第二十二話 お迎えまでのカウントダウン
「はあ……行きたくない……」
さっきからそんな溜め息をつきながら、私に張りついている将来有望株の外交官さんが約一名。
「なに言ってるの。うちの父親や先生達に、
「それは僕じゃなかったのかもしれない。いまさらだけど、ものすごく後悔してる」
「どのあたりを?」
私の言葉に、さらに大きな溜め息が、裕章さんの口からもれた。
+++
『そういうわけで、先生方が手塩にかけて育てている
一ヶ月ほど前、日本を離れる前に裕章さんは、いつぞやの無理なお願いを聞き入れてもらったお礼をと、理事長先生と
『分かった分かった。この一年の間にできる限りの知識はつめ込んで送り出してやるから、安心して迎えに来い』
その裕章さんの言葉に対して、東出先生の返事がこれだった。
『もちろんその知識というのは、医学知識限定と言うことですよね?』
『当たり前だ。俺をなんだと思っているんだ』
『いえ。経験上、
『そういうことか。寝言は寝て言え、まったく……』
ニコニコしている裕章さんとは対照的に、東出先生は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。そして渋い顔をしているのは、理事長先生もだった。
『やれやれ。また君達に、優秀な医師を引き抜かれちゃうのか。うちの病院にとって、外務省は鬼門なのかねえ』
『そんなこと言わないでください。理事長先生には、うちの事務次官も感謝しております』
『そう? でも今回が最後だよって言っておいてくれる? うちだって、手間暇をかけて若い子達を育てているんだからさ』
『はい。伝えておきます』
どうやら、こういうことが起きたのは私が初めてではないらしい。初めてではないお蔭か、ノウハウはうちの病院内で出来上がっているようで、裕章さんについて行っても、その先々で医者として働くことができそうだ。現地邦人にとっては、日本人医師が自分達の住む近くにいるということは心強いことらしいので、外務省としても歓迎するとのことだった。ただし、私の語学能力次第らしいけど。
+++
「とにかく色々な点で」
そう言って、私のことにギュっと抱き締めてきた。裕章さんの乗る飛行機は、明日の午後八時発の便。聞いたところによると、直行便はなく、ニューヨークを経由して赴任先の首都に向かうらしい。そしてその時間は、何と二十五時間。聞いただけで腰が痛くなりそうだ。
「一年の我慢でしょ? 出世のために我慢しなきゃ。なにをするにも、偉くならなきゃお話にならないんだから」
「分かっているけど、本音で言えば、
「待ってもらえるものなの?」
「内示を蹴ったら、出世街道からはしばらく外されるだろうね。だけど僕にとって雛子さんは、出世よりも大切だから」
そして再び「ああ行きたくない」とつぶやいた。
「そういう往生際の悪いところって、私の父に似てるかも……」
「だったら、お父さんとは気が合いそうだ」
「父はそんなこと、爪の先も思ってないでしょうけどね」
そう。あの日は勢いで裕章さんと挨拶はしたものの、その後の父親は相変わらず逃げ回っているのだ。
「だけど、あと一年したら、裕章さんと一緒にあっちこっちの国に行けるようになるんだね、遊びじゃなくて仕事でだけど。なんだか楽しみだな。私、外国なんて家族旅行でハワイに行ったことしかなんだもの」
「またそんな可愛いことを言って。そんなに罰則を受けたいのかい?」
後ろから回されていた手が、ブラウスのボタンをはずし始めたので、慌てて制止するように軽く叩いた。
「楽しみにしているドラマが始まるんだからやめて。それに明日はもう出発でしょ? こんなことしている場合じゃないと思うんだけど」
「雛子さんは、僕よりドラマの方が大事なのか。録画もしてあるやつなのに」
ビデオデッキ
「それに明日が出発だからこそ、いつも以上にこうしていたいんだろ? 雛子さんも明日は休みなんだし、なんの問題が?」
「もっと話をするとか有意義に使いたいと思わない?」
「これも十分に有意義です」
「そうなんですか……」
そして分かったことは、フローリングの部屋で何も敷かずにエッチするのは、お勧めできないということだった。
+++++
「なんだかしばらく来ないうちに、随分と変わった……」
次の日、南山さんを見送りに来た私は、久し振りに見る空港内の変わりように、ちょっとした浦島太郎の気分を味わっていた。
「雛子さん、あまりキョロキョロしていると人にぶつかるよ」
裕章さんがあきれたように笑う。
「だって、記憶にある空港と大違いなんだもの」
「まあ確かに、にここ最近で綺麗になったね。じゃあ僕は搭乗手続きをしてくるから、ここで待っていて。ウロウロして迷子にならないように」
「一歩も動きませんから、御安心を」
笑いながら裕章さんが航空会社のカウンターに向かうのを見送ってから、あらためて周囲を見渡す。家族旅行でここに来たのは、まだ祖母が元気にしていた十五年ぐらい前のことだった。そんなことを考えながら、あちこちに視線を飛ばしていると、裕章さんが戻ってきた。
「お待たせ。雛子さんはここまでしか入れないから、あっちでお茶でもしようか」
「あそこに可愛いカフェがあるから入ってみたいな」
「オッケー、あそこにしよう」
カフェでそれぞれ、コーヒーとカフェオレを頼んで席に落ち着く。
「ところで、
「ん? 上野達には壮行会をしてもらったよ。それと実家にも、部屋を引き払ってからちゃんと戻っていたし」
「それは分かっているけど、普通は見送りに来ないのかなって」
見送りが私一人だけだなんて寂しくない?と尋ねてみる。
「皆、気をつかってくれているんだよ。僕と雛子さんが、二人っきりでいられるようにって」
「え、そうだったの?」
「うん。昨日だって雛子さんちに泊めてもらっただろ? うちの両親も僕の気持ちを分かっているから、今日は遠慮しておくって言ってたよ」
「御両親に申し訳ない気がしてきた。息子の見送りができないなんて悲しくない? 私は遠慮なんてして欲しくなかったのに」
「僕は遠慮してもらって助かった、そうでなかったら、ギリギリまで雛子さんを抱いていられなかったじゃないか」
私の言葉に、裕章さんはしれっとした顔で言い放った。
「あ、そうだ」
「?」
手を差し出した私に、首をかしげる裕章さん。
「なに?」
「私に渡すものがあるでしょ?」
「指輪?」
「違う」
「部屋の合鍵は返したよね?」
「返すは当たっているけど、物が違う」
さらに首をかしげて考え込んでいる。この顔、本気で分からないのか、それとも分かっていてしらばっくれているのか、見ているだけでは判断できないところが非常に厄介。
「んー……? 東出先生にはトレーナー返したよね?」
「ちがーう! アヒルよ、アヒル! 私のアヒルちゃんをいい加減に返してください。裕章さんのことだから、今も持ってるんでしょ?」
ああそれのことかと、裕章さんが納得した顔をする。
「ああ、あいつのことか。今頃は一足先にあっちに到着していると思うよ?」
「え?!」
「当たり前じゃないか。今やあのアヒルは僕の大切な相棒だからね。僕が雛子さんと離れて寂しい思いをするんだから、あいつにもその寂しさを分かち合ってもらわないと」
「ちょっと……いつのまに相棒……」
あまりのことに
「そういうわけだから、雛子さんにはこっちを預けておく」
渡されたのはカモメのボールペン。
「また違うボールペンとか……ん?」
よく見るとカモメが首に何かを引っ掛けている。
「ペンダント?」
カモメの首にグルグルと金色のチェーンが巻きつけてあって、ちょうど顔の下にペンダントトップがくるようになっていた。そしてペンダントトップがなぜか金色のアヒル……。
「さすがに探し出すのに苦労したよ」
「アヒルだ……」
「うん、雛子さんはアヒルにご執心らしいからね。指輪にしようかとも考えたんだけど、仕事柄はめない人が多いって聞いたものだから。一年後、アヒルに再会できるまでは、それで我慢しておくように」
私のアヒルの代わりと言うわりには豪勢な子がやってきたものだと、まじまじと金色のアヒルを見つめてしまった。
「気に入ってくれた?」
「うん、両方ともね。明日の仕事から、この子とこの子を連れて行く。ありがとう」
カモメのボールペンを振りながらうなづいた。
「とは言え、あのアヒルを返してくれたら、なお嬉しかったんだけど」
「あいつと再会したいなら、一年後に僕についてくることだね。あいつはきっと大使館のアイドルになるだろうから、当分は日本に戻ってこれないだろうし」
裕章さんがすました顔で言う。
「ついて行っても、返してもらえそうな気がしないのはなぜ……」
「さあ、それは雛子さんの考えすぎじゃないかな」
そう? 私の考えすぎじゃないと思うんだけどな……。
そして裕章さんは赴任地へと旅立っていった。その夜、なぜか動物達が大騒ぎして話し合っている夢を見た気がするんだけれど、よく覚えていない。
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