第二話 アヒルも一応里帰り
ホテルに向かう途中で、
耳に蓋をして、できるだけ聞かないようにはしていたけど、誰かに帰国してホテルに向かっていること、明日のお昼から外務省に出向く
あ、しっかり聞いちゃっているじゃない。耳栓、耳栓。
「すまない」
携帯電話を切ってから、申し訳なさそうな顔で裕章さんがこっちを見た。
「ううん。私は別にかまわないから気にしないで。長距離移動をして、次の日からいきなり仕事なんて大変だね。時差ボケとか大丈夫なの?」
裕章さんの赴任先は地球の裏側で、時差はほぼ十二時間。ってことは、今はあっちはお昼前。
「まあ、そのへんは慣れかな。明日は昼からの登庁でかまわないし、滞在中に日曜日があるから、少なくともその日は休めるからね」
「土曜日は?」
「残念ながら、今回は休日出勤ってやつ。
「私は珍しく土日はお休みなの」
別に意識してその日を休みにしたわけではなく、担当している病棟に重篤な患者さんがいないので、外来が休みの土日がお休みになっただけなのだ。
「そうか……。だったら土曜日の夜、こっちの仕事が早く終わったら、待ち合わせしようか」
「大丈夫なの? 仕事を持ち帰ってきて、準備したりする時間が必要なんじゃ?」
「それはこっちの連中の仕事だよ。僕はあくまでも使いっぱしりで、あっちとこっちの意見の橋渡しだから」
その代わりホテルに帰ったら、赴任先の大使さんにその日に決まったことを報告して、意見を求める一手間があるらしい。その件に関しては、逆に時差があって良かったって感じなのよね、大使館のお仕事が始まる時間が、ちょうど部屋に戻ってくる時間らしいから。
「あ、そうだ。裕章さん、ちゃんと連れて来てくれた?」
「なにを?」
問い掛けに首をかしげているけど、私がなんのことを言っているのか、裕章さんがちゃんと理解していることは分かっている。
「私のアヒルちゃん」
「ちゃんと連れてきたよ。連れてこないと、雛子さんが会ってくれないと思って」
黙って手を差し出したら、驚いた顔をしている。
「え、今?」
「だってジャケットの内ポケットに、絶対、入っているはずだもの」
「お見通しってわけか……はい、どうぞ」
裕章さんが笑いながら、ジャケットの内ポケットから取り出した黄色いボールペン。間違いなく私のアヒルちゃんだ。アヒルを受け取ると、カバンの中にしまい込んだ。
「保安検査でうっかりアヒルが見つかりでもしたら、絶対に僕は痛い人あつかいだ」
「可愛いアヒルちゃんなのに、痛い人だなんてひどい。あ、でも。外交官だから、保安検査は受けなくても良いのよね?」
前に見た映画でそんなことを言っていたような気がして質問をする。
「受けなくても良いってわけじゃなくて、外交官は、常に保安検査を受けることを拒否しなくちゃいけないんだよ。雛子さんもあっちに行く時は、僕と同じだからね」
「そうなの? 私は外交官じゃないのに?」
ピンと来なくて首をかしげてしまう。
「僕の家族としてもあっちに行く時はね。それにパスポートも、僕と同じ外交旅券だよ」
「なんだかスパイ映画みたいね」
なんだかちょっとだけワクワクしちゃうのは、しかたがないかもしれない。
「当たらずとも遠からずってやつかな。そのへんのことは、その時になったらあらためて説明するよ」
「そういうことは、裕章さんが詳しいんだからお任せします。あ、それと……」
バッグの中にきちんとアヒルがおさまっているか確認してから、裕章さんの方を見る。
「私のバッグから、アヒルちゃんを勝手に出したりしたら、許しませんからね」
「はいはい。僕がこっちにいる間は預けておくよ」
なんだか引っ掛かる言い方。
「こっちにいる間って」
「言葉の通りの意味だけど?」
「まさか、またあっちにつれて帰るつもり?」
せっかく私の手元に戻ってきたんだもの、再びつれて行かれるわけにはいかないんだけれど。
「そいつ、あっちの大使館でも人気者だから、帰ってこなかったら、ガッカリするスタッフもいるってこと」
「……私のアヒルちゃんなのに」
「いつの間にか、雛子さんが自分の代わりに連れて行ってくれって、渡したことになってるよ」
「それ、全然違うじゃない」
別に私は、自分の身代わりとしてアヒルちゃんを裕章さんに託したわけじゃない。最初から裕章さんがデートの保険にと人質につれて行って、そのまま返してもらえずにあっちにつれて行かれただけなのに。
「随分と都合の良い話になってるのね」
「そういうロマンチックな話が大好きなんだよ、女性スタッフは」
「ふーん……」
私が
「あ、別に女性スタッフと特別親しくなったわけじゃないよ? アヒルをオフィスにつれて行ってるから、それに気づいた人と仕事の合間に、世間話程度に話をしただけだから」
「私、なにも言ってませんけどー」
「とにかく、雛子さんが来てくれるまでは、僕にとっては雛子さん代わりの大事な相棒なんだから、あっちに戻る時には、もう一度預かっていきたいんだけどな……雛子さんがいないと寂しいからさ」
その言葉にバッグの中から、アヒルの抗議の声が聞こえたような気がした。だけど寂しいからなんて言われたら、強く拒否できないじゃない……?
「じゃあ、裕章さんがあっちに戻る日まで、どうするか考えておく」
「お願いします」
私達がお互いに近況報告をしている間に、タクシーはホテルの敷地に入った。
近代的な建築デザインのホテルが増える中、こうやって見ると一部だけとは言え、昔ながらのたたずまいを残しているなんて、すごくおしゃれなホテルよね。海外の俳優さんや、大企業のお偉いさん達に人気があるのもうなづける。
フロントでチェックインをしてルームキーを受け取ると、一緒にエレベーターホールへと向かう。
「ああ、そうそう。
「変な病気……。一体あの先生達は、僕がどんな病気をもらってきたと、思ってるんだろうね」
「さあ。南米独特の風土病とかを、心配しているんじゃないかしら」
腸チフスとかマラリアとか、最近じゃあまり聞かないけど、完全に消えたわけではないし? だけど裕章さんの反応からして、違うような気がしてきた。もしかして男同士でしか分からない話だとか?
「私が見た感じでは、厄介な病気とは無関係そうよね、多少は
「お陰様で。行く前にちゃんと予防接種もしたし、幸いなことに宿舎の近くには、きちんとしいた食品店があるからね。ああそうだ、日系の人も多いから、和食のお店もあるんだよ。まあ完全な日本食っていうわけに、はいかないけどね」
エレベーターはかなり上のフロアで止まった。
これから一週間、裕章さんが
もしかして、違うグレードの部屋じゃ?と裕章さんに質問をしてみれば、僕がとったわけじゃないから分からないよと返事をしつつ、さりげなく視線をそらしたところからして、かなり怪しい、って言うか絶対に怪しい。
「ほんと、一人でこんな部屋を使うなんて、やっぱり
「雛子さんは国会議員にでもなって、外務省の無駄づかいを
「まさか。ちょっと驚いているだけ。あ、バスルームがどんなのか見てきて良い?」
「まったく雛子さんときたら……」
裕章さんが笑いながらどうぞと言ってくれたので、遠慮なくのぞかせてもらうことにする。
「わお! バスタブとシャワーブースが別々にある」
「そんなに気に入ったんなら、すぐにでも使ってみたら?」
さすが
「良いの?」
「仕事が終わって
どうしようか迷ったけれど、もしかしたら部外者の私には、聞かれたくない話でもあるのかもしれないと思い至った。
「じゃあ……遠慮なく使わせてもらおうかな」
「うん。あとから僕も行くから、ゆっくり温まっておいで」
それから一時間後、お風呂から出た私達はベッドの中にいた。半年ぶりに肌を触れ合わせると、お互いにあっと言う間に我を忘れて、それまでの時間の埋め合わせをするように激しく愛し合った。
そして気がつけば、日付が変わって数時間が経っていた。
「明日、仕事なのに……」
息を整えながら、裕章さんの顔を見上げる。
「僕は平気だよ。こうやって雛子さんに触れるて元気を充電できたから」
そう言いながら裕章さんは、私の首筋に顔をうずめてぬれたキスを落とした。
「だけど、こんなに
「雛子さんは僕と愛し合いたくないのかい?」
「そんなことない。裕章さんの健康状態が心配なだけ」
「僕の体は、どこもかしこも健康で問題ないよ。まああるとすれば、物理性
さっきまであれほど激しく愛し合ったというのに、まだ元気いっぱいな体の一部を私に押しつけてくる。
「これをなん何とかできるのは、雛子さんだけだから」
「睡眠をとらなくて大丈夫なの?」
「睡眠よりこっちが大事。半年間も、雛子さん無しですごしてきたんだからね。僕の主治医なら、こっちをなんとかしてください、雛子先生」
「それってなんだか違う気がする……」
そう言いながらもこうやって抱き合えるのが嬉しくて、裕章さんの背中に腕を回した。
+++++
『良かったじゃないか、半年で帰ってこれて』
呑気な声達に、バタバタと羽ばたく気配がした。
『安心できるもんか! 不吉なことも言ってたみたいだし!!』
『だけど、あっちでも人気者なんだろ?』
『昼間はうるさくて、おちおち昼寝もできやしないよ。しかもやたらに僕のことをかまいたがるんだ』
溜め息まじりの愚痴が聞こえてくる。
『相手は大人なんだろ? 小さな怪獣達に襲われることを考えたら、パラダイスじゃないか』
『あ、そうそう、パラダイスで思い出したよ。バカンスの感想は? あっちはどんな感じ? どこかに出かけた?』
『こっちと大して変わらないよ。たまに夜中にパトカーが走り回るぐらいで』
その答えに、不安げな声があがった。
『それって十分に変わってることじゃ? 僕、日本に残りたくなってきた』
『なに言ってるんだ。僕がこれだけ苦労してるんだ、君達もその苦労を分かち合うべきだ!』
その声に、えーっと抗議の声がいっせいにあがった。
『ねえねえ、ところでさ、君があっちに行っている間に調べたんだけど、外交特権ってなにー?』
『僕達にも関係ある?』
『あるわけないじゃないか。いや、あるのかな? 他のお客と違って、手荷物検査もされずに飛行機に乗れるんだ』
『へえ、外交特権って便利だね。他にも便利なことある?』
『飛行機でふぁーすとくらすってところだったことぐらいかな。随分と静かでゆっくりと寝られたよ』
それは良いねえと喜ぶ声がする。
『だけど僕達は貨物扱いなのかな。貨物にもふぁーすとくらすあるのかな』
『さすがにないよね。皆で行く時は我慢かな』
『でもさ、留守番って可能性はない? 御主人様の実家とか』
『それはそれで楽かもね。会議の時に飛んでいけば良いだけだし』
『でもバカンスは行きたいよ』
『パトカー怖い』
その日の夜は随分と長い間、足元でワイワイと話し合いの気配がしていたような気がしたけど、きっとこれは、アヒルちゃんが帰ってきたことが嬉しくて見た夢なんだと思う。
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