第九話 予防接種とボールペンアニマルズ

「痛いのイヤァァァァァァ!!」


 そんな悲痛な叫びが、隣の小児科外来の診察室から聞こえてくる。聴診器を患者さんにあてていた川北かわきた先生と患者さんのお婆ちゃんは、「おうおう大変だねえ」とつぶやきながら苦笑いをした。その叫びにつられてか、待合室にいる子供達まで騒ぎ出す。インフルエンザの予防接種が始まってからは、毎日がこんな感じで、病院の待合室と診察室はちょっとしたカオスだ。


「あのぅ……川北先生」


 山中やまなか君が、ドアからひょっこりと顔を出した。研修医の間は色々な科を回っていくものだけど、彼は今回も異動無しでも引き続き小児科にとどまっていた。もう彼は、あそこに骨をうずめるつもりなんだろうなあ……。それは本人の意志だし、上が何も言わないなら、それで良いのかもしれないけど。それにしても山中君、心なしかここ数日で、頬がこけてきたように見えるのは気のせいだろうか。


「どうした?」

「今日も北川きたがわ先生をお借りしてもよろしいですかと、西山にしやま先生が」

「うちは泣き叫ぶ患者さんはいないからね。かまわないよ。北川先生、応援に行っておいで」

「はい……」


 私は、山中君やあちらの看護師さんみたいに、小さい子達のあつかいがうまいわけではない。どちらかと言えば苦手で、泣かれてしまうとどうしたら良いのか分からなくて、途方に暮れてしまうぐらいだ。それなのにどうして指名されてしまうのか。それもこれも、すべては南山さんのせいだ。


「ねえ。私じゃなくて、このボールペンさえあれば問題ないんじゃ……?」

「北川先生のボールペンは、おそれおおくて触れないよ」

「なんでなんだ」


 山中君の言葉に解せぬものを感じながら、裏から小児科の診察室へと向かう。ドアに立っただけで、待合室のザワザワとした気配や、子供の泣き声がこちらに流れてくる。今日もなかなか強烈だ。


「それより山中君、なんだかやつれてるみたいだけど、大丈夫?」

「そりゃあ、毎日のように小さい子達の悲しそうな泣き声を、間近で聞かされているからね。地味にダメージを食らうよ」

「そういえば、私も注射は嫌いだったなあ」


 小さい頃に予防接種がイヤで、よく注射器を持った先生に追い掛け回されて、部屋中を逃げ回っていたっけ。


「仕方がないとは言え、小さい子達が痛い痛いと泣き叫ぶのを聞くのは、本当にこたえるね」


 山中君らしい言葉だ。


 診察室に一歩入ると、大音響の泣き声が耳に飛び込んでくる。今日の子は、なかなかすこせい凄い声量の持ち主だ。もしかして西入先生を超えるかも。


「こんにちはー……」


 そんな私の声もかき消されるぐらいの、大音量の泣き声。顔を真っ赤にして泣いているのは、どうやら女の子のようだ。女の子を抱いているお母さんも、困り果てた顔をして頑張ってあやしているんだけど、まったく効果がない様子。これだけ泣いていたら、ボールペンの動物達だけでは無理なのでは?と思わないでもない。


 今日のお供はハコフグ。その愛嬌のある丸い目が意外と人気者だ。今日も頑張ってちょうだいよ、ハコフグちゃん。


『こんにちは~~。泣いちゃってるのどうしたの?』


 大粒の涙を流している女の子の前で、ハコフグをヒラヒラさせて話しかける。声色に関しては、最初はこんな芝居がかったことはしていなかったんだけど、山中君が子供番組の着ぐるみを参考にしたら効果が高まるかもと言ったので、取り入れてみたのだ。お蔭で子供達が泣きやむ時間が早くなって助かっているけど、私としては超絶羞恥プレーな気分。ここが小児科で良かった。


『僕も注射したけど痛くないよ~~?』


 いやいや痛いからと、自分で自分にツッコミを入れる。だけどここで一番大事なのは、子供達におとなしくワクチンを接種させること。その後に烈火のごとく泣き始めても、それはそれでしかたがないと、先生も親御さんも分かっている。ただ問題なのが泣きが連鎖することで、注射をするより大変な労力が必要だった。


『僕もしたから、みなみちゃんもお注射しようよ~~』


 自分の名前を呼ばれて、泣きの合間にハコフグに目をやる女の子。さらにボールペンを揺すると、ビーズみたいなのが入った目がカラカラと音をたてたので、大粒の涙を浮かべてしゃくり上げながらも、ハコフグに手を伸ばしてくる。その隙をベテランの先生は見逃さない。あっという間に注射をその子の腕に刺して接種完了。


 ただし女の子はやはり痛かったのか烈火のごとく泣き始め、この嘘吐きフグめ!とでも言いたげな顔をして、ハコフグを叩きのめした。


『……せぬ』


 お母さんが「お騒がせしてすみません~」と頭を下げながら出ていくのを、ハコフグと見送りながらつぶやいてしまった。


「あのさあ、山中君。どこかで似たようなボールペン、買ってきたらどうかな?」


 次のお子さんと親御さんが入ってくる前に、横にいる山中君に提案する。南山さんのボールペン達は、日替わりで子供達の相手をしているけど、今日みたいに叩かれて床に転がることも少なくない。なんて言うか、少しばかり可哀想な気分になってきた。


「事務局長いわく、経費節減らしいよ」

「えー……そりゃあ私だって、もらい物ではあるけどさあ……」


 正確には預かり物? 南山さんもまさか自分が渡したボールペン達が、こんなところで働いているなんて思いもしないだろうなあ。そして次の子にも、ハコフグちゃんは叩かれてしまった。やはりせない。


「今日は、腕に覚えのある子が多いみたいだ」


 そんな私に、山中君が申し訳なさそうに笑いかけてくる。


「事務局長も、おもちゃみたいなボールペンぐらいで、そんな目くじら立てることないのにね。スムーズに患者さん達が予防接種できたほうが、待ち時間が少なくてずっと経済的に思うけど」

「俺もそう言ったんだけどね、事務局長が“北川先生が色々と持っているでしょ?”って言うから」


 どうしてそういう理由になってしまうのか。やはりせない。


「だったら、この子達を期間中はこっちに派遣するから、私はあっちで仕事をさせてください」

「ダメ目だよ。北川先生以外がそのボールペン達に触ったら、絶対に呪われるから」


 の、呪われる……。


「霞が関の呪いは強烈そうだからねえ」


 フフフッと、西山先生とその場にいた看護師さんが笑った。


「北川先生、これも勉強だと思って頑張って」

「やっぱりせません……」


 そして今日も、泣きわめく子供達の相手をすることになってしまった。終わる頃にはグッタリと精神的に疲れてしまって、耳鳴りがするほどだった。


「本当に尊敬しちゃうよ。小児科のスタッフ全員」

「普段からこんな騒々しいわけじゃないから。これだけ大勢の子達が来るのは、一時的なものだからね」


 インフルエンザの予防接種が終わったら、また静かになるよと山中君が笑う。


「にしても、あんなに泣き叫んで、よく喉がやられちゃわないよねぇ、最初の女の子なんて、西入先生もびっくりの声量だったじゃない」

「子供は泣くのも仕事だから」

「それって、赤ちゃんに限ってのことなんじゃないの?」

「そうとも言うかな。とにかく、もう少しの間は頼むよ。あ、そうだ。明日のリクエストはアルマジロで」

「なんで知ってるの……」


 そしてそんなことを診察室でやりとりしていたせいか、その日の夜、変な夢を見てしまった。



+++++



 夜中、ヒソヒソと話し声が聞こえてきたので、なんとなく目が覚めた。隣のテレビの前にある、小さな丸テーブルのところがぼんやりと明るくなっていて、そこに小さな動物達が円陣を組んでいるように見えた。


『まったく、今日は災難だったよ。五回も床に落とされちゃったんだから』


 憤慨ふんがいした声が聞こえてくる。


『ああ、明日は僕が行かなきゃいけないのか、憂鬱ゆううつだ……』


 そして溜め息一つと、憂鬱ゆううつそうな声も。


『そんな贅沢ぜいたくな悩みを言うなよ。僕なんて、ここに帰ることも出できずに、ずっと軟禁されっぱなしなんだぞ!』


 バタバタと羽ばたくような音がしたかと思ったら、怒っている声がした。そして、遅かったじゃないかと、あちらこちらから文句を言われている。


『よく言うよ。今は地球の反対側につれて行ってもらって、バカンスを楽しんでいるくせに』

『そうだよ、僕達はここしばらくずっと、あの小さな怪獣達にいじめられてるんだぞ』

『君も、少しは申し訳ないとかすまないとか言えないのかい?』

『なに言ってるんだ。あっちじゃまったく言葉も通じないし、あいつは仕事にかまけてるしで、一人でものすごく孤独なんだぞ』


 なにやら言い争いを始めたようで、騒がしくなってきた。


『まったく。僕達が苦労しているって言うのに、海外でバカンスなんて、うらやましい御身分だよね』

『バカンスじゃないって言ってるだろ!』

『あ、殴ったな、なにするんだ、御主人様に言いつけるぞ!』


 どうやら一方が手を出したらしく、本格的なケンカになってきたようだ。


『なにが御主人様だ! 最初は散々文句を言っていたくせに!』

『うるさい! だったらさっさと帰ってこれるように頑張れよ!』

『あいつは図太くて、僕が枕元に立っても気にもとめやしないんだ!!』

『それって君の力不足って言うやつじゃ? あ、つつくな! 小判が落ちちゃうじゃないか!』


『おい、あまり騒ぐと御主人様が目を覚ましちゃうじゃないか。静かにしろよ』


 いさめる声がして、なぜか視線が、いっせいにこっちに向いたような気がした。



+++++



「わあ!」


 叫びながら飛び起きて、それが夢だったことに気がついてホッとした。隣の部屋の丸テーブルで円陣を組んで話し合いをしていのは、南山さんがくれたボールペンのマスコット達だった。そしてその真夜中の会合には、私のアヒルちゃんも参加していたようで……。


「妙にリアルだっ……わあっ!!」


 枕元にボールペン達が散乱しているのに気づいて、再び飛び上がる。ベッドの横の机を見上げれば、ペンを差していたプラスチックのカップが、こちらに向けて倒れていた。どうやらマスコット達の重さで、ひっくりかえってしまったらしい。


「び、びっくるすなあ、もう……」


 散らばっているボールペン達をペン立ての中に押し込めながら、もう少し大きくて重量のあるものを買わないとダメかなあと考え込んでしまった。

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