嵐の前の静けさ
吸血鬼の幼い少女リールと出会った後、ノワールたちは屋敷に戻った。屋敷にいる間、ノワールやルージュの身の回りの世話をしてくれている使用人のサラが、ルージュと手を繋いでいるリールを見下ろして、目を丸くしている。
「あ、あの、ルージュ様、この方は……」
「リールって言うのよ! 外で拾ったの」
「え、えぇ、拾った……んですか?」
サラがリールを見下ろす。リールは吸血鬼だとバレないように大きめのフード付きパーカーを被って、耳と背中の羽、尻尾を隠している。ビクビクと何かに怯えるように震えているリールを見て、サラが怪訝そうな表情を浮かべた。
「ええ、そうなの。でもこの子、結構汚れているから早速だけれどお風呂場を借りてもいいかしら?」
「あ、は、はい、既に準備しております。浴室に行っていただければ、すぐに入れますが」
「え、り、リール、お風呂に入る、の……?」
それを聞いたリールがビクンと体を震わせて、何かを懇願するようにルージュを見上げた。
「り、リール……、その、み、水は、お風呂は、き、きらい……」
「だーめ、そんなに汚れているのにお風呂に入らないなんて駄目よ、女の子なんだから。安心してちょうだい、私も一緒に入って隅々まで洗ってあげるわ、うふふっ」
そのルージュの言葉を聞いたリールの顔が、さらに絶望に染まる。
「い、いや……っ」
「大丈夫よ、一緒に入れば絶対楽しいわ。ふふっ、一緒に洗いっこしましょうね」
ルージュは鼻歌まじりに、リールを引きずるようにして浴室の方へ向かって走って行った。去り際、リールが助けを求めるようにノワールのことを見ていたが、ノワールにルージュを止めるすべはない。リールに同情(だけ)しつつ、ノワールはそんな二人を見送った。
そしてルージュとリールが見えなくなったところで、サラがノワールに言う。
「ノワールさまは、どうされますか。お風呂ならもう一つ別の浴室を準備しておりますし、お食事の用意もありますが」
「あぁ、では先に食事をもらってもいいですか」
「かしこまりました。ではこちらへ」
恭しく頭を下げ、サラはノワールを食堂へと案内する。その後、ノワールは手早く食事をとってから、体を洗おうと浴場がある方へ向かった。浴場の場所は、昨日に確認済みである。
しかし、廊下を歩いている途中に、ノワールはこの屋敷の主であるガニアスと出くわした。今回、ルージュに依頼を持ちかけた張本人で、この街を治める街主でもある。そんなガニアスの隣には、会った時と同じく付き人の眼鏡をかけた女性がいる。レイラと呼ばれていた女性だ。
「おおこれはノワール、ルージュと一緒ではないのかね?」
ガニアスがノワールに愛想よく笑いかける。
「ええ、別に常に一緒にいるという訳でもないので」
今頃ルージュは浴場にてリールと戯れていることだろう。
「はっはっは、そうかい。ところで調査の調子はどうかね? 何か手がかりは掴めたかい」
「そうですね……。僕には教えてくれませんが、ルージュは何かを掴んでいるようです」
ノワールはルージュの言動を思い返して、そう言った。もっとも、思わせぶりに振舞っているだけかもしれないが。
「そうかそうか。それは頼もしい事だ。やはりルージュを呼んで正解だった。昨日と今日、誰ひとり殺されていないのはきっとルージュのお陰だろう」
そのとても嬉しそうなガニアスの言葉を聞いて、ノワールは驚く。
「そうなんですか?」
「あぁそうだ。ここ一週の間、毎晩のように起こっていた殺人が、この二日起きていない。まだ犯人が見つかった訳ではないが、少し安心するよ」
そこでノワールは、昨晩ルージュが言っていた言葉を思い出した。
『まぁ、それなら大丈夫よ。もうこれ以上殺人は起きないと思うから』
「……」
本当に誰も殺されていないとすれば、なぜルージュはそのことを予測できたのだろうか。
「安心して、良いものなんですかね」
ふとノワールがそう言うと、ガニアスが首を捻った。
「どういうことかね?」
「今までずっと毎晩殺されていたとするなら、急にそれが止まるのは不自然じゃないですか?」
まるで嵐の前の静けさのようなものを感じる。ノワールは言い知れない不安を覚えた。
「確かにそう言われると不自然ではあるが、住民が殺されていないことは朗報に違いない。今までずっと気が気ではなかったからね。街主として、住民を安心させてやれないのを忍びなくも思っていた。だからこそ君たちに依頼をした訳だが」
そう言うガニアスは、街主として最もなことを言っているように思えた。
誰も殺されていないに越したことはないのだ。——確かにそうであるはずなのに、違和感が拭い切れない。
「それでは私は失礼するよ。ノワールもがんばってくれ、期待している。ルージュにもよろしくと言っておいてくれ」
そう言って、ガニアスは廊下を歩いていく。付き人のレイラもノワールに会釈をしてから、ガニアスの後を付いて行った。
◇◆◇◆
浴場で体を洗った後、ノワールが割り当てられた部屋に戻ってからしばらく待っていると、ルージュとリールが部屋に入って来た。
ルージュはやけに上機嫌で頬が紅潮しており、その隣でダボダボの寝間着を着ているリールはやけにぐったりとしている。顔がやつれていた。
「……り、リール、ルージュにすごいことされた……、もうおよめにいけない……」
——風呂場で何があったんだろうか……。
ノワールは両手で顔を覆っているリールを見て、同情する。同情するだけだが。
「あら、それなら私と結婚すればいいわ。リールならいつでも大歓迎よ!」
そう言ったルージュに、リールは引きつった顔でブンブンと音がなるほど首を横に振る。ルージュは「もー、照れなくてもいいのよっ」とリールを抱きしめた。ルージュに抱きしめられたリールがプルプルと小刻みに震えながら助けを求めるようにノワールを見るが、ノワールはそれをスルーする。リールの顔が絶望に染まった。
「ところでルージュ、先ほど廊下でガニアスと会ったのですが」
ノワールは、ガニアスとの短いやり取りをルージュに伝える。それを聞いたルージュはリールを抱きしめて持ち上げながらベッドへ移動して端に座り、少し真面目な顔になった。わしゃわしゃと髪を撫でられているリールは完全にされるがままになっている。
「昨日と今日、誰も殺されていないと、ガニアスがそう言っていたのね?」
ルージュがノワールに確認するように言った。
「ええ、まぁ。ルージュのお陰だとも言っていました。正直、僕はただの偶然だと思うんですが……」
この街に来てルージュがしたことと言えば、犬耳のメイド少女にセクハラして、警衛騎士団の仕事にちょっかいをかけて現場を荒らし、はぐれ吸血鬼の幼女を捕獲してセクハラしたことくらいである。
しかし、ルージュは「そう」と呟いてから、得意げな顔になって言う。
「そんなことないわよ。誰も殺されなくなったのは、間違いなく私のお陰だわ。やっぱり私って最高ね」
「そんなこと言ってもルージュ、この街に来てほとんど何もしてないじゃないですか」
相変わらず自己評価の高いルージュにノワールは呆れる。
「いいえ、とっても大切なことをしたわ。むしろ私の存在そのものがやるべき事と言ってもいいわね」
「訳の分からないことを言わないでください……」
ノワールがはぁと呆れたようにため息を吐いた。
◇◆◇◆
その日の夜。
大きなベッドの上で、ノワールとルージュ、そしてリールが眠っていた。
リールはルージュに強く抱きしめられ、眠りながらも苦しげな表情を浮かべ何やら寝言を言っている。
ノワールはそんな二人から少し距離を置いて、腕を枕に横になっていた。
静かな夜。静寂に満ちた時間だった。
しかし、そんな寝静まった屋敷の中に一つ、限界まで気配を殺し、足音を殺し、移動する影があった。
その影は、音もなく、ノワールたちが眠っている部屋のドアを僅かに開け、その視線を中に向ける。
その視線は、赤い髪の少女——ルージュに向けられる。
瞬間————、ヒュッと風を切る音が静かに響いた。
窓から差し込む月光を受けて煌めく一つの刃は、一直線にルージュの白い喉元に向かって伸びる。音こそ静かだが、明らかな殺気の籠った一撃。
そのナイフの切っ先が、ルージュの喉を切り裂く直前、横から腕が伸びてその柄を掴んだ。
「……っ」
人影の驚く息遣いが漏れた。
ナイフを受け止めたノワールは、扉の方に視線を向けると、そのままナイフを投げ返す。手首のスナップを効かせて投げられたそのナイフは、縦に回転しながら人影の脚に向かって飛んだ。
しかし、床を蹴ってその場から逃げ出した人影に、そのナイフはギリギリの所で届かず、扉の隙間を通り抜けて廊下の壁に突き刺さった。
「……」
ノワールは、気持ちよさそうな寝顔を浮かべているルージュに一瞬だけ視線をやってから、ベッドを降りて、部屋を出る。
壁に刺さったナイフを抜いて、人影が逃げて行った方の暗闇に視線を向ける。
——今から追っても無駄だろうな……。
そう思ったノワールは部屋の中に戻ると、ナイフを自分の荷物の中にしまって、また眠りに付いた。
◇◆◇◆
翌朝、目を覚ましたノワールは、だらしなくにやけた笑みを浮かべながら抱き枕のようにリールを抱きしめているルージュを起こしにかかる。
「ルージュ、朝ですよ。起きてください」
ノワールがルージュの体を揺するが、ルージュは「うーん」と唸ってノワールから逃げるように寝返りを打った。その拍子にルージュに抱きしめられていたリールがルージュの体に押しつぶされ、顔を青くする。
「う、うぅ……リール……苦しい……、リール苦しい……、お、おっぱいが……おっぱいが……ぁ」
リールが自分の上にのしかかってくるルージュの豊満な胸から逃れようともがくが、力強く抱きしめているルージュから逃れることは叶わない。
「ルージュ、調査に行かなくてもいいんですか。殺人が止まったと言っても、犯人が捕まった訳ではないのでしょう」
ノワールがそう言うと、ルージュが薄く目を開いて、寝ぼけた口調でぼそぼそと言った。
「んー……だいじょうぶよぉ、今私たちがうごいても、なにもかわらないわ」
「その根拠を教えてください」
昨日の夜の襲撃のことを思い返して、ノワールは語気を強めた。
「えぇ……めんどうだからいやよ……」
そのだらしない上に無責任なルージュの姿に、ノワールの怒りのボルテージが上がる。
「のわーるったら、私にたよってばかりいたらだめよ? 私のことが好きなのはわかるし、しかたないけれど……」
「……とにかく、朝なんだから起きてください。ルージュの生活は少し怠慢が過ぎます」
ノワールは拳を握って、怒りを抑えながら言う。すると、ルージュが二度寝返りを打ってノワールから距離を取る。なお、リールは押しつぶされたままである。
「たいまんの何が悪いのよぉ。にんげん、生きたいように生きるのがいちばんだわ」
「ルージュ、一つ伝えたいことがあります」
「んぅ……、なに……? 私がほしいゲームの発売日は、……まだ二週間も先よ……?」
「そんなこと誰も言ってません。昨夜、何者かがルージュの命を狙っていました」
「……それで?」
それがどうしたと言わんばかりの反応である。ルージュにとっては、自分の命が狙われるという事態よりも、朝の惰眠を貪る方が重要らしい。
「明らかにルージュを殺すつもりでした。僕が居なかったら、あなたは死んでましたよ」
ノワールが居なくても、ルージュが殺されるような事態は決して起こりえなかっただろうと確信しながらも、あえてそう言った。
「あら……、それはえらいわね、のわーる、さすがのわーるだわ。あとでなでなでしてあげましょう」
そう言って、ルージュは再びリールを抱き枕代わりにしてスヤスヤと眠りに落ちた。この調子だと、無理やり叩き起こしたとしても、意地でも眠り続けようとするだろう。
「……ルージュ、あなたが起きるつもりがないなら、僕は今日一人で調査に行ってこようと思いますが」
諦めたノワールが、そんなルージュの背中に声をかけると、
「…………あぁ、そうだわ」
「……」
「ノワールが魔術大学に行くなら、まぁ、余裕があればでいいのだけれど、大学の附属病院の方を見て来て、もらえないかしら」
まだ寝ぼけていると分かるものの、先ほどよりはいくらかハッキリした声でルージュが言う。
「そこに何か、手がかりがあるんですか?」
「……えぇ、〝何もない〟と思うわ。それを確認してきて」
「は……?」
〝何もない〟とは、どういうことだろうか。その意味を尋ねようとしても、完全に眠りに落ちたルージュは、いくら声をかけても寝息しか返さない。
「はぁ……、全くこの人は」
ノワールはため息を漏らすと、このまま一人で屋敷を出て街に行くことにした。
ノワールは寝間着を脱いで着替えると、部屋を出ようとする。が、扉を開けた時にちょうど、目の前にサラの姿があった。サラはノワールを見上げ、少し驚いたように目を開くと、一歩下がって頭を下げる。
「ノワールさま、おはようございます。もうお出かけですか? 朝食の準備もしておりますが」
「ありがとうございます。それでは朝食をいただいて、それから街に行こうと思います」
「かしこまりました、それで、そのルージュさまは……」
サラが、部屋の中を覗き込むようにして、ベッドの上でリールを抱きしめて眠っているルージュを見た。
「あぁ、今のルージュは何をしても起きないですよ。放っておけばいいです」
「そ、そうですか……」
チラチラと、何かを言いたげな表情で、何度かルージュの方を見やるサラ。しかし、不意にその表情を真面目なものに切り替えると、ノワールに向かって頭を下げた。
「……では、朝食のご用意をさせていただきますね、こちらへ」
ノワールはサラの案内の元、別の部屋で朝食を取ってから、屋敷を出た。ガニアスから借りた車に乗って、一昨日の夜に行くはずだったが、結局訪れなかった魔術大学に向かう。ルージュに言われなくとも、元々も行くつもりだった場所だ。
この街で起こっている一連の事件の最初の被害者が出た所である。そしてルージュのあの謎の言葉。きっと何かあると、ノワールは半ば確信しながら車を走らせた。
アムレート魔術大学は街中の中心地に、随分と広い敷地を取って設立されている。敷地内には、学生でなくても自由に入ることが出来るようだった。
敷地内にはいくつもの研究施設があり、魔術師やその見習いと思しき人たちが行き交っている。ノワールはスマホで事件のデータを確認しながら、まずは殺された魔術師が見つかった場所へ向かうことにした。
「ここか」
『魔術研究総合センター』という看板が掛けられた大きな建物だった。特にアポは取っていないが、ガニアスの名前を出して、事件の調査をやっていると言えば話を聞くことくらいはできるだろう。
そう思って、ノワールが建物の中に入ろうとした時、中から一人の少女が出て来る。その少女を、ノワールは知っていた。
街主ガニアスの遣いとして『幸せ屋』に今回の依頼を直接持ち込んで来た少女、リリアーナだった。
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