第二十一話 可愛いのは反則
「ごめんなさい、なかなか御挨拶に行けなくて」
いつものように待ち合わせをして、遅めの夕飯を食べている時に謝った。前の休みの日に挨拶にうかがおうと予定していたのに、受け持っている患者さんの具合が急変して、休みを返上することになり急遽、取り止めになったのだ。
「しかたがないよ。患者さんを放って休むわけにいかないのは、医者として当然のことだし、
「それは、裕章さんが入院していた時の病室でってことでしょ? そんなの、挨拶の内に入らないんじゃ?」
そうとも言うねと、裕章さんは呑気なものだ。私が礼儀のなってない人間だって思われたら困るでしょ?と言っても、そこは研修医は多忙だってことを知っているから、大丈夫だよと言って取り合ってくれない。
「うちの両親の予定もだけど、雛子さんの休みと僕の休みがうまく重ならないのも、あっちに行けない原因の一つだろ? 半分以上は僕の家族側のせいでもあるんだから、そんなに心配することはないよ」
「でも……」
「大丈夫。そのへんのことも、うちの両親はちゃんと理解しているから。そこまで雛子さんが、神経質になることはないよ」
「裕章さんはちゃんと、うちの両親に挨拶したのに」
大丈夫だと言われても、私の方が挨拶をしないままでいる状態に、落ち着かないのだ。
「それはそうと、祖父が言っていたよ、お前は盲腸を取られたばかりか、
そんなことはまったく気にしていない様子の裕章さんは、相変わらず呑気な口調でそう言えばと話し始めた。
裕章さんのお爺さん。日本人なのに、不思議と英国紳士のような雰囲気をまとった、素敵な老紳士だ。そして、そんなお爺様と裕章さんはよく似ていた。彼も年を取ったら、あのお爺様みたいな素敵な老紳士になるのだろうか?
「……お爺様って、なんだかロマンチストね。とは言っても、盲腸を切除して取り除いたのは私じゃなくて
「うん。そこは祖父に内緒にしてある。年寄りの夢を壊したら可哀想だろ?」
そう言って、
「随分とお爺様思いだこと」
「そりゃあ、尊敬している大先輩だからね」
その言葉にピンとくるものがあった。大先輩? もしかして裕章さんのお爺様は……
「裕章さんのお爺様って、もしかして外交官だったの?」
「そうだよ。定年で退官するまで、ずっとヨーロッパ方面を転々としていたらしい。赴任先の国で留学中の祖母と出会って、そのまま結婚したそうなんだ」
「そういう出会いもあるものなのね。なんだかロマンチック」
外交官と留学生の恋なんて、本屋で売られているロマンス小説に出てきそうな設定だ。
「それに比べると、急患として僕が雛子さんの勤めている病院に運ばれてきたのは、あまりロマンチックな出会いじゃないね」
裕章さんが残念そうに笑った。
「そう? 考えようによってはロマンチックだし、ドラマチックなんじゃない? 人生、なにが幸いするか分からないっていう点でも、面白いし」
しかもボールペンを人質に取ってデートを迫るなんて、なかなかないと思う。
「僕にとって雛子さんが主治医になってくれたことは、ものすごくラッキーだった」
最初は恥ずかしかったけどねと、付け加える。
「じゃあ、
「そうなのかい? じゃあ、東出先生が僕達のキューピットってことか」
「……やめて。変な映像が頭に浮かんじゃうから」
そう言って真面目な顔をしてこらえようとしたけど、我慢できずにプッと噴き出してしまった。裕章さんの口元もムズムズしているところを見ると、多分私と同じようなものが脳裏に浮かんでいるに違いない。
「笑ったら失礼じゃないか、雛子さん。雛子さんの大先輩だし、僕達を結びつけたキューピットなんだぞ」
「だからキューピットって言わないで! 浮かんじゃうから!」
「自分だって言ってるじゃないか、キューピットって」
「だからやめてってば!」
「東出先生の正体は熊じゃなくて、キューピットだったのか……」
そんなことを真面目な顔をして言うものだから、私はとうとう我慢できずに、その場で涙を流しながら笑ってしまうことになった。まあ静かなお店じゃなくて、にぎやかな多国籍料理のお店だから、それほど目立たなかったから良いようなものの、こういう時に真面目ないわゆる官僚顔を保つことができる裕章さんって、
+++++
「そうそう。渡すのを忘れるところだったよ。雛子さん、これ」
アパートの前まで送ってくれた裕章さんが、カバンの中から大きな封筒を差し出してきた。中をのぞいてみると、分厚いコピー用紙の束と、小さなMP3プレイヤーが入っている。
「これは?」
「必要最低限の語学力がつくように教えるって、言っただろ? そのための教材」
「え、もう始めちゃうの?」
驚いた私に、眉をひそめた。
「一年未満で、英語が問題なく話せるようになる自信があるなら、もう少し待つけど?」
「……やります、やらせていただきます」
十年かかっても話せそうにないんだけれど、とりあえずそのことは黙っておこう。
「恐らく読むだけでは頭に入らないと思うから、音声解説も用意した。しばらくは、あっちへ行く準備で忙しくてそれどころじゃなくなるだろうから、先にできあがった分だけ渡しておくよ。次からは、音声ファイルとテキストをメールに添付して送ることになると思う」
「もしかして、
「そうだよ」
「テキストも手作り?」
「その通り」
今だって転勤前のあれこれな準備で忙しいだろうに、わざわざ作ってくれたなんて本当に申し訳ない。もう少し頑張って語学力を磨いておけば良かったと、いまさらながら後悔する。
「もしかして南山さん、語学の先生にもなれるんじゃない?」
「おだてても手加減はしないから」
「別に、おだてているつもりはないんだけど……」
「本当はね。こういうのを教えるのは、僕よりも教免を持っている
「そうなの?」
外務官僚様直々の英会話レッスンなんて、語学が苦手な私でもものすごく上達しそうに思える、あくまでも思えるだけで終わりそうな気はするけど。
「だけど断った」
「え、そうなの?」
「あいつのことは信用しているけど、雛子さんがあいつと二人っきりで会うのがイヤだから」
「そう……なの?」
意外な言葉に、ビックリしながら首をかしげた。
「もちろん、雛子さんのことを信じていないわけじゃないよ。ただ僕自身がイヤだってだけなんだ。まあ、ワガママみたいなものかな。雛子さんがどうしてもって言うなら、今からでも頼んでみるけど?」
「ううん。研修が忙しいし、わざわざそのためだけに予定を合わせてもらうのは悪いから、やめておく。私には、裕章さんっていう最強の先生がついているから大丈夫。でしょ?」
「その僕のアドバイザーが、上野なんだけどね」
改めて封筒の中をのぞくこんだ。そうか、このMP3の中には、裕章さんの声が入ってるんだ。
「なかなか電話でお喋りできる距離でもないから、これで裕章さんの声を聴きながら、寂しいのをまぎらわせることができるかな」
勉強もできて、寂しさもまぎらわせることができるなら、一石二鳥ってやつよねと一人で納得する。そんな私の横で、いきなり裕章さんが立ち止まって溜め息をついた。
「まったく雛子さん」
「なに?」
急に裕章さんが立ち止まったものだから、慌てて足を止めて振り返る。立ち止まった彼は、ちょっとだけ怖い顔をしていた。
「明日も仕事だから、なにもしないでアパートに送り届けるだけにしようと思っていたのに、雛子さんときたら」
「え?」
なにを言っているのか分からなくて首を傾げて顔を見上げた。
「普段はアヒルのことばかりでそんなこと一言も言わないくせに、不意打ちでそういう可愛いことを言うなんて、反則だ」
「反則?」
「罰として僕のために、少し睡眠時間を削ってもらうから」
「え?」
裕章さんは、ポカンと彼の顔を見上げていた私の肩を抱くと、そのままアパートへと向かう。
「あの? 私、なにか気にさわるようにことでも言ったかな……?」
「気にはさわってないけど、体にはさわったかも」
「……?」
「中枢性なんとかな感じ?」
「!!」
思わず視線を下に向けそうになって、慌てて顔を上げた。裕章さんは困ったような面白がっているような、微妙な顔をして私を見下ろしている。
「なんで覚えてるかな、そういうことだけ」
「あれを忘れろっていうのは、無理な話だろ? かなりインパクトあったからね」
しかも言った相手がお巡りさんだからねえと笑いながら、私がカバンから出した鍵を奪うと、ドアノブに差し込んだ。そしてドアを開けて私のことを部屋に押し込むと、自分も入って後ろ手でドアを閉めてから鍵をかける。
「あのう……」
「反則したら罰則があって当然だろ?」
「なにが反則か分からないけど、お、お手柔らかに……」
「さあ、どうするかなあ」
だから、真面目な官僚顔でそういうことを言わないでほしい。けっこう怖いから。
「研修大事、患者さん大事、体大事だから」
「うん、努力します」
「努力するだけじゃ駄目ー!」
あと数ヶ月したら、当分は会いたくても会えない状況になるのが分かっているせいか、年明けからの裕章さんは、色々な意味ですごかった。
そうこうしている内に、いよいよ南山さんが赴任地へと旅立つ日がやって来た。
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