第15話 鋼鉄の背骨 Steel_Spine. 08

 そんなものなのかね。

 考えたことは一度もないけれど、働いている人間からしてみれば、働いていることに喜びを感じているものなのだろうか? だとしたらそれはマゾヒストの仲間入りをしていると思うし、すぐさま病院を受診した方が良いと思う。苦労は買ってでも買え――そんな古い言葉があるような気がするけれど、しかしながら、買ってまでして得た苦労に、何の価値があるのだろうか? 苦労することで人生経験を積むことが出来るなんて言っている人も居ることは居るけれど、人生経験を積むこと、イコール、苦しいことではないような気がする。

 楽しいことで人生経験を積んだって、別に悪い話じゃないと思う。

 一度きりの人生なんだし、少しは楽しまないと。

 ゲームみたいに、ゲームオーバーした地点からやり直し出来る訳じゃあるまいし。


「ここで現実とゲームをごっちゃにさせるのもどうかと思うけれど……、でも、人生経験が辛いものばかりではない、というニュアンスについては概ね正しいでしょうね。だって、辛いことが人生経験だったとするならば、成功経験は人生経験に繋がらないということになる訳だし、だとしたら、それっておかしなことになるのだから。失敗をしないと良い人生じゃない、なんて言っている学者は何処にも居ないし、ライトみたいに無職で暮らしている人間は、それこそごまんと居る訳なんだから」


 何だろう。少しだけぼくのことをディスられたような気がする。

 気のせいだな。無視しておこう。


「そのポジティブシンキングは少し見習っておくポイントかもしれないけれど……。まあ、それはそれ。これはこれ。ライトの価値観とわたしの価値観が同一な訳ないし、ライトが正しくないと思っていても、わたしは正しいと思っている訳。その線引きとして、常識なりルールなりが存在しているのだし」


 難しい考えだよな、と僕は嘯く。

 結局の所、人生というのは山あり谷ありであるべきなのだ――というのは学者の意見ではあるけれど、しかしながら、必ずしも百人居たとしたら百人の人生がそうであるとは限らない。山を登るだらけの人生もあれば、谷を下るだけの人生もある。

 要するに、イージーモードとハードモードであるかの違い。

 そして、その選択は生まれた時から出来る訳でもないし、もしかしたら出来ることもあるかもしれないけれど、大体のレールは生まれた時から既に敷かれている。あとはそれに沿って行動していくだけに過ぎない。そして、ある段階で選択肢が生まれて――ちょうどレールの分岐点の如く――分岐していくという訳だ。ノベルゲームのルート選択みたいなものだな。

 しかし――イージーモードで生きていた人間と、ハードモードで生きていた人間も、全員人生経験は得ているはずだ。同じ二十年間生きているとしたら、イージーモードだろうがハードモードだろうが、ある一定の人生のイベントはクリア或いは通過しているはずだろうし、そのイベントについてもある程度の結果を得ているはずなのだから。それが成功しているか失敗しているかはその人の気分や努力など――様々なステータスによって変化する訳だけれど。それによってイージーモードだった人間がハードモードに、ハードモードだった人間がイージーモードにモードチェンジすることも、或いは可能なのかもしれない。それを掴む可能性は、ほぼゼロと言って差し支えない訳だけれど。

 結局、人生というのは生まれた時から、既に息絶えるときまでのルートが出来上がっている。そして、この世に生を受けてからはずっとそのルートに沿って進んでいくだけ。努力というのは、そのルートでどれだけ楽をしていけるかという、ただの追加要素に過ぎない訳だ。


「人生の意味を今更とやかく言うのもどうかと思うけれど……。それに、どんな高尚な学者だって、人生の意味に辿り着けた人なんて居ない。正確に言うと、何人かは到達してそれを書物なり論文なりに書き記した人も居ることは居るけれど……、それはあくまでその人にとっての、という但し書きが付く。但し書きが付いていない、ほんとうの意味の人生とは何か? という問い、その答えに誰も辿り着けていない……というのが実際のところよね。そういうことを考えることを仕事にしている、学者ですらそこに辿り着けないのだから、わたし達一般人が辿り着ける訳もない。もし辿り着いたと宣うなら、それはきっと学者としての才能があるのかもね。学者というのは、自分が見つけた法則を――それこそ、どんな些細なことでも――それが如何に正当性を持っているかどうかを難しい文言を用いて発表し、それを権威にする存在なのだから」


 それは間違っているようで間違っていないような気がするけれど――しかし、それを学者に聞かれたらどういう反応をされるのだろうな? 少なくとも論戦に持ち込まれることは間違いなさそうだ。それこそ、彼らが得意とするディベートに持っていかれるだろうな。


「あら、わたしはディベートも得意なのよ。ちゃっちい学者だったら、言い負かすことも出来るかもね」


 ……その自信は一体何処から出て来るのだろうか? 自信があるということは、それなりに実力を持ち合わせているということになるのだろうけれど、普通専門家と戦っても勝つことが出来る――なんて言う人は居ないぞ。それこそ、相手が初心者や新人や耄碌した人間なら、未だ勝利に持ち込める確率が上がるかもしれないが。上がったところで、ぼくには勝利の道筋が見えてこないので、挑まない。そもそも、負けが決まっている勝負にはわざわざ挑まないのが、ぼくのスタイルでね。だって時間と体力の無駄だし。


「……人生なんて難しいことはおれには分からねえけれどよ、楽しければそれで良いんじゃねえのか? 楽しく過ごしていりゃ、側から見てハードモードだと思っていても、本人はイージーモードかノーマルモードだと自覚していりゃ、それまでな訳だからな。それに……」

「それに?」

「……わざわざそんな小難しいことを考えなくても、生きていくことは出来るんじゃねえか? どうしてそんなことをするんだ? それこそ、茨の道を進むが如くの振る舞いに見えなくもないが」


 何故だろうね。

 時間が有り余っていると、こういうどうでも良いことを覚えたくなったり考えたくなったり話したくなるのかもしれない。きっと仕事に就いていれば、それもまた違った解釈で捉えられるのだろうけれど、いかんせん、ぼくはそこまで考えてはいない。仕事に就いて何をすれば良いんだ。別に働かなくても飯は食えるんだし。かつては働かざる者食うべからず、なんて古い言葉が伝わっていて、仕事をすることが美徳なんて言われていた時代もあった訳だけれど、ベーシックインカムが導入されてからは、別に働かなくても良いじゃん、っていう考えをする人が大幅に増加して、気付けばその言い回しも死語になっていた。文化というのは廃れもあれば流行りもあるし、それぐらいは仕方がないことではあるのだけれど。


「……ま、人生ってのは人それぞれだしな。誰がどういう風に歩もうとも、おれには関係ないし、あんた達にも関係ないだろ」


 確かに。

 リッキーは時折鋭いことを言うな――ぼくは度々そう思った。とはいえ、リッキーと出会ったのは今日が初めてのことであるから、その時折という意味も正しいのかどうか分からないのだけれど。それぐらいは許容範囲ということで。

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