15. 包丁一本

「久しぶりだな、環」


 スープの最後の一口を飲み終えた深影が空になったどんぶりにレンゲを置く。かつん、と冷たい音が鳴った。


「みっ深影!? なななななぜお前がここにいる!?」

 

 環らしからぬ大声に澄人は驚いて環と深影を見比べる。


「知り合いなんですか」

 

「一体どうやってここを見つけた! ぬおっ」

 

 一歩踏み出した環が卵液で滑って背中から派手に転倒した。

 エコバッグに収まっていた、カボチャやネギが散乱する。きゃあ、と後ろの女子高生たちが声をあげ、大丈夫ですか、と環に集まる。体を起こした環の背中から黄色に光る羽根が抜け落ちた。


「た、環さん!?」


 澄人は狼狽して椅子から立ち上がった。深影の話が本当ならば、今まさに環の寿命が切れてしまったということだ。


「深影さん、大変です。環さんの羽根が」


「くそ、また抜けたか」


 環がぼんやりと光る羽根を掴んで割烹着のポケットにねじ込む。

 

「問題ない。あれは飾りだ」


「ええ!?」


「うるせえ!」

 

 澄人が声を上げたのと、明海が業務用の巨大な木ベラで澄人の額を突くのはほぼ同時だった。

 

「いっ」

 

「さっきからうるせえよ! 騒ぎてえなら外に行け!」

 

 酔っ払いのような体勢で椅子に崩れ落ちた澄人を、明海が金剛力士像のごとく見下ろしている。

 しん、と静まり返った店内で、グツグツとスープの沸き立つ音と共に「どうぞ写真判定の発表まで勝ち馬投票券はお捨にならないようお願いします」とラジオからのどかな声が流れてくる。

 

「ああもう、最終終わっちゃったよ」

 

 明海が拗ねた様子でラジオのボリュームを上げた。最終結果を聴きたいようだ。

 

「環、話を聞かせてもらおう」


 深影が静かに立ち上がる。


 深影が向かったのは商店街の裏手の路地に面した駐車場だった。土で均してある敷地はわりと広く、左右中央に五台ずつ車が駐車できるよう、ロープが張ってあるが、目をこらさなければ見落としてしまうほど土に汚れている。澄人はここに三台以上の車が止まっているのを見たことがない。隣接する古い木造アパートとの境のコンクリ塀に「月極・梅屋敷不動産」と錆の浮いた看板が掛かっているものの、一見すればただの空き地のような場所だ。

 その空き地の中央で環に対峙する形で深影と澄人が並ぶ。

 バイト中の控えめな環とはまるで別人だ。背筋はピンと伸び、見下すようにこちらを睨んでいる。

 

「おかしいと思っていたぞ。寿命越えしてた泉寿寺の坊主がいきなり死んだと聞いたとき。あれは深影、貴様の仕業だな」

 

「やつの寿命は二十余年も過ぎていた。気づいていたのならなぜ放置していた」


「部外者のお前が口を出す筋合いではないだろう? 月の台の管理はこの俺に一任されているのだ。貴様にはわからぬかもしれんが、人口が多い地区はトラブルも起こりやすい。当然他の管理を優先することもあるさ。何しに来たのか知らないが、たまたま寿命越えを見つけたからといって泥棒猫のようにこちらの仕事を横取りするのは止めてもらいたいな。こちらにも管理方針というものがあるのだぞ」

 

「あなたたち、仲間だったんですか……」


「仲間ではない!」

 

 環が間髪入れずに反論し、深影が静かにため息をついた。


「環は同業者だ」


「でも環さんには羽根が」

 

「羽根? なぜ羽根のことを知っている。深影! こいつに何を話した」

 

「行きがかり上、簡単に羽根の仕組みとラサツのことを説明してある。見えているのだから仕方あるまい」

 

 勝手な真似を、と環が吐き捨てる。

 

「あの、僕はもう家に帰っていいですか」

 

 これ以上、こんな話を聞いていたら頭がおかしくなってしまうかもしれない。

 

 ——いや、そもそもこれって夢なんじゃないか? 予習の途中で寝落ちしたとか


 深影がこちらを見ている。


「なんですか」

 

「取りあえずはそう思っておけ——ところで環、さっき付けていた羽根はなんのつもりだ」

 

「こいつの注意を逸らすためのカモフラージュだ。あくまでもラーメン屋のバイトという仮の姿に疑いを持たれたくないからな。念のため言っておくが、管理業務の備品として正規に入手したものだぞ。しかも寿命設定のない貴重品だ。仮止めしているだけだからすぐに抜けてしまうが」


「そこまでしてあのラーメン店に就職したかったわけか。こちらの仕事に退職届けを出してからが筋だと思うが、それはこの際目をつぶろう。なぜなら環、お前は近々月の台の担当を外される予定だからだ。引継は私に行ってもらう」

 

「担当から外すだと!? なぜ俺が」

 

「当然だろう。昨年から月の台の状況は散々たる有様だ。この界隈だけで寿命前の人間が立て続けに死亡している。それなのにお前は最初の三件の不審死亡者報告を入れたきり、問い合わせても調査中としか返さない。その上最近では所在も不明。先週の太田留実の死亡で被害が九件目になるに至り、私が状況調査の命を受けた。お前の所在を突き止め、調査状況に芳しい進展がなければ解任を通告し、担当を引き継ぐようにとのことだ。そこでお前の所在を調べてみたが、まさかラーメン屋でバイトをしているとは呆れたことだ。しかし新しい職があるのならこの仕事にも未練はないだろう。早速解任要請を提出するが、異論はないな」

 

「ふざけるな! 誰が好き好んで人間の職に鞍替えするか! この姿は調査のための変装に決まっているだろう。調査報告を滞っているのは、詳細を求められていないからに他ならない。たかだか人間が数人死んだ程度でなぜそう大げさに報告する必要がある? 芳しい報告が必要だというなら、この件は解決目前だ。元凶の目星はすでについているのだからな」

 

 環は澄人に顔を向ける。

 

「え、僕?」

 

「貴様が来なければ後はこいつが尻尾を出すのを待つばかりだったのだぞ。しかしこうなったからには仕方あるまい。即刻この元凶を排除する。貴様は報告代わりにこいつの首でも持ち帰るがいい」


 環が割烹着を脱ぎ捨てると、澄人の腕を素早く掴んで背中に捻りあげる。さらしに巻かれた包丁がベルトに収まっているのが一瞬見えた。


「何するつもりですか!?」


「避けると急所がはずれるからな。暴れるなよ」


「根拠はあるんだろうな」と深影が腕を組む。薄情なことに助ける気はないらしい。歩道の通行人を求めたが、運悪く人通りがない。背筋にざらつく悪寒が走り、またしても空間が切り取られたような感覚に捕らわれる。

 環の解いたさらしが湿った黒い地面に落ちる。澄人の眼前で筋切包丁が細く夕日を反射する。

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