僕の主治医さん 第三部

第一話 南山さんの一時帰国

 裕章ひろあきさんが、本省への出張を兼ねて一時帰国することが決まったのは、十月に入ってからのことだった。裕章さんいわく、下っ端外交官の使い走りなんだそうだ。地球の裏側からなんて、随分と長距離で壮大な使い走りよね。


北川きたがわ先生、今朝はなんだか御機嫌な様子だねえ。なにか良いことでもあったんかね?」

「そうですか? 自分では気づきませんでしたけど~」


 朝の回診で、患者さんに聴診器を当てていた時に、そんなふうに言われた。


「その顔からして、きっと良いことがなにかあったに違いない」

「うんうん、絶対に嬉しいことがあった顔だねえ」


 そこの大部屋の患者さん達全員にニヤニヤしながら言われて、慌てて顔を引き締める。


「そんなに御機嫌な顔をしていたかな?」


 病室を出てからトイレに駆け込み、鏡をのぞきこむ。そして自分の顔を、じっくり観察してした。一ケ月前に髪を切ったぐらいで、特に変わったところはないと思うんだけどな。そんなことをつぶやきながらトイレから出ると、西入にしいり先生と鉢合わせした。


「あ、おはようございます、西入先生」

「おはよう。……なんだか嬉しそうな顔をしているね。僕に会えて、喜んでいるわけでもなさそうだけど?」


 なんで西入先生にまで?


「別に嬉しそうな顔なんてしてませんよ。朝からずっと患者さんにもそう言われているんですけど、特にニヘラニヘラしているわけでもないのに、まったく謎です」

「ああ、もしかして。予定外な盲腸さんの帰国が決まったのかな?」


 ここで反応したらダメだと言い聞かせ、頑張って表情を変えないように頑張ってみた。だけど、逆にそれがいけなかったらしい。先生は可笑しそうな笑いながら、私のほっぺたを軽くつまんできた。


「嬉しい時は嬉しそうな顔をすれば良いじゃないか。誰も責めたりしないから」

「だけど、ハッタリが上手にならなきゃいけないんですよね、お医者さんって」

「それとこれとは別だよ。それで? 帰ってくるのかい? 君の盲腸さん」


 相変わらず西入先生と東出ひがしで先生は、裕章さんのことを盲腸さんと呼んでいる。だけどもう彼のお腹の中には、盲腸さんはいないんだけどなあ……。


「盲腸は先生が切除しちゃったじゃないですか。南山みなみやまさんは、もう盲腸さんじゃありませんよ?」

「じゃあ、元、盲腸さん」


 先生達は、なにがなんでも、盲腸という呼び名を使い続けたいらしい。まったく困った人達なんだから。


「来週から一週間程度、こっちに出張で帰国するそうです」

「休暇ではないのか」

「はい。簡単にはお休みは取れないみたいで、この帰国も、本省であれこれとお仕事なんだそうですよ」


 それでも一年は会えないと思っていたから、今回の裕章さんの予定外の帰国はかなり嬉しい。こっちにいる間に、一回ぐらいお食事デートができたら良いなあ……なんて考えている。あ、時間が合えば、空港に迎えに行くのもありだよね。メールで何時着の便か、聞いておかなくちゃ。


「外交官というのも、大変な仕事なんだねえ。北川君、それでもついていくのかい?」

「当たり前ですよ。それに私がついていけば、少なくとも裕章さんの健康管理は、ちゃんと見守ることができるじゃないですか」

「大使館にも医務官がいるはずじゃ……?」

「裕章さんは私の患者さんですからね。他のお医者さんには任せられません」

「おやおや、朝から御馳走様」

「私は真面目に言ってるんですよ」


 ニヤニヤされて、ちょっとムッとしながら先生を見上げた。


「うんうん、真面目に御馳走様」

「……」


 ダメだ。なにを言っても、惚気のろけているとしか思われてないみたい……。


「嬉しい気持ちを表すのは一向にかまわないけど、独り身の先生の前ではあまり惚気のろけないように」


 意味深な言葉に、首をかしげた。


「……それって誰のことを言ってるんですか?」

「さあ、誰だろう? うちの病院には、若くて独り身な先生は意外と多いしね」


 ニコニコしている先生の顔を見ながら頭に浮かんだのは、若い先生ではなく、不機嫌そうな顔をした大柄なグリズリー先生だった。



+++++



 そして南山さんが帰国する日、私達は空港の到着ロビーで待ち合わせることになった。


 夜遅くの到着便だったので、すでに閉まっているお店もあって、歩いている人の姿もまばら。人の少ない空港ロビーって、なんだか不気味だ……。そんなことを考えながら、ベンチに座ってゲートから出てくる人を眺めていると、半年ぶりの懐かしい顔が見えた。


「裕章さん!」


 立ち上がって手を振ると、すぐに気がついて、手をあげてこっちに応えた。彼の元に駆け寄ると、まずは顔色のチェックから。うん、顔色は悪くないかな、だけど……。


「少しせた?」


 私の問い掛けに、裕章さんは首をかしげる。


「そうかな? まあ仕事が仕事だし、不規則な勤務時間が続いていたからね。出来合いのものばかり食べて、太るよりはマシかな……」

「だけどせるのも良くない。やっぱり、一緒について行ってあげれば良かったかな」


 裕章さんは私の言葉に、とんでもないと言わんばかりの顔をする。


「ダメダメ。雛子ひなこさんは研修を終えることが最優先事項だろ? それより雛子さん、僕にただいまも言わせてくれないのかい?」

「あ、御免なさい、ついクセで」

「まったく僕の主治医さんときたら、本当に仕事熱心なんだから」


 そう言いながら荷物を足元に置くと、裕章さんは私のことを抱き寄せてキスをしてきた。しばらくして顔を上げると、いきなりのキスに固まってしまった私を見下ろして、ニッコリと微笑む。


「ただいま、雛子さん」

「お、お帰りなさい。……ここ、空港なんだけど」

「わかっているよ」

「これって公然猥褻罪こうぜんわいせつざいになるんじゃ……」

「もう遅い時間でそんなに人もいないことだし、問題ないよ。それに、あの怖いお巡りさんもいないしね」


 そう言って片目をつぶってみせる。


「そ、そうかな……」

「そうだよ。誰も見ていないから心配ないよ。じゃあ行こうか」


 裕章さんは荷物を持つと、私の腰に手を回して歩き出した。海外で仕事をしている間に、大胆になった?


「どうした?」

「え? えーっと、海外で暮らすと、色々と大胆になるのかなって」

「ただいまのキスのこと?」

「それもあるけど、今のこれとか……」


 腰に回された手を指す。


「特に意識しているわけじゃないけど、久し振りだからかな」

「そうなの?」

「うん。それより、こんな時間に迎えに来てくれるなんて思わなかったよ」

「ちょうど明日がお休みだから」

「そうか。残念だな、僕は明日から仕事だ」


 無念そうに笑っている。


「それはしかたがないよ。今回の帰国は休暇じゃないんだから」


 海外にいる外交官さん達の休暇事情が、どういうものか良くわからないんだけど、裕章さんの話を聞いていると、土日祝日のお休みは普通にあっても、こうやって帰国できるようなお休みは、認められてはいるものの、そうそう取れないらしいということがわかった。今回の一時帰国だって、休暇ではなく仕事なのだ。


「でも、まさか一年経たずに会えるとは思ってなかったから、嬉しいよね」

「まあね。こうやって雛子さんに会えるだけでも、幸せだと思わなきゃいけないんだよな。……今夜は帰らなくても良いんだよね」


 裕章さんは、意味深な笑みを口元に浮かべながら言った。その顔を見たら、急に心臓がドキドキとしてきてしまった。私、本当に裕章さんに会いたかったんだなあって、いまさらだけど実感してしまう。


「どうした?」

「ううん、なんでもない。それで行こうかっていうのは良いんだけど……裕章さん、どこで寝泊まりするつもりなの?」


 それまで住んでいたマンションを、赴任前に引き払っていたはずだ。実家は千葉だし、短期間とは言え通勤するにはちょっと遠くない? まさか私のアパートじゃないよね? そりゃあ裕章さんは何度か泊ったことはあったけど、一週間も長逗留ながとうりゅうするには、ちょっと不向きな狭さなんだけど……。


「ああ、そのことか。出張の間は、本省がとってくれたホテルに泊まることになってるよ」

「へえ、そうなんだ。どこか空きの官舎にでも、押し込められるのかと思ってた」

「まさか」


 タクシーが待っている場所にたどりつくと、荷物をトランクに乗せてもらって二人で車に乗り込んだ。


「レグネンスホテルに」


 その名前を聞いてちょっとビックリ。その辺のビジネスホテルにでも泊まるのかと思ったら、まさかの高級老舗しにせホテルとは! 私の驚いた顔を見て、裕章さんは愉快そうに口元を歪めた。


「こういうところが、お役所仕事の無駄遣いって責められるんだよね。だけどきちんしたところでないと、機密性のことや諸々の問題があるからね。高いところを利用するのも、それなりに理由があるんだよ」

「私はなにも言ってない」

「でも顔が、なんてお高いホテルなのって言ってる」


 まあ確かに頭に浮かんだのは、誰が宿泊費を払うんだろうってことなんだけど。


 ん……? 待って、っていうことは。


「ねえ、私が一緒に行っても良いの? 滞在費は公費なんでしょ?」

「雛子さんが増えたからって、追加料金が発生するわけじゃないから問題ないと思うよ? そりゃあ、雛子さんがレストランであれこれ飲み食いして、それを経費につけたら大問題なるけど」


 なるほど。じゃあ、私が食べたり飲んだりした分は、別料金として私が支払えば良いってことね? それなら安心。


「そんなすごいホテルに泊まるの初めて」

「部屋は普通のツインだから、他のホテルとたいして変わらないと思うんだけどな」

「それは霞が関のお役人様の意見でしょ? 私みたいに貧乏研修医からしたら、どの部屋でも、たとえそこがお掃除道具入れの場所でも、高級なの」

「いや、さすがに掃除道具のしまってある部屋は、普通だと思うけどなあ……」


 タクシーの運転手さんが、変な咳をしたような気がするけど気にしない。


「だって、調度品でもすごいって話は聞いたことあるもの。きっとお掃除道具だって、ものすごく高級な物がそろえてあると思う」


 うん、間違いない。私がそう力説すると、裕章さんはやれやれと笑いながら溜め息をついた。


「まったく雛子さんときたら。僕と一緒にいられることよりも、レグネンスホテルに泊まれることの方が、大事みたいじゃないか」

「そうとも言う。なんだか今から興味津々きょうみしんしん


 そう言い返すと、裕章さんはしかたがないなあと笑った。もちろんそれが本気じゃないことは、どちらもわかっていることなんだけれど。



 そんなわけで、半年ぶりに私達は一緒に夜をすごすことになった。

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