第十一話 ピヨピヨさんの医学的講座
「なんだか寂しそうだね、
帰る準備をしているところで、
「そうですか? やっと休みに入って、ホッとしているだけなんですけど……」
「そうなのかい? てっきり盲腸さんに会えない日が続いたから、寂しいのかなと思ってたんだけどな」
「そんなことないですよ」
否定する言葉が飛び出すのが早すぎた? まあ良いか。
「こっちから連絡してあげれば良いじゃないか。待ってるだけじゃ能がないだろ?」
「帰国したばかりで忙しいかなって、一応は遠慮をしているんですけどね」
「まあ確かに、外交の事務方の大変さってのは、想像を絶するって言うからね。だけどメールだけでももらったら、嬉しいんじゃないかなと思うんだけどな。顔を合わせたら、ねぎらってあげると良いよ。ああ、こんなふうに話していたら、噂をすればなんとやらで、今晩あたり出待ちしているかもね」
楽しそうに笑っている先生を見て、やはりアンテナがピピッと反応する。
「……先生、本当に南山さんと連絡を取り合ってないんですよね?」
「取ってないって言ったじゃないか。まだ疑っているのかい?」
西入先生は、それは心外だなって顔をしてこちらを見つめた。そして、噂をすればなんとやらというのは本当らしいってことを、その直後に実感することになる。
「あ、南山さん……」
「こんばんは、
通用口から出たら、いつもの場所に南山さんが立っていた。
「帰ってきたばかりで忙しかったんじゃないですか?」
「まあそうなんですけど、事後処理の雑務は、こっちに残ってのんびりしていた連中に、押しつけてやりました」
そう言ってニッコリと微笑んだ顔は、いつもと変わらないけれどなんだか声がおかしい。
「あの? 僕の顔になにか?」
私がじーっと見つめたせいか、戸惑った顔をする南山さん。間違いなく声がおかしい、鼻がつまっている感じだ。手をのばしておでこにさわる。南山さんの普段の体温がどれぼとかは分からないけれど、それほど高いとは思えない。試しに自分のおでこも触って比べてみると、あちらの方が少し熱いかな?程度だった。
「あの……?」
「南山さん、風邪じゃないですか?」
「鼻がつまってますけど、それほどのことじゃ……」
その返事にピンと来るものがある。
「それほどのことじゃってことは、風邪をひいている自覚はあるんですね? いつからなんですか?」
「え……いや、まあ……はい……えっと帰りの飛行機に乗ったあたりから、かな」
私が軽く睨むと、観念したらしく白状した。
「まったくもう、ダメじゃないですか。独り暮らしなんでしょ? 風邪が酷くなったらどうするんですか。今日はさっさと帰って寝なさい。その程度なら、市販の薬を飲んで土日をゆっくり休んだら治るでしょ?」
「明日は
やっと顔を合わせたのにと、ブツブツと不平を漏らす南山さんに、溜め息が出てしまう。
「そんなしょぼくれた顔をしてもダメです。病人と晩御飯デートをする医者なんて、いませんよ」
「でも……久し振りなんですよ? 雛子先生はガッカリじゃないんですか?」
「無理して夕飯を外で食べて、南山さんの風邪が酷くなった方がガッカリです」
メールするヒマもなくて本当に久し振りに会えたのにと、諦めきれないといった口調でブツブツが続く。まったくもう……。
「その代りと言ったらなんですが、今日は私が南山さんを送って行ってあげます。ああもう、そんなに嬉しそうな顔をしない。本当に送るだけですからね」
鼻をずるずるさせている南山さんを引きずるようにして、駅へと向かう。そんな状態なのに、なぜか彼は御機嫌だ。
「そう言えば、上野達が予防接種の注射を雛子先生に打ってもらったって、言ってましたよ」
そして御機嫌な鼻声で話しはじめた。
「うちの病院が、通勤途中にあるからって言ってましたけど、本当なんですか?」
「それは本当ですよ。ここの路線を使っていて、僕が一番職場に近くて、
「そうなんだ……」
「もしかして疑ってたんですか?」
「当然です」
きっぱり答えると、疑われるのは自業自得なのかなあと、苦笑いをしている。
「僕も雛子先生に打ってもらいたいんですけど、時期的にもう遅いですかね?」
「ピーク時に間に合わせようとするなら遅いかな。ワクチンの効果が出るのに、二週間ぐらいかかりますからね。それに、風邪をひいているなら打てませんよ」
「そうなのか……」
南山さんはガッカリだとつぶやいた。どうやら、上野さん達が私に注射を打ってもらったことが、うらやましいらしい。
「南山さんには、注射以上のことをしてるじゃないですか。それぐらいでうらやましがることはないと思いますよ?」
「ああ、そうか。僕は、雛子先生に色々と見られちゃってたんでした」
「見る」と聞いたとたんに、西入先生との会話を思い出して顔が熱くなった。いやいや、そういう意味の見るじゃないから!! 南山さんだってそんな意味で言ったわけじゃないし!
「どうかしましたか?」
「え? いえ、なんでもないです。えっと、切符はどこまでの分を買えば良いんですか?」
「顔、赤いですよ?」
心配そうなにのぞき込んでくる。
「そんなことないです。赤いのは南山さんの方ですよ。熱が出てきたんじゃないですか?」
「僕の顔が赤いのは、雛子先生に恥ずかしいところまで見られちゃったことを、思い出したからですよ」
「べ、別に恥ずかしいところなんて見てないじゃないですか。で、切符はどこまで買えば? あ、え?」
駅舎が見えたところで、南山さんがいきなり背後に回って抱きついてきた。
「あの?」
「あの、えっと、すみません。あれこれ思い出していたら体が勝手に反応しちゃって、人様に見せられない状態に……しばらく隠すの手伝ってください」
「え、なんでまた……」
「どこを見られたのか具体的に考えたら、ちょっと困ったことになりました。あそこの大型モニターを見ているふりでもして、時間かせぎをしてもらえると助かります……」
「あら……まあ……」
僕、ちょっとした変態ですねえと溜め息をつきながら、私の頭の上に
「大丈夫ですか?」
「多分?」
こういう時って、その部分に流れ込んだ血流が正常な状態になるまで、どれぐらいかかるんだろう?などと考えながらモニターを見上げていると、別の方向から視線を感じてそっちに目を向けた。その先には交番があって、その前には制服姿のお巡りさんが立っていて、いぶかしげな顔をしてこちらをうかがっている。
「あそこの交番のお巡りさんに、絶対あやしまれてますよ、私達。あ、ほら、こっちに歩いてきます」
「雛子先生があっちを見るからじゃないですか」
「そんなこと言ったって、目が合っちゃったんですもん。しかたがないでしょ?」
「まさか職質される日が来るなんて……」
「まだダメなんですか?」
「ダメっぽいです」
二人でヒソヒソと言い合いをしていると、お巡りさんが不審げな顔をしたままやってきた。
「どうかされましたか?」
「いえ、別に」
二人で愛想笑いをしながら答える。
「お連れの方の気分でも悪いとか? 救急車を呼びますか?」
そう言ってお巡りさんは、南山さんの方に目を向けた。だけどその眼は具合の悪い人を心配している目じゃなく、不審人物を見る目だ。
「いえ、僕は大丈夫です。お気遣いなく」
「では、こちらの方がお困りのことでも?」
今度は私に向かって質問してきた。つまり私が、変質者にからまれていると思っているらしい。
「多分、困っているのは私よりも、彼の方だと思います、正確には彼の
気がついたら、そんな言葉が口から飛び出していた。
「はい?」
「彼が仕事で出張していたので、今夜は久し振りに顔を合わせたんです。で、なぜかこんなところで興奮してしまったらしく、
「分かりました分かりました。もう、けっこうです」
お巡りさんは苦笑いをしながら、私の言葉をさえぎった。
「つまりはどういうことか、私にも分かるように簡単に説明していただけると、大変、助かるのですが」
「とにかく彼女に久し振りに会えた嬉しさから、僕の下半身が困った状態におちいりまして、その状態のまま電車に乗るのははばかられるいうことです。これでも社会人ですし、
私のかわりに南山さんが答える。
「で、それがおさまるまで、ここで彼女に隠してもらっているというわけです」
「なるほど。私も男ですから、その状態が辛いのは理解できます。問題ない状態に戻ったら、すみやかに移動するように。ここは寒いですからね」
「すみません、お騒がせしました」
「別に私達は騒いでませんけどね……」
ボソッと呟いた私の言葉に、お巡りさんはやれやれと首を横に振りながら、交番へと引き返していく。
「雛子先生、ああいう時は騒いでいなくても、
「最後まで説明したかったのにさえぎるなんて。向学精神はないんでしょうか、あのお巡りさん」
「この件に関してはあらためて学習しなくても、男は身をもって理解していますから……」
「そうかなあ……」
それからしばらくして、南山さんの困った状態もおさまったということで、私達は駅舎に向かった。南山さん的には、交番の中からさっきのお巡りさんが、生温かい視線をこちらに投げかけていたのがなんとも気まずかったようで、不自然な角度で顔を背けたまま、交番の前を通り抜けていた。
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