夜闇と血と少女



 ルージュはノワールに血を貰ってもいいかと聞いたものの、すぐに血液を取ろうとはせずに「まぁ付いてきなさい」と言って、どこかを目指すように街中を歩き始めた。

ノワールは行く先も知らぬまま、ただルージュの後に付いて行き、気付けば昨夜警衛騎士団と出会った場所の近くまで来ていた。

だんだんと日も暮れて空は薄暗くなってきており、既に辺りに人の気配はない。そしてルージュは、人目が全くない所までやって来ると立ち止まり、振り返ってノワールを見た。やけに楽しそうな顔をしており、ノワールは少し警戒するが、思えばルージュが楽しそうなのはいつものことである。

「うん、じゃあそろそろいいかしら? ノワール」

 注射器を取り出して、針の先をノワールに向ける。

「……本当に血を抜くだけですよね」

「ええそうよ、本当にそれだけ」

 ルージュが大真面目な顔でそう言うので、ノワールはそれを信用して袖をめくり二の腕を差し出す。

 ルージュは専用の消毒布で針先とノワールの肌を拭くと、躊躇なくその腕に針を突き刺し血液を抜き取った。

 ルージュは注射器に溜まった血液を見て、満足げに微笑む。ノワールは針を刺されてぷくりと血が出ている箇所をハンカチで拭った。血を拭った後、既に傷口は塞がっている。

「それ、一体どうするつもりですか?」

「まあ見てなさい。きっと面白いものが釣れるから」

 ノワールがそう尋ねると、ルージュは注射器から血を押し出しながら、正面の虚空に向けて魔術陣を描き始めた。宙に吐き出された血液は地に落ちることなく、その場に留まって形を成す。

 人間が普段使用している文字法則からはかけ離れた記号を目にも止まらぬ速さで羅列して、ルージュは最後に構成された文字列をグルリと円で囲むように描き上げた。そこでちょうど注射器中の血液が無くなる。

 空中に描き出された赤い魔術陣にそっと手を触れて、ルージュが呟くように言う。

「——【ディフシオ】」

 『ディフシオ』、魔術語で『拡散』を意味する言葉だ。

 するとその瞬間、血で描かれた魔法陣に光が駆け巡って、パッと弾けて消えた。一見、何も起こっていないように思えたが、ノワールの鼻に鉄のにおいがツンと付く。血臭が周囲に広がっている。

「僕の血のにおいを拡散させたんですか?」

「ええ、そうよ。純粋な人間ならさほど気にしない濃度だけど、かなりの広範囲に広げたわ。これならきっと釣れるはずよ」

「だから釣れるって、一体何が……」

 ノワールがそう言いかけた時、誰かがこちらに近づいて来る気配を感じ取った。その気配の異様さに、ノワールはそれがただの人間じゃないと察する。そして、かなりのスピードだ。

「何か近づいて来ますね。もしかして分かっててやったんですか?」

「ええ、思ったより早く釣れたわね。相当お腹が空いていたのかしら」

「お腹……? ってことはまさか吸血鬼ですか」

 ノワールが近づいて来る気配の正体を察した時、月明りに照らされた民家の屋根の上に、その小さな人影は現れた。一見純粋な人間のように見えるが、頭部には三角形の獣のような耳が、背中には蝙蝠のような羽が、腰の下からは先の尖った尻尾が生えている。その小柄な少女は月をバックに、赤い口腔を見せつけるように笑みを浮かべ、鋭く尖る犬歯を光らせた。少女の面立ちは逆光の上、長い前髪に隠されてよく分からない。

 少女は、屋根の上を見上げているノワールに狙いを定めると、弾丸のような速さで宙を飛んだ。少女は一直線に迫り、その鋭い牙のような犬歯をノワールの首筋に突き立てようとする。

 しかしノワールはその少女の牙を、首を捻って紙一重で躱すと、体勢を整えて、見えない刀剣を抜刀するように腕を振った。瞬間、それに合わせて黒いモヤが集まり、ノワールの手に黒い刀剣が顕現する。

 勢い余ってノワールを通り過ぎた少女は地面に滑り跡を刻みながら失速、塀の壁を蹴って方向転換し、またノワールに迫る。少女の目は血走り、息は荒く、口の端からはダラダラとよだれが流れている。

 ルージュはそんな少女を見据え、刀の切っ先を突き付けた。

「事情はよく分かりませんが、向かってくるなら容赦はできませんよ」

「——っ!」

 地を這うように低姿勢で肉迫した少女が鋭敏な爪でノワールを切り裂こうとして、そんな少女の手をノワールは刀の峰で叩き落とす。少女の顔が苦痛に歪むが、流れるように逆の手を伸ばし、ノワールの腕を引っ掻いた。まるで鋭利な刃物のような爪がやすやすとノワールの肉を切り裂いて、そこから血が流れる。

「あは——っ」

 少女は笑い声を上げると、タッと地面を蹴って大きくノワールから距離を取る。そして、爪に付着した血を赤い舌で舐める。ビクリと体を震わせ、とろけるような声で言う。その口の端から、またよだれが垂れた。

「っぅ~~~っ!!!! あっはぁっ! さいっこう! なんておいしい……、おいしい、もっと……、ほしいな」

 少女は息を荒げながらノワールを見据え、怪しくわらうと、パチリと指を鳴らした。

「——《咲け《ブルーム》》」

 そう少女が唱えた瞬間、少女に引っ掻かれて出来たノワールの傷口が、弾けたように〝開いた〟。

「っ!?」

 まるで血の花が咲いたようにノワールの傷口からは血液が吹き出し、それを見た少女が笑う。

「あはっ、もったいない、もったいない、ね、それ。はやく飲ませてほしいなぁ、それ」

「……」

 少女とノワールが対峙して、視線を交わし合う。

 そんな二人を側で見ているルージュが、興味深そうな顔で言った。

「魔術じゃないわね。へえ、『奇跡者アクシスタ』なのね。中々面白い《奇跡》だわ」

 そんなルージュの言葉も耳に入れず、ノワールは真剣な表情で目の前の少女を見て、そしてドクドクと血が流れている自分の腕を見下ろす。そして、地面を蹴って駆けだした。

 ノワールは少女から少し離れたところで立ち止まると、片手で持った刀を逆袈裟に向け斬り上げた。しかし僅かに間合いの外にいる少女に、その刃が届くことはない。——が、ノワールの腕から流れる血液が飛んで、少女の顔に命中する。その時、少女が一瞬でも目を瞑ったのをノワールは見逃さなかった。

「——っ」

ノワールが腰を落として少女の脚を払い、その小柄な体が宙を舞う。そのまま勢いに任せてノワールは少女を押し倒した。ノワールの刀の刃が、少女の首元に突き付けられる。

「動かないでください。でないと、あなたを斬らなくてはいけません」

 ノワールが静かに宣告した。前髪が横に流れ、少女の顔がしっかりと確認できるようになっていた。初めて見る顔で、一度も陽の光を浴びたことがないように肌が白い。

 ノワールは、少女の血走った金色の円らな瞳をジッと見据えた。すると、スッと熱が引いていくように少女の表情は落ち着いたものになり、その顔に不安と恐怖が混じり始める。気付けば、目の色が金色から透き通った青色になっていた。


「————っ、ひ……ぃっ、ご、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい、リールを、リールを殺さないで……っ。う、うえぇぇ、うえ、うえぇええええ……っ、ひっくっ、うぇ、うぇえええ……っ」


 次第には少女の目には涙が浮かび始め、ついにはわんわんと声を上げて泣き始める。

「え……?」

 予想外の反応にノワールは困惑して、どうしたらいいか分からなくなる。さっきまでとはまるで別人だ。

「あーあ、ノワール泣かしたわね。しかもこんなかわいい女の子を」

 ルージュがそんなことを言いながら、ノワールの所へ近づいて来る。見なくても声だけでルージュがニヤニヤと楽しそうに笑っているのが分かった。

「い、いや、ルージュこれは一体……、この子は……?」

 ノワールはルージュを見上げ、わんわん泣き叫んでいる少女に視線をやりながら尋ねる。

「その子は昨日の夜、ライガンが追いかけて行った吸血鬼よ」

 ノワールは昨夜、警衛騎士団に見つかって追いかけまわされていた謎の人影のことを思い出す。ライガンに追われて見えなくなった後、どうなったかは知らないが、それがこの少女だというのなら昨夜は逃げ切ったということだろうか。確かに、ノワールに襲い掛かって来る時のこの少女のスピードは凄まじかった。

「なんでそんなことが分かるんですか?」

「だって、昨日実際に見たじゃない。おんなじ子よ」

 そうは言うが、昨夜ノワールが見た時には、逃亡する人影はかなり遠くにあり、どんな人物までかは分からなかった。

 しかし、ルージュの目の良さが異常であることも確かである。きっとルージュは、昨日の時点でシルエットからこの子が吸血鬼であることを見抜いていたのだろう。

「吸血鬼……。では、まさかこの子が街で起こっている変死事件を起こしてるってことですか?」

「たぶん違うわ。昨日言ったでしょう、事件には関係ないって。この子にあれだけの所業を成し遂げる力はないわ」

 確かに、いくら吸血鬼でも、魔術師に一切の抵抗を許さず毎晩殺していき、血と心臓を抜き取り、その痕跡を残さないなんて芸当は不可能に思えるが……。

「でも、絶対違うという根拠にはならないのでは」

「そうね、確かにそうだわ。じゃあ実際に聞いてみましょうか」

 ルージュはノワールに動きを封じられている少女の側にしゃがみ込むと、少女の金髪を梳くように撫でる。

「大丈夫よ、泣かないで。私たちはあなたに無理に危害を加えたりしないわ、もちろん大人しくしてくれたらね」

 そんなルージュの言い聞かせるような声音に、泣き喚いていた少女は次第に泣き止んで、それを見たノワールが拘束を解くと、大人しくなった。

「ほ、ほんと……?」

 ひっくひっくとしゃくりあげるようにしながら少女は地面に座り込んで、涙を拭った。潤んだ瞳で、少女はルージュを上目に見つめる。少女の頭部にある三角の獣耳は、元気がなくなったようにペタンと垂れていた。

 そんな少女を見て、ルージュの口元がだらしなく緩む。

「かわいいわ、なんてかわいいの! あなた、お名前は? 歳はいくつかしら? コスプレに興味はある?」

「り、リールは、リールって言うの。今は多分十二歳。こ、こすぷれ……ってなに……? ご、ごめんなさい、リール、わ、わからない……」

「リールっ! とっても素敵な名前ね。リールに似合っていて可愛らしい名前だわ。そして十二歳なのね、最高だわ。なんてかわいいの!」

 危ない笑みを浮かべてリールの頭を撫でているルージュを見て、ノワールはルージュを警衛騎士団に突き出そうか真剣に悩む。

 その時、通りの角を曲がって表れた人影が、こちらを見て警戒したように叫ぶ。着ている服から判断するに、警衛騎士団の団員だ。

「おいお前ら! そこで何をしている!」

「警衛ね、面倒だから逃げるわよ」

 ルージュは素早くリールを抱きかかえると、近くにある路地裏へ入った。ノワールもそれに続く。警衛の団員が慌ててそれを追いかけるが、彼がルージュたちに追いつくことはなかった。

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