第四話 ちょっとしたサプライズ
「まさか、
日曜日、
先生は、年末に酔っ払いさんと一緒に階段から転げ落ちて、頭に怪我をしてからというもの、めったにしないことをするとロクなことがないと言って、ますます休みをとらなくなってしまっていた。なので今の先生は、土日祝日関係なしに、救命救急に住みついている状態だ。
「外来は休みだからな。たった一人のために、病棟から医者を呼んでくることもないだろう」
「先生がわざわざ出てこなくても、救命救急にだって、他にお医者さんがいるのでは?」
「俺じゃあいかんのか?」
「そうは言ってませんが。なんて言うか、大サービスだなあと思っただけで」
東出先生は、なんで俺が注射を打ちに出てきたら大サービスなんだと、ブツブツ言いながら注射の用意をしている。
「それでどうなんだ? あっちではちゃんと健康的に暮らしているのか? 少し
珍しく先生が問診らしきものを開始した。裕章さんは日本とは医療事情から何から何まで違う国で暮らしているんだもの、知り合いの医者としてはやっぱり心配よね?
「
「仕事ばかりしている人間にしては、だろ。ちゃんと休みはとれているんだろうな?」
「病院に生息しているような先生には、言われたくないセリフですよね」
先生の言葉に異議ありといった感じで、裕章さんが言い返す。
「俺はちゃんと食ってるぞ」
「僕だってちゃんと食事はしていますよ。さすがに、大使館の廊下で食べ歩きなんてしませんけどね」
とたんに先生の目がこっちを向いた。
「……
「なんのことでしょう?」
にらまれたので無邪気な顔をよそおって、先生に微笑みかける。
「まったくお前等ときたら……そっくりになってきやがって」
「雛子さん、僕達は似ているそうだよ」
先生の文句に、裕章さんは嬉しそうに笑いながら私を見た。
「あ、ほら。夫婦って似てくるって言うから、それじゃないかな」
「今から似てくるなんて、結婚してからがどうなる楽しみだ」
「ものすごくお似合いだって、大使館でもうらやましがられたりして」
「黙れ、アホ夫婦。あんたはさっさと腕を出せ」
「お言葉ですが僕達は、まだ夫婦じゃありませんよ、婚約者です」
裕章さんの真面目な顔をした反論に、先生はますます不機嫌そうな顔になった。
「まったく、先が思いやられるな」
「あ、そうだ。東出先生、僕としては雛子さんに打って欲しいんですが、お休み中の彼女に打ってもらうのはダメなんでしょうね?」
ニコニコしながらそう言った裕章さんに対して、先生は盛大に溜め息をついた。
「……北川」
「はい?」
「お前が打て。ここで俺が打ったら、この先、五十年ぐらいはグチグチと言われそうだ」
「そんなに言いませんよ。長くて十年ぐらいです」
すました顔で裕章さんが言う。
「……ったく、打ってやれ」
「良いんですか? ほら、今は緊急事態じゃないし、事務長に知れたら、あれこれ言われるんじゃ?」
「俺が打ったことにしておけば問題ないだろ。ここには、俺達三人しかいないわけだし」
「ま、そうですね」
知らぬが仏って、ことわざもあることだし。
「優しく打ってくださいね」
「裕章さん、残念だけど注射は、だいたい痛いって決まってるの」
「そうなのか……」
手を洗って消毒すると、先生が用意した注射を手にとった。出された腕の部分を消毒綿でふいてから、人差し指と親指でつまむ。
「小児科で子供達の予防接種をする時には、裕章さんがくれたボールペン達が大活躍しているのよ」
「へえ。意外なところで需要があるんだね……っ」
ちょっとチクッとしたらしくて、腕がピクッてなった。
「はい、おしまい。少しの間だけここを軽く押さえていて」
そう言って脱脂綿を渡す。
「ありがとうございます、先生」
「どういたしまして」
私の後ろから、東出先生の腕がニュッとのびてきた。
「泣かなかったヤツには褒美として、
そう言って差し出されたのは、先生がたまに口に放り込んでいる、シュガーレスのキャンディーだった。でもその手にあるのは一個だけ。つまりは裕章さんの分だけってことになる。
「先生、私の分は?」
「この程度の注射で、患者を痛がらせてどうする。だからお前はなしだ、もっと精進しろ」
「えー……」
予防接種の皮下注射なんて、精進もなにも関係ない気がするんだけれど……。
「ところで在外公館に勤めていれば、健康管理休暇制度ってのがあるんだよな?」
私が注射器を専用の廃棄用ボックスに入れていると、先生が裕章さんに話しかけた。
「よく御存じですね。赴任地にもよりますし、一年半に一度なんですが。家族を連れて日本に戻るか、休暇を取得して、医療設備の整った近隣の国に行くことが認められていますよ」
つまり医療環境がよろしくない国に赴任した場合は、本人と家族は健康診断をするために、休暇を取得することが認められているのだ。
「そっちだとアメリカか?」
「まあ常識で考えればそうなんでしょうが、だいたいの職員は日本に戻ってきますね。そうでもしないと、なかなか帰国する機会がないので」
「ちゃんと戻ってこいよ。あんた一人ならともかく、半年後にはこいつもついていくし、そのうち子供も増えるんだろうからな」
「それって僕のことより、雛子さんのことを心配しているってことですか?」
裕章さんの言葉に、先生は怖い顔をした。
「貴重な病院の人材をくれてやるんだ。そのぐらいのことはして当然だろ」
「なるほど心得ました。まあ僕が忘れていても、雛子さんがきちんと手配してくれそうですけどね」
「私は純粋に、裕章さんの健康が心配で言うんだからね? 病院の人材とか関係ないから」
「わかってるよ。雛子さんは僕の主治医さんだからね」
先生が溜め息をつく。
「お前達の会話は、聞いているだけで胸焼けがしそうだな。接種は終わったんだ、さっさと帰れ」
「しばらく様子見をしなきゃいけないと、聞いてたんですが」
「北川が一緒だから問題ないだろ。なにか変わったことがあったら連絡しろ」
さっさと出ていけとばかりに、先生はシッシッと手を振った。
そんなわけで私と裕章さんは、なかば先生に追い出されるように病院を出た。
「いまさらだけど、もしかして僕は、東出先生に嫌われているのかな?」
「先生は誰にでもあんな感じかな。仲良しの
「そうなのか……」
病院から最寄りの駅まではけっこうな距離がある。この周辺一帯を周回している、コミュニティバスを利用することにした。
「ここまで来たのなら、雛子さんの御両親にも、挨拶しにうかがったほうが良いかな?」
「今は、やめておいた方が良いんじゃないかな」
「どうして?」
「裕章さんが帰国して私と会ってることを知って、父がすねてるから」
私がそう言うと、裕章さんはお父さんらしいねと笑った。
「それに出張のための一時帰国だって話してあるから、立ち寄らなくても気を悪くすることはないから」
「なら良いんだけど」
「裕章さんの方は? 実家には顔出さないの?」
「電話はしたよ。ただ仕事が遅くまであるから、そっちには戻れないって言ってある」
祖父が元外交官だから、両親はその点に関して理解してくれているよと言った。
「雛子さん、ちょっと行きたいところがあるから、付き合ってくれる?」
「良いけどどこに行くつもり?」
「うんね、ちょっとね」
バスに乗って駅まで行くと、都内に向かう電車に乗る。あいている場所を見つけて並んで座ると、裕章さんが口を開いた。
「なかなか帰国できないのはしかたがないことなんだけど、雛子さんが研修を終える時に帰国する手筈は整えたんだ。だけど、あいにく長期の有給休暇取得というわけにはいかなくてね」
大使さんには、花嫁を迎えに行くんですと理由を話したら、快く休暇を認めてくれたんだとか。だけど、とれたのは往復の時間と中二日だけ。それでも赴任して一年未満の大使館員としては、破格のあつかいなんだそうだ。
「結婚式をどうしてもあげたいというなら、時期をずらすってことも考えられるけど」
私が研修医でこんなに忙しくなければ、お互いの親族と協力して、結婚式の準備をするという選択肢もあるにはあった。だけどそれがなかなか難しいのだ。結婚する相手の裕章さんが地球の裏側にいるから、なおさらのこと。
「研修が終わったらすぐに迎えに来てくれるって、言ったじゃない」
「だよね。だから申し訳ないけれど、入籍だけすませてあっちに付いて来てもらうことになる。それで良いのかな?」
「私は裕章さんと一緒に行けるなら、なんの問題もないけれど」
「でも僕としては、雛子さんにちゃんとしたウエディングドレスを着せてあげたいんだよ」
「白い衣装は白衣だけで十分」
きっぱりと言い切ると、そう言うと思ったよと笑う。
「まあ式は落ち着いてからあげるとして、せめて二人の結婚指輪だけは、きちんとしたものを作っておきたいだろ? で、これからそれを選びに行こうと思ってるんだ。ただし引き取りは、雛子さん一人に行ってもらわなくちゃいけないけどね」
「じゃあ行きたいところって?」
「うん。都内のジュエリーショップということだね」
「帰国した時から決めてたの?」
意外な展開にちょっと驚き。裕章さんには申し訳ないけれど、私はそこまで考えてなかった。
「帰国できないようなら別の手段を考えたけど、こうやってせっかく戻ってこれたんだ、一緒に選ばないとね」
そして向かったのは、私でも知っている有名なジュエリーショップ。職業柄その手のものはなかなか買わない私は、その洗練された店がまえに少しばかり尻込み状態。なのに裕章さんてば、平然とした様子でお店に入っている。やっぱり官僚さんっていうのは、私達とは違う世界に住んでいるのかも。
「
ん? 頼んでいたもの? 一緒に選ぶって話のはずよね?
首をかしげながら、裕章さんの後ろにくっついてお店の中を歩く。どこもかしこも、値段のお高そうなキラキラしたものでいっぱいだ。首から下げている金色のアヒルちゃんどころじゃない。
お店の奥にある、座り心地の良いソファがある個室に通された。そこで待っていると、スタッフさんが良い香りのするお茶を運んできてくれる。それからしばらくして、別のスタッフさんが入ってきた。
「お待たせしました」
テーブルの上に置かれたのは、ビロードが敷きつめられたトレー。そしてその真ん中には、キラキラと石のついた指輪が置かれていた。
「裕章さん、これ……」
「結婚指輪は一緒に選ぶけど、こっちは雛子さんを驚かそうと思って、僕が勝手に選ばせてもらったんだ」
「つまりこれって、あれよね?」
「うん。僕から雛子さんに贈る婚約指輪。仕事柄、石のついた指輪はしないってわかっているけど、どうしても贈りたくて、ちょっとしたサプライズで準備した。あの金ぴかなアヒルが、婚約指輪代わりとは思ってなかっただろ?」
ごめんなさい、もしかしたらそうかなと考えてました。
「これがちょっとしたサプライズ?」
「あれ、もしかしてかなりびっくりした?」
「当たり前じゃない! だって帰国するって決まったのは、二週間前よね?」
スタッフさんと裕章さんは、顔を見合わせて意味深な笑みを浮かべる。
「世の中には、インターネットという便利なツールもあるわけだし?」
「にしたって早すぎない?」
だってここのお店は、オーダーメイドしか取り扱ってないって聞いているもの。さすがに、二週間でなにもかも決めて完成させるなんて、無理でしょ?
「まあこれも、官僚様の特権ってやつかもね」
「……そこは聞かなかったことにする」
うん。婚約指輪を用意してくれたことはものすごく嬉しいけれど、最後の言葉だけは聞かなかったことにする。
そして私達は、結婚指輪選びをした。もちろん一般的な納期でお願いすることにしたのは、言うまでもない。
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