第五話 旅は道連れ
地球の裏側からわざわざ戻ってきただけのことはあって、裕章さんは連日遅くまで会議漬けだったし、私も
だけど本来は、声だけのやり取りでこんな風に顔を合わせることもなかったはずなんだから、それで文句を言ったら
そして、なんとか見送りに来る時間を捻り出して空港までついてきた私に、裕章さんはニコニコしながら手を差し出している。別にお
「なに?」
「僕はこれからあっちに戻るんだから、相棒を返してもらわないと」
「金ぴかのアヒルちゃんじゃダメなの?」
「それは僕が
はいはい渡してと、当然のように手を目の前で振られては、拒否できそうにない。
「これ、もともと私のアヒルなんだけどなあ……」
ブツブツとつぶやきながら、バッグの中に手を突っ込んだ。取り出したのは、心なしか不機嫌そうな顔になっている、アヒルちゃんのボールペン。ここしばらくは一緒に病院に出勤していたから、今日もバッグの中にいたのだ。
「そんなことわかってるよ。だけど雛子さん代わりになれるのは、そいつしかいないんだから」
「ねえ、こっちの子じゃダメ?」
そう言って、さらにバッグの中からペンギンのボールペンを出してみる。この子は、裕章さんが一番最初にくれたボールペンだ。
「それも僕があげたやつじゃないか。ダメダメ、それじゃあ、雛子さんの代わりにはならないよ」
「だって裕章さんがどんどん渡すから、自分で買う必要がなかったんだもの」
「だから僕がつれて行くのは、こっちのアヒルで良いんだよ」
裕章さんは、私が握りしめていたアヒルの黄色い頭をつかんで取り上げると、さっさと上着のポケットに入れてしまった。
「本当につれて行くつもり?」
「当然」
ポケットからこっちを見ているアヒルが、一瞬だけ泣きそうな顔に見えたのは、きっと気のせいだと思いたい。
「せっかく私の手元に戻ってきたのに……。夜中に寂しくて泣いちゃったりして」
「僕が気がつけたら慰めてやるよ」
でも裕章さんのことだから、きっと変な夢を見たなで終わっちゃう気がするんだけど……。
「そして僕から、雛子さんに渡すものはこっち」
テーブルの上に置かれたのは封筒が二つ。一つは随分と分厚い。
「もしかしてお勉強用のテキスト?」
「うん。あと半年で、これだけ覚えられるかどうかわからないけどね。仕事の合間に、
それでこんなに、分厚くなってしまったらしい。
「読めるように、カタカナで読み方はふっておいたけど、ちゃんとした発音のものもあった方が良いだろうから、それはあっちに戻ってからメールで送るよ」
「会議で忙しいのに、そんなことしてたの?」
パラパラと見ただけでもかなりの分量だ。しかもきちんとプリントされた状態。
「僕はちゃんと会議に出ていたよ。これをやってくれたのは、上野と
「たしかに」
スパルタな先生のお蔭が、今では随分と英語の会話がわかるようになっていた。試しに海外ドラマを吹替えではなく原語で観てみたら、すんなりと会話の内容が頭に入ってくるんだもの、自分でもこの半年の勉強の成果にビックリ。裕章さんが言うには、ちゃんと勉強をして基礎ができているんだから、当然なんだよってことらしい。
「で、こっちはなんなの?」
もう一方の封筒の中をのぞき込むと、パスポートの申請書らしきものが色々と入っていた。
「パスポートは有効期限が切れて、タンスの引き出しに寝ているって言ってたろ? いくら僕等が優秀でも、たった二日でパスポートを発行するのは無理だからね。これに必要なことを書いて、必要なものをそろえた上で、下田に渡すように。後の手配はとあいつがしてくれるから」
そうそう。これがないと裕章さんについていけないものね。……ん? でもなんでそこで下田さん?
「私が休みの日に、必要なものをそろえて旅券事務所に行けば良いのよね?」
どうしてわざわざ、そこで下田さんの名前が出てくるの?
「雛子さんが取得しなきゃいけないのは、一般旅券じゃないんだよ。雛子さんは僕の妻としてあっちに行くわけで、つまるところそれって、外交官の妻になって渡航するってことだろ?」
「そうだけど、それとこれとなんの関係が?」
よくわからなくて首をかしげてしまう。外交旅券というものが存在するのは、裕章さんが帰国した日に聞いたけど、申請の方法も違うものなの? 私はてっきり、普通に旅券事務所で申請すれば良いと思っていたんだけどな。
「外交旅券の申請は、一般のパスポートの申請とはちょっと違うんだよ」
「そうなの? へえ……知らなかった」
それを持つと、もしかして空港の入管でもめた時には、外交特権がどうの~なんてかっこいいことが言えるわけ?
「……雛子さん」
「なに?」
「きっと頭の中で、映画みたいなことを考えていると思うけど、外交旅券を持つことと、外交特権を行使できることは違うからね」
「……そうなの」
そういう事態に直面することなんてないだろうけど、なんだかちょっとガッカリ。
「ただ身体検査や荷物検査に関しては、雛子さんにも拒否してもらうことになるんだけどね」
「どうして?」
「たとえ家族でも、その手の文書やメモ書きを誰からことづかって、帰国することがあるかもしれないだろ? 渡された時だけ拒否したら、なにか持っているって丸分かりじゃないか。だから、いつも拒否しなくちゃいけないんだ。もちろん、外交パスポートを持っているってことを相手に伝えてのことだけどね。外交官の身体の不可侵というのを利用するわけだけど……雛子さん、大丈夫?」
私の目がボンヤリとしてきたせいか、裕章さんは言葉を切ってのぞき込んできた。
「多分、大丈夫。私って、医学以外のことに関してはほんとに無知なんだなってことが、いまさらのようにわかって、ガッカリしてるだけだから」
私が溜め息まじりにそう言うと、裕章さんは慰めるように私の手を軽く叩いてから握る。
「知らなくて当然だよ。こういうことは、関係ない世界の人には、知りようのないことなんだから」
「でも映画とかドラマでも、似たようにシーンはあるわけだし……」
「でも大半の人は、それを見てもノンフィクションだとは思わないだろ? あくまでもストーリーを面白くするための、
だけど本当は違うのよね? 外交官は、それぞれの国同士の情報戦の一役を担っていて、裕章さんもその一人なわけだ。
「なんだか、ちゃんと裕章さんの奥さんをやっていけるのか、心配になってきた……」
「そんなに難しく考えなくても大丈夫だよ」
「だと良いんだけど……」
西入先生が、ハッタリがきかせられる医者になれって言っていたけど、こっちでもそれが役に立ちそうな雰囲気。やっぱり今の世の中、バカ正直なままではいられないってことなのね。
「それで話は戻るけど、どうして下田さんに渡す必要があるの? 申請書を提出する窓口が違っても、休みを利用すれば問題ないんじゃ?」
「申請手続きが一般旅券よりもややこしいから、雛子さんが申請に出向くよりも、下田に任せた方が良いと思って」
普通の旅券発行の申請の時よりも、書かなきゃいけない書類が多いらしい。それとパスポート用に使う写真の判定も、一般旅券で使用する時よりも厳しいんだとか。
「年内にきちんと提出しておいた方が、書類に不備があった時に安心だから、クリスマスイブまでに必要なものをすべてそろえて、病院に持って来てくれるかな、下田が受け取るから」
「なんで病院? しかもどうしてそこで、クリスマスイブなの?」
私の問い掛けに、裕章さんは珍しくニヤリと笑った。
「下田が
「え、うそ、本当に?! 私まだ、臼井さんからそんなこと聞いてない!」
そりゃ裕章さんが入院していた時、しょっちゅう詰め所に入りびたってはも臼井さんに声をかけていたのは知っていた。だけど、デートに誘うことに成功したなんて話は聞いていない。っていうか、いつの間に二人とも付き合っていたの?!
「そりゃね。下田からしたら、ピヨピヨさんににらまれるから、怖くて言えないってさ」
「ちょっと。私は人の恋路を邪魔するようなヤボなことはしませんー……仕事の邪魔にならなければの話だけれど。でも臼井さんも水臭いなあ、下田さんと付き合っているなら、話してくれれば良いのに」
まあ彼女とは働いている病棟が離れていたから、しかたがないことなのかもしれない。これは臼井さんから、色々と聞き出さなければ。
「あ、そうだ。色々と話してくれたついでに聞いておこうかな。いま申請したら、
今のうちに色々と聞いておかなくちゃと、質問をする。
「それは窓口で訂正申請できるから。婚姻届を提出した時に一緒にできるよ。その時に必要なものもメモ書きしてあるから、その時に一緒にすれば問題ない。僕の苗字で、パスポートを取得したり銀行口座やカードの名義を変更するのは、あっちで一度落ち着いてからってことだね」
「なるほど、これですっきりした。とにかく私はここに入っている書類に記入をして、必要なものを用意すれば良いってことね?」
「そういうこと」
「ねえ、それももしかして、官僚様特権なの?」
「さあ、どうだろう」
裕章さんは私の質問に笑っただけで答えてくれなかった。
そしていよいよ、裕章さんが乗る飛行機の搭乗時間が迫ってきた。裕章さんは保安ゲートの前で立ち止まると、私の方を見た。
「次に会うのは、雛子さんを迎えにくる時になるね。雛子さんはアパートを引き払ったり、色々としなくちゃいけない準備があって忙しくなるだろうけど、体にだけは気をつけて」
「大丈夫、体だけは丈夫だから。後の心配は……研修が無事に終わらないことぐらいじゃないかな」
「それは困るな。あとはお父さんの機嫌がなおるように祈ってるよ。せめて見送りぐらいは、笑顔でしてほしいからね」
「あー、それが一番難題かもしれない」
とにかくアパートにある家財道具のほとんどは、実家で預かってもらうつもりでいる。家電製品に関しては、病院の当直室で使えそうなものは引き取ってもらえるはずだし、裕章さんが考えているよりは、楽に終われそうな感じだ。一番の問題は、やっぱり父親の御機嫌かもしれない。
「ねえ、裕章さん」
「ん?」
「本当につれて行っちゃうの?」
そう言いながら、ポケットからこっちを見ているアヒルを指さす。
「うん。こいつを雛子さんだと思って大事にするよ」
「……じゃあアヒルちゃん、また半年後ね」
ツンツンと黄色い頭をつついてそう話しかけた。
「じゃ、そろそろだから」
「気をつけてね。次に会う時には、やつれてないことを祈ってます」
「雛子さんもね」
裕章さんは、手荷物を持ったまま私のことを一度だけ抱きしめると、名残惜しそうな顔をしながら、保安ゲートの方へと歩いていった。
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