第18話 出立
そして、それから数日の後。
勿論その数日の間にも、宇月の訓練を新しい服を着てご機嫌な少女が見たがったり、いつぞやのように宇月と少年の二人で練習も兼ねて空を飛んだり、食べ物と寝床の代わりに少年が宇月にあれやこれやと奴隷の如く酷使されたりと、まあいろいろあったわけなのだが、その間にも何とか買い物とか補給とかのやらなければいけないことを済ませ、そして最後の「やらなければいけないこと」を済ませるために少年はとある場所にいた。
「えーっと、貨物用コンテナを燃料用の増槽に換装、引き込み脚の装備、エンジンのオーバーホール、フロートの投棄可能化、破損部の修理、弾薬の補給、各部の通常点検。代金はこれだけだ」
その場所とは、水上機の整備場。とはいっても、街に来たら毎回するようなレベルではなく、もっと本格的な整備をする工場のようなところ。
少年はエンジニアから明細のようなものを受け取ってから、財布の中からお札を何枚か出して清算を済ませる。こういう時一定割合で補助が出るのも探索者稼業のいいところ。一応町としても探索者がいないと街自体が回らなくなるので、それなりに保護された職業ではある。
「この降着脚、言われた通りつけたもんはいいがこのままじゃフロートと干渉して出すことはできんぞ」
「それでも無いよりましなんですよ」
清算を済ませると、港の方に回してもらえるようにエンジニアに頼んでから整備場を出る。
薄暗い屋内から太陽の下に出ると、目に突き刺さるような光に思わず目を細める。
「どうだったの。ちゃんとできてた?」
「ああ。大丈夫そうだ」
建物の外で待っていた銀髪の少女は、軽く汗をぬぐってから、
「ほんとに行くのね」
「ま、そう決めたからな。それに、いつもやってることの延長線上みたいなもんさ」
「できたら私も行きたかったんだけどね。仕事が仕事だからあんまりここを離れるわけにもいかないのよ」
「ほぼ無職みたいなもんなのによく言うよ」
「その無職にここ数日家も食事も頼りっきりなのはどこのどなたかな」
歩き出した宇月に一歩遅れて、少年も歩き出す。
意識しなくても、歩くペースは計ったように同じだった。
「私はこれから担当の時間だから、そろそろそっちに行くわね」
五分ほど歩いたあたりの交差点で、ふと立ち止まった銀髪の少女が言った。
「見送りできないのは残念だけど、幸運を祈ってるわ」
そして、振り返ると一歩踏み出して少年に息がかかるくらいの距離まで近づくと、
「一つだけ約束して。燃料が半分を切ったら、そこでぜったいに折り返すこと。なんなら海岸沿いあたりまでなら私が迎えに行ってあげるから」
少年の服の胸のあたりを掴み、少年の耳元に唇を寄せてささやく。
「わかってるって」
「ならいいわ」
くるりと前を向きなおしてから、まっすぐ速足で去っていく少女。
少年は小さく息を吐いてから向きを変える。
目的地は港。右の道を行った先である。
***
「8番アーク管制塔、こちらMS-836W、離水許可を求む」
「了解。MS-836W、離水路45Lへ向かい離水路前で待機せよ」
「MS-836W了解。離水路45Lへ向かい待機する」
決意の出立にもかかわらず、見送りは皆無だった。
唯一事情を知っている夏凪宇月が来れないのだから、それも当然か。
誘導水路を伝って離水路まで向かう、何度もやった作業。
手漕ぎボートほどの速度で進む、気を抜いたら眠ってしまいそうな退屈な時間。
「ねえ、決まった?」
エンジンと波の音が響く沈黙の中で、操縦桿から手を放して、足元のペダルだけで機体を操っていた少年に、唐突に声がかけられた。
「なにが?」
「名前の件だよ」
あああれか、と相槌を打つ少年。考えてはいたのだが、言い出すタイミングがなく、言い出せずにいたのだ。
「考えてはいるけど、いいのか?」
「いいから頼んだんだよ」
少女が後ろからもたれかかったのか、少年の座る座席がぎしりと鳴った。
「ほら、決まってるなら教えてよ。私の名前は何なの?」
吐息が少年の髪を揺らすほどの距離で、せかすように言う少女。
「……はくあ」
改めて実際に名前を告げる段になると、妙な恥ずかしさがあった。
向こうが言い出したことなんだ、と自分に言い聞かせてもその恥ずかしさは消えない。
結局、どんな風に言えばいいのか分からなかったので、ぼそりと呟くようにして言う少年。
「声が小っちゃくて聞こえないって」
「白亜。色の白に、亜鉛の亜」
やけくそのように一気に言い切る。
「嫌だったら言ってくれ」
「頼んどいてそんなこと言わないよ。はくあ。はくあ。うん、いいね。言いやすいし。意味とか聞いても?」
勢いよく乗り出した少女の顎が少年の肩に乗る。浮かれたような声を聞くと、恥ずかしがるのも馬鹿らしく思えてくる。
「特に深い理由はないよ。確か、白い岩石の名前らしい。世界のどこかにはその岩でできた真っ白い崖もあるんだと」
「へぇ。白亜。うん、はくあ。へへっ」
「ほら、そろそろ飛ぶからちゃんと座っとけ」
少女の喜びようにむず痒いような物も感じながら、少年は後ろに向かって言う。
名前、というのはアイデンティティの基盤のような物だ。すべての人が持つはずの固有名詞。
なんだかんだ言っておきながら、過去の記憶が無い少女にとっては、名前がないというのは辛い、というか、不安だったのだろう。人にも増して。
肩に顎をのせたままぶつぶつと自分の名前を呟く白亜はそのままに、少年は管制塔へ無線越しに連絡を取る。
「こちらMS-836W、離水路45Lに到着」
「8番アーク管制塔了解。MS-836W、離走路45Lより離水を許可する。風向きは220度、風速は10メートル。MT-524Wが離水路45Rにアプローチ中につき注意されたし」
「MS-836W了解。離水路45Lより離水する」
「幸運を祈る」
交信を終え、右手で操縦桿を握る。
「クリアードフォーテイクオフッ」
座席に座ってベルトを閉めなおした白亜が元気よく言う。
「これ一回言ってみたかったんだよね」
「英語で離陸準備よし、だったっけ」
「ちゃんと覚えてるじゃない。けど、ここの管制って英語じゃないんだね」
「英語じゃ誰も分かんないからな。誰にでも通じるのが最優先だ」
改めて、操縦桿とスロットルを握りなおす。
「Runway 45L, MS-836W, cleared for take off」
「ちゃんと言えてるじゃない。教えた甲斐があるってものね」
もちろん、管制官に言ったわけではない。
スロットルを押し込むと、プロペラが空気を叩いて一気に機体が加速する。
ブイで区切られた帯状の水路の上を白波を上げて走り、その終端を示すブイに近づいたあたりでふわりと機体が浮いた。
少年が操縦桿を軽く手前に引くと、機種が上を向き、一定の角度で上昇を始める。
荷物入れから燃料用の増槽に取り換えたせいか、いつもよりわずかに機体が重いが、分解整備をしたエンジンはそれをものともせずに飛行機の高度を上げていく。
着水しようとする双発の水上機とすれ違うようにしてベージュの機体は空を目指す。
距離が離れて後ろに見える「方舟」が洋上に浮かぶ大きな筏のように見えてきたころ。
「MS-836W、こちらAEGIS02。聞こえますか、どうぞ」
「AEGIS02、こちらMS-836W。通信良好。どうぞ」
ノイズ交じりの無線とともに、青色の洋上迷彩に包まれたエンテ型の機体が降ってきて、少年たちの機体と並走する。
「ウヅキ?」
キャノピーに張り付くようにしてそちらを見ていた少女が呟く。
「あら、意外とすぐばれちゃったわね」
防弾ガラスの風防越しにこちらを向くのは、長い銀髪の少女。
「白亜。いい名前じゃない」
「えっ、なんで?」
(俺、宇月に言ってたっけな?酒の勢いで言っちゃったか?)
声に出したのは少女だけだったが、少年も心の中で首をかしげる。
が、夏凪宇月の答えを聞いて大きな声を出したのは少年の方だった。
「無線つけっぱなしだったわよ。だから周波数さえ合わせばあなた達が仲睦ましく話してるのは筒抜けなのよ」
「えっ、まじでっ」
少年の動揺を表すように、機体が不規則に踊り、風防に張り付いていた少女が慌てて少年の座席の背もたれにしがみつく。
「多分管制官の人も無線つけていちゃいちゃするなとか思ってたんじゃないかしら」
「……恥ずかしさで十回は死ねそう」
思わず顔を伏せる少年。
そんな少年をよそに、飛行服に銀髪の少女は無線越しに続ける。
「ま、過ぎたことは仕方ないわよ。それより、澪」
「なんだ?」
「私は一緒にいけないけど、ちゃんとその子の、白亜の体をなんとかしてくるのよ」
「さっきは絶対かえって来いって言ってたけどどっちなんだ」
「どっちもよ。白亜の体をなんとかして、帰ってきなさい」
「無理を言ってくれる」
「頼んだわよ」
次の言葉までは、すこし間があった。
「貴機の幸運を祈る」
いつもとは違う、ぴしっとした言葉。おそらく、軍人としての彼女の顔だろう。
銀髪の少女が駆る青色の戦闘機は、そのまま少し翼を振ると180度旋回し、守るべき街の方へ戻っていった。
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