第十話 大人な人達の予防接種

 子供達の予防接種が一段落した頃になると、今度は社会人の人達が予防接種に訪れるようになっていた。そのために、今度は内科が大忙しだ。ただし大人は泣き叫んだり嫌がって逃げだしたりしないので、待合室は人があふれるだけで、静かなものだった。


 そう言えば私は見ることができなかったんだけれど、夜のニュースで、外務大臣さんが外国の大臣さんと会合をしたとか、現地法人のお偉いさん達と懇談したとかいうのが出ていたらしく、そこでチラッと南山みなみやまさんが映っていたという話を小耳に挟んだ。そういう話を聞くと、本当に地球の裏側に行っちゃっているんだなあと、実感しているところだ。


 ちなみに、あの不可思議な円卓会議風の夢はあの時一度きりで、今はボールペンの動物達も、毎晩、静かにしている。


「あ、ピヨピヨさんだ」


 外来の待合室で順番待ちをしていた赤ちゃんがクズり出したので、予防接種の時と同じように、持ち歩いていた赤べこのボールペンであやしていたら、そんな声が飛んできた。私のことを院内でピヨピヨさんと呼ぶ人はいない。この呼び名を使うのは、お行儀の悪いどこぞの見舞客ぐらいだ。顔を上げて声がした方を見れば案の定、病室を外務省の出張所にしていた人達が、長椅子の一角を占領していた。


「うわ、不審者を見る目で見られてるよ」

「当たり前だろ? 相手はピヨピヨさんだぞ」


 そんなことを言いながら、こちらに手を振ってくる。えーとたしか上野うえのさんと下田しもださん、それから……。


「今日は皆さんそろって、どうしたんですか? また、どなたか入院でも?」


 赤ちゃんの機嫌がなおったので、お母さんに会釈してその場を離れると、不審な外務省集団が座っている長椅子へと、足を運んだ。まさかまた南山さんが入院した時のように、病室を占拠して出張所にするつもりなんだろうか。


「いや。今日は皆で予防接種ですよ」


 そう言って、皆で番号札を私に見せた。


「去年は、同じ局内にいる子持ちの一人が、子供からインフルエンザをもらっちゃってね。皆してえらい目に遭ったんで、今年はきちんと予防接種をしておこうと思いまして。仕事納めを前に、局内が全滅したら困るので」

「仕事中にですか?」

「それぞれの局内でグループを作って、順番に来てるんです」


 パソコンのマウスをカバンからはみ出させていた上野さんが言った。


「もっと職場に近い病院があるでしょうに、なんでまたこんなところまで……」

「ここの最寄りの駅が、俺達の出勤途中に通りかかる駅なんで、途中下車ってやつですよ」

「そうなんですか」


 私が半信半疑だと気がついたのか、俺達、疑われているぞとヒソヒソとささやきあっている。南山さんだって、出勤途中でここに運び込まれたわけだし、言っていることは理にかなってはいるけれど、最初のことがあるだけに、どうしても胡散臭うさんくさく感じてしまうのはしかたがない。こちらが本当かな?と疑ってしまうのは、ある意味あちらの自業自得ってやつだ。


「ところで皆さんは、出張じゃないんですか?」


 病室に押し掛けていた面々なんだから、南山さんと同じグループの人達だろうにどうしてなんだろうと、少し疑問に感じたので質問をする。


「今回の出張で随行したのは、南山ともう一人だったかな。あいつは俺達の中でも、抜きん出て語学が堪能たんのうだからね」

「へえ、そうなんですか」

「ここ最近はピヨピヨさんの影響か、医学英語にも興味を持って勉強を始めているし」

「お蔭で上司に、問答無用に引きずっていかれたよ」

「ピヨピヨさんに会えなくなるのはイヤだとか、半泣きになりながらね」


 外務省勤務だから、全員が英語がペラペラなのが普通だと思っていたけれど、その英語と外交で使用する経済用語やらなにやらの英語は、また少し違うみたい。日本語以外は苦手だし、カルテに記入したり読んだりするのが精一杯の私には、とても想像のできない世界だ。


「来週の水曜日にはこっちに戻ってくるはずなんで、ねぎらってやってください」


 あ、それからとなにか思いついたのか、上野さんが少しだけ真面目な顔をした。


「もう一人ってのは、かなり年上の偉いさんのおっさんだから、心配ご無用ってやつなので」


 なにを言い出すのかと思ったら。


「私はなにも聞いてませんよ」

「あいつに限って言えば、浮気の可能性はゼロなので。そのへんも心配ご無用ってやつで」

「だから、なにも聞いてないじゃないですか」


 まったくもう。あ、そうだ。彼等を前に、少しだけ意地悪い気分が沸き上がってきた。


「あ、そうだ。せっかくだから皆さんへの注射、私がしましょうか。私、今は内科勤務で、皆さんが並んでいる診察室の先生の下で、指導してもらっているんですよ」


 私の言葉に、全員がそろってギョッとなる。その顔を見てちょっと気分が良くなりながらも、そこまでイヤがられること?と複雑な気分にもなった。


「なんでそんな顔をするんですか? あ、もしかして注射をするのは、看護師の仕事だと思ってました?」

「いや、そんことはないけど、まさか仕返しを考えてるんじゃないかなって」


 下田さんが、恐る恐ると言った感じで呟いた。


「仕返しもなにも。予防接種の注射なんて、ちょっと腕に針を刺すだけじゃないですか。大丈夫ですよ、これでも気管支挿管もちゃんとできますし、皆さんの注射ぐらい、ちゃんと間違えずにできますから。じゃあ、診察室でお待ちしてますね」


 患者さん達用の「思いやり成分たっぷりの笑顔」を向けたのに、なぜかひるまれてしまった。まったく、失礼な。



+++++



「はい、次の方、どうぞ」


 トイレに行きたくなった川北かわきた先生と交代してそう声をかけると、上野さんが警戒心丸出しの顔で診察室に入ってきた。


「どうも……」

「はい、座ってください。腕を出して」

「これを打ったら、大丈夫なんですよね?」


 おずおずといった感じで、椅子に座った上野さんがたずねてきた。そのへんは大抵の人達が勘違いしているところで、予防注射をしたからといって、絶対にインフルエンザにかからないというわけではない。


「ウィルスは、毎年少しずつ形を変えていくものですから、完全に感染を防ぐのは難しいんですよ」


 そう言って、壁に貼られた『インフルエンザを防ぐために』というイラストつきのチラシをさした。


「手洗い、マスク、栄養をとる」

「そうです。結局は、ちゃんと規則正しい生活をして、ちゃんとご飯を食べて、睡眠をしっかりとることが大事なんですよ」

「俺達にはそれが一番難しそうだな……」


 上野さんがチラシに気を取られているスキに、消毒されたところを少しつまんで注射針をさす。


「はい、終わりました。予防接種は発症と重篤化を防ぐためのものですから、注射を打ったからって安心はしないで下さいね」


 そう言って送り出した。そして次に入ってきたのは下田さん。こちらも警戒心丸出しの顔をしている。


「なんでそんなに警戒するんですか? もしかしてお尻に注射されるとでも?」

「え? いや、俺はもともと注射が嫌いで」


 恥ずかしそうに笑うと椅子に座った。


「そうなんですか。だったら打つのやめても良いんですよ? インフルエンザにかかったら来てください。調べるために、鼻に綿棒をつっこまれるのが苦痛でなければの話ですけど」

「打ってください、お願いします」

「残念です。下田さんの鼻に綿棒入れるのを楽しみにしていたのに。じゃあ腕を出して」


 綿棒を鼻につっこむのを楽しみにしている先生なんてと、ブツブツ言いながら下田さんも診察室を出て行く。それからしばらくは、川北先生の代わりに注射を続けた。診察と違って、そんなに話をすることは無いだろうと思っていたけど、意外とインフルエンザのことや薬の副作用のことを質問されて、わかりやすく説明するのが大変だった。こういうのも経験をつんだら、スムーズにできるようになるんだろうか。


 戻ってきた川北先生と再び交代して待合室の方へと出て行くと、上野さん達の姿がまだあった。あれから一時間ほど経っているというのに、なぜ?


「あ、来た来た」


 出てきた私を見て手を振っている。


「どうしたんですか? なにか問題でも?」

「もらった注意書きに、副作用があった場合のために、三十分程度は病院でゆっくりしていけって書いてあるから」

「もう一時間は経ってますけど?」


 わざとらしく腕時計を見ると「まあまあ細かいことは気にしないで」という言葉が返ってきた。もしかしてこれは、集団のさぼりというやつでは?


「ああそうだ。こっちの伊東いとうがね、注射が前にした時より痛かったって言ってるんだけど、それってやっぱり愛の差なのかなって」

「俺はそんなこと言ってないだろ。痛い時とそうでない時があるのは何故なのかって、話をしただけじゃないか」


 伊東さんが下田さんに、勝手に話を改変するなと怒っている。


「今回は痛かったんだろ?」

「違う! 前に打った時のほうが痛かったんだって」

「で、それはどうしてなのかと、ちょっと疑問に感じたんですが。ピヨピヨ先生、どうしてなんでしょうか? やっぱり愛の差でしょうか?」


 上野さんが改まった口調で質問したと同時に、全員がこっちを見た。


「まさかそれが聞きたくて、私が出てくるのを待ってたんですか?」

「そうとも言います」

「皆さん、さっさと仕事に行きましょう。時は金なりですよ? それも皆さんの場合は、税金です」


 ピヨピヨさんは優しくないと文句を言っている人達を、椅子から立たせて玄関口へと追い立てる。その間も彼等は言いたい放題だ。


「やっぱり愛の差なんだ……」

「南山にする時は、まったく痛くない特別な注射なんだ」

「綿棒を鼻につっこむ時も優しいんだぜ、きっと」

「あいつには、絶対にインフルエンザにかからないワクチンとか出してくるのかも」

「なんて不公平なんだ」

「俺達にも愛をくれ~」


 待っている患者さん達からも受付の子達からも生温かい視線を向けられるし、今年のインフルエンザの予防接種シーズンは、まったくもってせないことの多い期間だった。 

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