

「現地特有の病気でなければ、離れていてもアドバイスぐらいはしてやれるだろう」

「うんうん、お願いしますね、頼りにしてるから。あ、お父さん」

「なんだ」

「どうせなら足をのばして、いつもの甘味処あまみどころに行かない? 私、久し振りにあそこのおぜんざい食べたい」


 私の言葉に父親が笑った。


「わかったわかった。父さんのおごりだ、好きなだけ食え」

「お餅をそんなに食べられるわけないじゃない。でもその近くにあるパン屋さん、たしか元旦から開店してたわよね? だったらクリームパン買って帰ろうかな」


 お前のクリームパン好きはちょっとした病気だなと、父親は笑った。

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